第44話 もう一つの旅立ちの時


 木漏れ日が降り注ぐ早朝の森林は、歩く者の心が洗われるほどに清々しい。

 されどここは【深淵樹海アビッサル】。一歩足を踏み入れれば死に至り、運よく二歩目を踏み出せても次の瞬間には変わらず死が待っている。外の世界では名だたる武の達人であっても、ここでは単なる餌同然の存在に貶められる。

 知が欠片ほどでもあるものであれば、決して立ち入らない禁忌の領域だ。

 いつも通りに凶悪な森の中を、これまた目立つ白いローブを身に纏った少年が鞄を背負って歩いていた。


「……うん。旅立つにはちょうど良い快晴だ」


 身の丈は、まだまだ成長の余地を残しているほどに幼い。

 そんな彼の服と同じく純白の前髪の下には、引き締まった精悍さと未熟な子供のような優しさが掛け合わさった顔立ちが覗いている。


「おっと」


 彼の深紅に染まった眼が、目前に一つの巨大な魔獣の影を捉える。

 通常のものとは異なり、腕の両端に鋭い鎌を持つ昆虫種――【四鎌蟷螂クアトマンテス】だ。

 顎をわしわしと動かしていることから、どうやら獲物に飢えているようだ。

 一度その鎌を振るえば、周囲の障害物ごと対象は気づかぬままに八つ裂きにされるに違いない。

 だが、彼は臆した様子すらなく、道の正面にいた巨大蟷螂へと無防備にも見えるような態度で近づいていく。

 腰に備えた銀色に輝く木剣を抜く気配もない。

 ゆらゆらとローブの裾をはためかせながら歩く少年は、一歩、二歩と蟷螂との距離を縮める。

 ――しかし、蟷螂が獲物に気づいた様子はなかった。

 彼が近づく前と変わらず、そのびっしりとした複眼が周囲全体を監視して蠢いている。


「……」


 不思議なことに蟷螂は彼の姿をまったく捉えられていないようだった。

 彼はそのまま、蟷螂の足元まで近づいたところでひょいと屈みこんだ。

 そうして、地面に落ちていた何の変哲もない石ころを拾い上げて腰の小袋に収める。

 再び立ち上がり、彼は来た時と同じように悠々と道の向こう側へと歩いていった。

 最後まで蟷螂は、少年の姿を捕らえた素振りを見せず。

 やがて次の場所で獲物を探そうと、のそりのそりと歩いていった先で――別の五つの頭を持った大犬に喰われて死んでいった。

 バキリバキリと硬い甲殻が噛み砕ける音を遠目に聞きながら、彼がぼそりと呟く。


「……ふぅ。ちょうど調合用の触媒がもうちょっと欲しかったところだったんだ。よかったよかった。こことはお別れだから、きちんと持てるものは持ってかないとね」


 近くに成っていた果実を魔力で編んだ糸で回収し、頬張って少年は笑った。


「むぐむぐ、ごくんっ。それじゃさっさと帰ろうか。そこまで切羽詰まってるわけじゃないけど、せっかくの記念すべき旅立ちの朝だ。予定通りに出発しないと、お姉さんに油断していると怒られそうだしね」


 今も彼とは違う場所で奮闘しているであろうはずの二色の瞳に睨まれた予感がして、彼は肩を竦める。


「ちゃんと成長しているってところを見せないと」


 そう呟いて、彼――ラスト・ドロップスは足元に展開した魔法陣で住み慣れた黒屋敷へと姿を消した。



 ■■■



「んしょっ、と」


 屋敷の外へ出たラストは、肩に背負った荷物の感触を今一度確かめる。

 いつでも亜空間へと繋がる魔法を行使できるエスと違って、彼にはそんな魔力の余裕はない。

 きちんと手に持てるものは持たなければならず、出立の準備も前日の内に済ませている。

 ここで手に入れ、作り上げたものの中から優れたものだけを選りすぐって、残りは残念ながらお留守番だ。


「準備は万端。……よし、始めよう」


 ラストが門の前に描かれた魔法陣の中心に立つ。

 魔力の充填を済ませた水銀と宝石の粉末で構成されたそれは、彼が屋敷に帰ってきた時に使ったものと同じ転移魔法陣だ。

 ただし、その規模が異なる。

 先のものは彼が両手を広げた程度の大きさだったが、今ラストが踏みしめている魔法陣は優にその十倍はあろうかという大きさだ。

 加えて周囲には更にいくつかの補助的な効果を持つ魔法陣が六つ、星を描くように配置されている。

 それらに代入された数値をちらりと眺め見て最終確認を終えた後、ラストは鍵となる足元の陣に指先程度の魔力を注入した。


「――抽出魔法陣、起動」


 切っ掛けとなる第一の魔法陣が起動する。

 ほんの小さなその呼び水から、瞬く間に溢れ出る龍脈の魔力があらかじめ用意されていた水路を駆けあがっていき、連鎖的に魔法を起動させていく。


「転移先の座標設定に問題はない。各補助魔法陣も順調に目覚めてる。これなら、今度は腕を吹っ飛ばされたりせずに行ける」


 懐かしい自分の失敗が、ふと彼の頭に蘇った。

 必死こいてあの時の自分なりに忠実にお手本を真似していたはずが、今思い起こせばかなり粗雑なものだ。陣を構築する線は太さがまちまちであり、所々に流れが澱んだ魔力だまりが出来て暴発するのが簡単に想像できる。

 もし今の力量がかつてと変わらないままなら、今度はラストの身体は転移の過程で爆散してしまうだろう。

 無論、そんなつもりは毛頭ない。

 彼は確信をもって、効果を順次発現させていく魔法陣の光を眺めていた。


「……久々の人間界だ。たった六年、されど六年。大きく変わっているのかどうなのか、今から楽しみで胸がいっぱいだ。前に贈り物を買いに行った王都の花屋さんは、今もあるのかな?」


 徐々に強さを増していく魔力の光の中で、ラストは懐かしき記憶を思い返す。

 その記憶の大半はブレイブス家での辛い鍛錬がほとんどだが、それ以外にも楽しかった記憶は存在する。

 誕生日を迎えるいとこを驚かす目的でこっそりと買い物に出かけたこともあった。

 王城で初めての舞踏会に臨んだ際に聞いた音楽は、まさに天上の調べだった。

 それらは今も変わらず、残っているのだろうか。

 ――そして、かつて自分を捨てた両親はどうしているのだろうか。

 それも、気にならないと言えば嘘になる。

 果たしてラストを捨てたことを悔いているのだろうか、それともなんとも思っていないのか。


「まあ、どっちでも良いけれど」


 そう、彼は憂いていた心をあっさりと締めくくった。

 過去に囚われるのは、とっくに止めている。

 そんなことに一喜一憂するよりも大事なことが、今の彼の胸には宿っている。


「僕はただ、前に進むだけだ。お姉さんの背中に、早く追いつけるように。あの人たちのことは、その途中にちょっとでも知ることが出来ればそれでいい」


 視線の先に浮かぶのは、いつだって彼の先に立っている麗しき褐色の女性。

 新たな【英雄】の先導を務めて、振り返りながらこちらを紅と藍の双玉で優しく見守り、時には蜂蜜色の髪を振りまいて笑いながら厳しく接する【魔王】。

 この五年で新たに何歩か近づくことは出来たものの、まだまだ彼女の背中は夜空に浮かぶ星のように遠い。

 【魔王】エスメラルダ・ルシファリアは、いつだって彼にとっての導き星なのだ。

 その輝きの前には、過去の影など及びもしない。


「行ってきます。次はきっと、あの人と一緒に戻ってくるから」


 最後に世話になった屋敷に別れを告げて、彼は光の中に姿を消した。

 そんな彼の挨拶に応えるように、今日も屋敷の高くに【魔王旗章ディアボラック】がはためく。

 あとに残された魔法陣が、力を使い果たして塵となっていく。

 僅かに残された座標が、彼の向かった先を指し示していた。

 ――そこはかつての【英雄】の出身地にして、現【英雄】が籍を置く人間世界の列強が一つ。

 純然たる正義を夢見て希望の旗を掲げた英傑を称える、歴史ある大国。

 その名を、人々はユースティティアと呼ぶ。

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