第43話 旅立ちの時


 初めての艶事を終えた次の日、廊下を歩くラストの姿は妙にぐったりとしていた。

 若い身体はとっくに回復しているものの、彼には昨夜の出来事は余りに刺激的に過ぎた。初めての精通を迎えて以降の記憶はもはや定かではなく、濃密な一夜を経た彼の精神には睡眠をとってもなお重い疲労感がのし掛かっていた。頬がやつれているように見えるのは、あの手この手で搾り取られた証拠だ。

 一方のエスはと言えば、肌をつやつやとさせながら浮足気取りで彼の前を歩いている。

 ついでとばかりに目覚まし代わりの朝一番も済ませた彼女はもう、色々と絶好調だった。


「ふんふんふふーんっ」


 鼻歌交じりに屋敷の廊下をすたすたと進んでいく彼女の後ろで、ラストは重い腰をさすりながら考える。

 ――これでまだ本番・・を迎えていないのなら、本当に最後までやりきった時には生きて朝日を見られるのだろうか。そのまま満足して、ベッドの上で今度こそ死んでしまうのではなかろうか、と。

 そんな情けないことを考えていると、エスがふと立ち止まって壁を見る。

 そこに掛けられていたのは、つたなくも書き手の強い意志が込められたエスの写生画だ。 


「ふっ、懐かしいな。練習のつもりが、いつの間にか君が本気になって描いた絵だ」

「あっと……あの時は迷惑かけてすみませんでした。まさかあんなに長い時間描いていたとは思わなくて」

「あの後余も散々付き合わせたからおあいこさ。そうだな、こいつも持っていこうか。これを見ていればいつでも君を傍に感じていられる」


 そう言って、彼女は指を鳴らして額の中から白黒の自分を別空間の倉庫へとしゅるりとしまい込んだ。

 その中にはとうに必要な荷物が全て放り込まれている。彼女曰く無限の容量を誇る空間倉庫を使えば、わざわざ折り畳んだりといった荷支度をせずに済む。彼女は朝の着替えの間に、指パッチン一つであっけなく出発の準備を済ませていた。

 後は屋敷の外に置きっぱなしのシルフィアットを拾うだけだ。

 彼女を迎えに玄関へ歩いていると、時折屋敷に刻まれたラストとエスの記憶が垣間見られる。


「おや、これは君が並列魔法の練習で失敗したときの焼け跡だな」

「あうっ。これも、その、すみませんでした……本当に、何度もやらかしてしまって」

「ははっ、成長に失敗はつきものだからな。ここに落ちてるのは、あー、魔道具の部品だな」

「確か魔法陣の重ね掛けで失敗して爆発したときのですね。ほら、お姉さんの作ってた義眼の……」

「核水晶の破片か! 踏んづけたら危うく破裂するところだったな、危ない危ない。んで、こっちは……」

「それはですね……」


 どちらかと言えば、屋敷に目に見えて残る記憶はラストの失敗によるものが多い。

 数々の練習の際につけた傷跡は、よほどのものを除いて補修されていない。

 だが、それらは逆に彼がこの一年弱の間に積み重ねた努力の証明でもあった。


「すっかり君もこの屋敷に馴染んできたな」

「それは、はい。そうですね。最初の内は転移先に迷ったりもしましたけど、今はもうそんなことはありませんし」

「そうだなぁ。どこにいるかと思えば地下のがらくた部屋にいた時は驚いたぞ。魔王城に仕掛けていた触手罠のお試し版に弄ばれていた光景は、いやぁ眼福だったとも」

「あれがあったから絶対に屋敷の構造を覚えようと頑張ったんですよ……」


 蓋をしていた嫌な記憶が蘇りかけたのを再び押さえつけながら、ラストはため息を一つこぼす。

 形容しがたき例の罠の完成版に、かつての【英雄】たちの誰かも引っ掛かったのだと思うと彼は思わず合掌したくなった。


「そうは言ってもなあ。余と君はもう体の隅々まで見せあった仲だぞ? あの程度じゃもはや恥ずかしくなんてないだろ。それに君がシルフィアットに仕掛けたのだって、余のに負けず劣らずの凶悪さだったぞ」

「それとこれとは話が別ですっ! シルフィアットさんは敵だったし、仕方ないんです!」

「いや、あれの一覧を見せられた時は割と余も引いたぞ。安心しろ、余も君も同類だ」

「なんででしょう、嬉しいはずなのにあんまり嬉しくないです……」

「ふははっ、順調に余の色に染まっているようでなによりだ!」


 悩むラストの頭をエスは笑いながら撫でる――その感触を堪能できる時間も、後少しだけだ。

 ラストが別れを惜しむ心を押し留めながら普段と変わらないやり取りを堪能していると、いつの間にか彼らは屋敷の門の前へと辿り着いていた。

 外へ出ると同時に、記憶に新しい銀の羽毛が駆け寄ってくる。


「ああっ、いけずですわ主様っ! わたくしを放置してお休みになられていたなんてっ。再びこうして顔をお見せになられるのを、今か今かとお待ちしておりました――へぶっ」


 待ち構えていたシルフィアットが飛び込もうとしてきたのを重力の魔法で地面に押さえつけながら、彼女がくるりと振り返る。

 むぐぐと起き上がろうとする部下をよそに、エスがぽんとラストの肩に手を乗せた。


「ラスト君。余から本当に最後にもう一つ、贈り物があるんだ」

「これまでで色々たっぷりと貰ってるのに、まだなにかあるんですか?」

「ああ。これはもうちょっと先になったら絶対必要になってくる。……今の君はほら、家名を捨てただろう? それじゃあ人間界あっちでやっていくのになにかと不都合かと思ってな、考えておいたんだ。その辺り、実は君の方でもうなにか考えてたりするか?」

「あ、いえ。そこまではまだ、考えが及びもしてませんでした。もらえるのなら、ありがたくいただきます」


 家名というのは、その人間の出自を保証するものだ。

 貴族であればどれほど高貴な身分なのかを判断する材料になり、平民でも出身地を家名として名乗ることでざっくりとした自己紹介になる。

 それがないということは、根無し草として怪しまれることになる。

 人間界に行って必要になった時に咄嗟にその場で考えるよりは、あらかじめ準備していた方が良いに違いない。


「よし。ではこれより君はラストの後にこう名乗ると良い――ドロップス、とな」

「ドロップス……ですか?」


 ラストにとっては初めて聞くことになる言葉だった。

 しかし、その耳に残る響きは彼にとって何故かしっくりときた。

 いったいどんな意味があるのだろうかと彼が考えていると、なんとか高重力の範囲外へと逃れた土だらけのシルフィアットが答えた。


「うふふふっ、人間にはお似合いの名前ですわねっ! ドロップス、落ちこぼれだなんて生意気な子どもにはお似合いで――」

「やかましい」

「ぶぼっ!」


 口を挟まれたことに怒りを抱いたエスによって、今度の彼女は顔面までまるっと地面に埋められた。


「余とラスト君の大事な時間を邪魔するな、次は地の底まで沈めるぞ、っと。まああながちあいつの言った意味にも間違いはない。ドロップってのは古の言葉で落第者って意味があるからな」

「あはは……確かに、ブレイブスから追い出された僕にはぴったりの名前ですね。ですが、それだけじゃないんでしょう?」

「もちろんさ。東方の諺には、雨垂れ岩を穿つというのがあってだな。この雨の一粒一粒もまた、同じくドロップと発音するんだ。……小さな雫でも幾度となく重なれば岩さえ壊す。弱い落ちこぼれでも努力を積み重ねて、強きものを打ち砕く。まさに君にぴったりだと思ってな。だから、複数の雨粒ドロップの集まり――ドロップス。どうだ、気に入ってくれそうか?」

「……はい! ありがとうございます!」


 ドロップス、その新たな名字を彼は何度も心の中で繰り返した。

 ラスト・ドロップス。新たな自身の名に、彼は喜びを露わにして顔を綻ばせた。

 彼の歩みを形にしたような名前には違和感の一つもない。

 むしろ敬愛するエスから貰ったものとくれば、感慨もひとしおだ。


「よし! これでこの屋敷でやることは本当に全て終わったな。気に入ってくれたようでなによりだ。いずれその名が魔族界こっちにまで聞こえてくる日を楽しみにしているぞ」

「もちろんです!」

「良い返事だ。それじゃ、お別れの挨拶をしよう――ちゅっ」

「んっ!?」

「じゃあな。今度は君からのを、期待しているぞ」


 最後に淡い接吻を残して、悪戯っ子のように笑いながら彼女はシルフィアットを連れて転移で去っていった。


「……あー、びっくりした。いつものことと言えば、そうだけど」


 唇に残された、甘い残り香を口惜し気にそっとなぞる。 

 彼女は最後まで怒濤の嵐のようで、そしてあっさりと別れていった。

 それはまるでラストとの別れを大したものだと思っていないようで、彼の心に残る寂しさとはまるで逆だ。

 ――だが、それは彼との再会が確実なものだと信じているからこその気軽さなのだ。

 ラストは己の心に吹き込む冷たい朝の風をきゅっと我慢して、屋敷へと振り返る。

 雄大な漆黒の屋敷は、初めて見上げた時と変わらずどっしりと彼のことを見下ろしている。


「そういえば、最初は知らない間にエスさんに抱っこされて入ったんだよなぁ……」


 それからも彼は、ずっと彼女に付き添われながら歩いてきた。

 だが、これから先のしばらくの間は一人で歩いていかなければならない。

 そのことに対する心細さや不安はある。

 それでも、その先にエスが待っているのだと思うと、前に踏み出さずにはいられない。


「あの人の背中に絶対に追いついて、今度は僕の方からお姉さんの手を取ってみせるんだ!」


 そう決意を新たに表明して、新たな名を得たラストは自分の足で屋敷の中へとぐっと足を踏み入れた。




 ――そして更に五年の月日が流れ、彼にもまた旅立ちの時が訪れる。

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