第41話 戦いを終えて


 死そのものから気力で蘇って精魂尽き果てたラストは泥のように眠っていた。

 全身からぐったりと力を抜いてひたすら回復に努める彼は今、エスの膝枕に頭を抱かれている。

 エスはラストに寄り添うように彼の額を何度も撫でさすりながら、慈愛の瞳で彼を見下ろしていた。

 荒れ果てた周囲の惨状には似合わぬ穏やかな空間を醸成する、そんな彼ら二人の前でもぞりと一つの影が動いた。


「……ううっ」


 呻き声を上げながらのそりと起き上がった影は、ぶるりと顔を震わせて意識を覚醒させる。ふわりと生えそろっていた純白の羽毛が揺れた。

 その羽根の持ち主は、他ならぬシルフィアットだ。彼女は自分が地面に寝そべっていることを自覚すると、瞬時になにが起きていたのかを思い出して飛び跳ねるように起き上がった。

 拳を握りしめながら取り急ぎ周りを見回して、彼女はすぐに憎むべき相手を見つける。


「そうでしたわっ! 殺してやるっ、人間――」

「おい」


 寝ていることを良いことに咄嗟に殺しにかかろうとした彼女の身体が、ぴたりと縫い留められる。

 表情を冷徹なものに一転させたエスの、研ぎ澄まされた刃のように冷たい声の前に彼女は冷や汗が流れるのを止められなかった。

 声をかけられるまで、彼女はラストに膝枕をしている敬愛すべき主のことにすら気づいていなかった。その様子から、シルフィアットの彼に向ける憎悪が並々ならぬものであることが容易く伺える。

 しかし、その報復に燃える感情さえエスの言葉の前には凍り付いてしまう。


「寝ている子を起こすなよ。もしラスト君に何かするというのなら、今度は余が相手になろうか? 魂の死すらマシとも思える苦痛を、その身にたっぷりと刻み込んでやる。それが嫌なら、その拳を下ろせ」

「……申し訳、ありませんでした……。冷静さを失ってしまいっ、つい……」


 ギリギリと歯を食いしばり、頬を羞恥と怒りに染めながらなんとか彼女は握りしめていた拳を解いた。

 もちろん内心では先の屈辱的な決着に納得など出来ているはずもなく、彼女の頭の中にはやり場のない激昂の炎がらんらんと燃え盛っていた。

 だが、エスの前で自ら認めた敗北を覆すわけにもいかない。

 しぶしぶ膝を地に着け、頭を落ち着かせようとしながら彼女は血の滲むような力の入れようでラストのことを睨みつける。ありったけの殺意と執念を乗せた視線を彼にぶつけるが、当の本人はどこ吹く風と言わんばかりにすやすやと寝息を立てていた。

 どうやらエスに包まれている感触がよほど心地良くて安心しているらしく、シルフィアットの射殺すような視線なぞは意にも介していないようだ。


「その眼も止めろ、シルフィアット。せっかく治してやった身体を自ら傷付けるつもりか」

「え? そういえば、痛みが……」


 エスに指摘されたことで、彼女ははたと自分の身体の傷がすっかりなくなっていることに気が付いた。

 ラストの【白棘降雷ハクギョクコウライ】によって刻まれ続けていた雷撃が嘘のように消え失せ、すっかり屋敷を訪れた時と同じような白い輝きが戻っている。


「仮にも余の技だからな。治し方は十分に心得ている。とはいえ、お前は気に入らなかったようだな」

「そ、そのようなことは決して! これはただ、その……我を忘れていたというか、決して主様のお心遣いをないがしろにするつもりなど毛頭なく、あの……どういうことかというとでございますと……」


 答え方に迷ってしどろもどろになりながらなんとか言葉を繕おうとする彼女に、エスは冷たい顔を反転させてからからと笑った。


「ふっ、冗談だ。……だが、その様子だと十分に心に刻み込んだようだな。人間の恐ろしさというものを。たかが人間と侮っていると、かつての魔王軍の幹部でさえ痛い目を見るってな」

「それは……はい、主様の仰る通りですわ」

「恐らくは今世でも指折りの強さを誇るお前でさえ、不覚を取る。これでは人間との戦争など、まだまだ時期尚早だと判断せざるを得ないな」

「うぐっ……」


 まさか全ての人間がラストのような無茶苦茶な存在であるわけがないと、彼女は声を大にして叫びたかった。

 彼女はもちろんのこと、現在の人間側の戦力についても十分に調査している。

 程度の低い内戦ばかりを繰り返し、かつての【英雄】たちの栄光など影の形すら残っていない。

 それでも、負けたばかりの彼女がそれを口に出すことは出来なかった。


「……分かりましたわ。ですが、わたくしが納得したとしても、他の【九魔大公エニアデュクス】はそうはいきませんわ」

「【九魔大公エニアデュクス】? なんだそれは。余の知る限り、そのような称号は記憶にないぞ」

「主様がお隠れになられた後に作られた、最高位の魔族に贈られる称号ですわ。かつて【魔王】エスメラルダ・ルシファリアに付き従った、私を含む九人の高位魔族。その後継者を意味し、配下の種族に対して絶対の支配権を有するのです。血気盛んな彼らはもちろん、人間に対して踏みとどまるなどといった弱気な……こほん。慎重な者は一人もおりませんわ。それともまさか、彼ら全員をそこの子どもと戦わせるおつもりで?」


 もちろん、それは全てシルフィアットが仕組んだことだ。

 人間に対する憎悪を煽り、融和を企もうとする魔族らしくない魔族がいれば日の光を浴びる前にこっそりと息の根を止める。彼女の望んだように、人間への蹂躙と支配に逸る――それが今の魔族の体勢なのだ。

 彼らとて無論、弱いわけがない。弱者は強者によって喰われるのが魔族の摂理であり、シルフィアットは彼女の思うように動く者たちに多大な支援をして強化していた。かつての大幹部には及ばずとも、今回の魂から蘇るなどという奇跡は何度も起きるようなものではない。

 いずれ半数でも打ち倒したころには、ラストの奇跡も打ち止めで死を迎えるに違いない。

 そんな未来を予想して彼女は内心でせせら笑うが、そこにエスが待ったをかけた。


「ふん、どうせそいつらはお前よりも弱い雑魚ばっかりだろう。そんなのと今更戦わせたところで、得られるものなどなにもない。彼にはそんな無駄な時間などないんだ、まだまだ身に着けるべき知識がたくさんあるからな。――だから、そいつらは余が直々に叩きのめしてやろう」

「……本気にございますか」


 その宣言に、シルフィアットは意気消沈した。

 調整に調整を重ねた今の身体でさえ、目前のエスには勝てる気がしない。

 先ほど彼女に咎められた際に、声だけで身が竦んだことをシルフィアットは思い出す。

 誰も彼も彼女より弱い今の魔族では、エスの手にかかれば瞬く間にただの肉塊に変えられてしまうに違いない。


「ああ。ここからは余の出番だ。余自ら今の【九魔大公エニアデュクス】とかいう愚図どもをブチのめし、誰の言うことが正しいのか思い知らせてやる。絶対命令権だったか? それもそいつらを従えれば余のものだ、ちょうど良い。力だけで従わせるのは気に入らないがな。今まさに火ぶたが切られようとしているのならば仕方あるまい。多少はそれを使ってでも、戦争は止めさせるとしよう。全ての魔族を統べる、【魔王】としてな」


 落胆していたシルフィアットだったが、エスの放った最後の一言に思わず顔を上げた。


「主様……今、なんと……?」

「【魔王】として復帰する、そう言ったんだ。聞こえなかったか?」

「い、いえ。ですが【魔王】となられるのは私がそこの子どもに勝った場合だったのでは……?」

「別に負けた場合にそうならんと言った覚えはないぞ。……ラスト君がこの屋敷で勉強している間、余はお前と共に魔王城に舞い戻り王として君臨する。戴冠の儀式を準備している、そう言っていたな。そこには当然、文句を言う奴らも雁首揃えて待っているだろう。そこで全員を直々に血祭りにあげれば、誰に従うのが正解なのかは嫌でも分かるだろう。一応は言葉で説得するつもりだが、それでもやんちゃな戦争派には拳で教えてやるのみだ」


 そう意気込むエスの【魔王】として復活するという宣言に、シルフィアットは歓喜した。

 その後に続く彼女にとってどうでも良い言葉など、まったく聞こえなくなるくらいには彼女の心は狂喜していた。

 今エスの言ったことが正しければ、彼女はラストをこの屋敷において魔王に戻るつもりだ。

 シルフィアットにとって目の上のたんこぶであった彼が取り除けず落胆していた所に、この宣言である。エスが邪魔者から自ら離れてくれるというのであれば、もはや彼女には今回の勝敗なんてどうでもよかった。

 今の魔族は誰も彼もが、戦ったことの無い人間に対して憎悪を向けている。彼女がそうなるように世紀を跨いで暗躍したからだ。きっと彼らを影からうまく扇動すれば、かつての魔族を守ろうとして人間相手に容赦のなくなった理想のエスに戻ってくれると彼女は有頂天になっていた。

 結局、魔族にとっての最大の不名誉を味わってもなお、彼女の性根はまったく変わっていなかった。


「分かりましたわ! であればこのシルフィアット・リンドベルグ、主様の意志に忠実に従いますとも!」


 まなじりに涙を浮かばせて平伏するシルフィアット。

 その恍惚に歪んだ瞳が見つめるものは戦いの前と変わらない。

 現在のエスの向こう側に見える過去の【魔王】こそが、彼女にとっての真実のままなのだ。


「……そうか。ありがとう、シルフィアット」

「うふふっ、いつまでもそのような呼び方をなさらずともよろしいでしょうに。せっかくお戻りになられますのですから、ここは昔のようにシルフと」

「またいつかな」


 もはや後戻りの出来なくなっていた彼女を寂しげな眼で一瞥してから、エスは己の胸の下ですやすやと安らかな寝息を立てるラストを眺めた。

 ――魔族の持つ人間に対する飽くなき闘争心は、如何にエスとてそう簡単には拭えない。力で押さえつけてもいつかは爆発することは目に見えている。

 これから彼女は、戦いに燃える彼らの心をゆっくりと宥めて落ち着かせていくことにかかりっきりになる。

 その事業になるべく早く手をつけるために、彼女はラストにいったんお別れを告げなければならない。


「その前にすませておかないとな。余と君の、最後の授業を」 


 うふふうふふと胸を昂らせながら妄想にふけるシルフィアットをよそに、エスはラストの身体に再び目を落とした。

 一糸まとわぬ均整の取れた美少年の身体が、ゆっくりと規則正しく胸を上下させている。

 その芸術品にも等しい彼の裸体を、彼女は艶めかしい目で舐め上げた。

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