第38話 再燃


 ――これはいったい、なんなんだ?


 手も足もない。魂さえ塵となった現状。

 それでもなお、ラストは今もこうして思考を継続することが出来ていた。

 何も見えず、何にも触れられない。されど、在る。そんなあやふやな直感だけが、そこにあった。

 ふわりふわりと何処とも知れない漆黒の世界に、ぼんやりと意識だけが覚醒を続けている。


 ――いや、その意識すらも気を抜けば消えていってしまいそうだ。


 考えることを止めてしまえば、このまま自然に漂う魔力の一部として同化していくような……そんな漠然とした予感が、何故かは分からなくとも、今の彼の中にはあった。

 ならばとラストは考え続ける。他でもない、エスのことを。

 もはや肉体も魂も失った以上、ラストの敗北は確定したも同然に違いない。


 ――それなら、お姉さんはどうなるんだろうか。


 ラストがいなくなれば、人間側に立つことのできる同志はいない。となれば魔族側だけでも犠牲を最低限に減らそうとするのだろうか。

 しかし、それでは八百年前の【人魔大戦デストラクト】の焼き直しだ。当時を生きた他の幹部はとうに亡くなっているだろうが、今の幹部がエスと志を同じくする保証はない。

 もし魔族の在り方に何も変化がないのであれば、彼女はかつてと同じく心を病んでしまうだろう。

 そんなことは、ラストには到底認められなかった。


 ――起きないと。戻らないと。

 ――たとえ既に勝負に負けたと判定されていても、お姉さんの下に戻らなきゃならない。


 だが、既に失った魂の形は戻らない。

 彼自身手の施しようがないと思ったし、シルフィアットも砕けた魂の修復は不可能だと言っていた。

 そも、肉体が滅べば魂に刻まれた記憶もまた無に帰すのが自然の道理だ。

 こうして今意識があるのもラストがしぶとく生き残ろうとしているからで、本来ならばここから生へと逆転するのは世の理に反している。


 ――だからなんだ。


 たとえ世界の常識がそうだとしても、ラストは断言する。

 魂が元に戻らないから、治せないから……その程度で諦められるほど、彼のエスへの想いは安くない。そもそもその程度のことで諦められるのならば、彼はシルフィアットとの戦いの場になんて立ってはいなかった。


 ――いや、それだけじゃまだ足りない。


 ラストが今戦っているのは、シルフィアットという【魔王】エスメラルダの過去そのものだ。

 それを前にただ指を咥えて諦めたくないなどと考えているだけでは、まだ足りない。

 四肢がなくなった、魂が砕けた? 息を吹き返すことは許されないと世界が言っている?


 ――その程度でこの想いが止められてなるものか。


 ラスト自身の意志は、まだここにある。

 ただ嘆き、憂うだけでなく歩み出すべきだと叫んでいる。


 ――君を捨てたやつらのことに割く意識なんて、全て余へ向けろ。過去から足を引っ張ってくる愚か者どもなんかに目を向けるな。そんなのにかまけている暇があれば、その先へ駆けるんだ。余と共に、まだ誰も見たことの無い未来へ。


 そんな、エスに言われた言葉を思い出す。


 ――ならば、進もう。シルフィアットの言った限界など、僕の知ったことじゃあない。歩みを止めるも止めないも、いつだって決めるのは他ではない自分自身なのだから!


 ――う。


 ――うおおおおおっ……。


 ――うおおおおおおおおおぉぉぉぉぉっっっ!


 声にならない声を振りしぼり、ラストは周囲に揺蕩う己のものだった魔力に呼びかける。


 ――本当にこのまま散り果てていいのかっ? ただ当然のことを受け入れるだけの自然に還っていいのかっ?


 ラストは確信していた――そんなことを認められる彼の魂は、一片たりとも存在していないと。

 ふわり、と闇の中に一つの光が生まれた。

 否、それは世界の魔力に溶け込んでいったはずの彼の魂だったものだ。それがいたる所から這い出てきて、彼の意志と共に奮い立ち、一ヶ所に集約していく。

 壊れたはずの器の形……体の形は、エスとの訓練の間に何度も叩きなおされて指の先まで残らず把握している。

 剣を握り、魔法を描くのに必要な体組織は全て彼女の記憶と共にある。

 彼は、失ったはずの胸が熱くなったような気がした。

 復活した、吹けば消えてしまいそうな小さな灯。

 それが彼の意志によって強く、あらゆる障害を乗り越えてなお灯り続ける心の火として再燃する。

 やがて、光の欠片だったものが完全に人の形を成して――。


「うおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉっっっ!」


 全てが失われた場所に、再びラストの魂が立ち上がった。

 今、自分はエスへの想いと共にここにあるのだと彼は高らかに叫ぶ。

 いつでも気を抜けば綻んでしまうことには変わらない。それでも、そんな未来は永遠に来ないだろうと今の彼は確信していた。

 ――なぜなら、エスの信頼に応えたいから。

 ――君ならばきっと出来るという、肉体が崩れ行く最中にも揺るぎなかった彼女の瞳の中にいつまでも立っていたいから。

 確固たる信念を胸に、ラストは再び歩き出す。

 視線の先に見つめるのは、遠くに輝き続けるエス。

 先ほどまでは絶対に届かなかった彼女の幻影。

 だが、今の彼ならその意味が分かる。

 彼女はこの世界から抜け出す鍵などではない。彼女はただの目印だったのだ。

 ラストが目指すべき未来に立つ、目印。

 今はまだ遠く届かないけれど、魂さえ支配下に置いた今の彼ならば――三歩ぐらいは近づける。

 それを確信して踏み出した脚は、確かに三歩だけ彼女との距離を縮めた。

 先ほどまでの彼は、ただその場で足踏みしていただけだったのだ。魂が壊れた程度で諦めるような位置から、彼は確かに先へと進んだ。


「――まだまだ僕は、お姉さんの影すら踏めませんけど。いつかきっと必ず、追いつきますから」


 そう呟くと同時に、彼の人差し指が軌跡を描く。

 紡がれるのは肉体再生の魔法。

 肉を形作る元素と、それが織り成す人間の形の式。

 魔力はとっくに尽きていたはずなのに、何故かほんのちょっとだけ残っている。

 だが、それで十分だった。

 完成した再生魔法が効果を発揮し、ラストの視界が復元されていく。

 罅がパキパキと根を伸ばすように広がっていく。剥がれ落ちていた光ある世界が、巻き戻るように瞳に張りついてくる。


「すみません、今はまだそこへは行けませんけど……。まずは目の前の壁をもう一歩、乗り越えます。そうしていつか辿り着くから――待っていてください」


 遥か先に佇むエスは、なにも応えない。

 だが遠くに見えないはずの彼女の顔が、僅かに微笑んだ気がした。

 それを最後に、彼の世界が完全に光を取り戻した。

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