第37話 死


 朱色の大鉾を突き出したシルフィアットの顔が、喜悦とほんの僅かな安堵に染まった様子をラストは正面から見ていた。

 自身の神経を逆撫でして止まない眼前の子どもと、ようやく別れることが出来る――そんな彼女の思いがありありと映し出された表情が、突如パキリと小さく罅割れる。

 それだけではない。

 なにかが砕けていく音と共に、世界を捉えている彼の感覚を罅が侵食していく。

 生きるものの核、生命そのものとも呼べる魂をシルフィアットの【真魂葬鉾イデアルイナ】に砕かれたことで、彼という存在がほろほろと崩れているのだ。

 周囲にある自然の魔力に自らが溶け出していく空虚な喪失感が、どれほど傷付けられようと消えることの無かった命の灯を彼の全身から奪っていく。

 光が、音が、匂いが、熱が。

 ありとあらゆる感覚が遠くなっていく。

 零れ落ちるそれらの欠片をかき集めようと念じてみても、水に塩の塊を落とした時のようにじわりじわりと消えていく。

 手の尽くしようがない中で、エスから助けの手が伸ばされることもなく。

 やがて完全に砕け散った視界が、暗転した。



 ■■■



 ラストは、気づけば真っ暗な世界にいた。


「ここは……?」


 きょろきょろ、と周囲を見渡す。

 気づけば彼の身体には、いつの間にか失われた四肢が戻っていた。

 それに驚くのも束の間。淡い光を伴ったそれらは、徐々に周囲の闇へと溶けだしている。

 その光景を見て、彼は瞬時に今置かれている状況を察した。


「たぶん、魂の世界? とでも言えばいいのかな……。ここは、肉体のない魔力だけの世界なのかな」


 根幹となる魂の崩壊の前兆として肉体との繋がりが断ち切られ、朽ちた肉体から離れた魂だけの状態。それが今の淡く輝くラストなのだと、彼は仮説を立てた。

 故に、現実ではシルフィアットによって斬り飛ばされた手足も復活しているのだろう。正確には、肉体のある状態では外界に顕現した魔力という形でしか中途半端に見られなかった霊的なものが、魂だけとなったことで逆に完全に見えるようになっているのかもしれない。

 いずれにせよこの現象そのものに対してよりも、考えるべきことは別にある。

 今この瞬間もなお、彼の魂は崩壊を続けているのだから。

 

「……どうしよう」


 魔力のように思念を込めて操作しようとしても、どうにもならない。

 少しずつほつれていく魂の形に対して、ラストははっきり言って手の施しようがなかった。

 魂について詳しいシルフィアットが修復不可能と断言した崩壊現象だ。

 ラストは魂について詳しい知識を持たない。精々がエスに手渡された禁呪の記された本に載っていた程度だが、それも難解な用語の解読に手間取ってほとんど読み進められていない。

 そんな自分がこの状況をどうこう出来るとは、到底思えなかった。


「むむむ……うん? あれは……」


 惑うラストが手を尽くそうとしても、この先に待ち受ける破滅からはどうしても逃げられない。

 それを自覚したとき――ふと、彼は暗闇の中に燦然と輝く一つの星を見た。

 那由多の彼方に輝く恒星、その姿は朧げだが彼が見間違うはずもない。

 豪奢な金髪、甘くほろ苦い菓子のような褐色肌。

 そして青と赤の二色の眼が、遠くからラストのことを見据えている。


「エスお姉さん? なんでここにお姉さんの姿があるんだ?」


 何故他にはなにも、近くにいたはずのシルフィアットや大きな屋敷すらも見当たらないのに、彼女だけがこの世界にいるのか。

 そんな疑問が頭に浮かぶが、恐らくはこの場を脱するなんらかの鍵であることに違いない。

 そう考えて、ラストは一歩踏み出した。

 彼女の下へ行けばなにかしらの手掛かりが得られるのではないかと考えて、彼はエスに手を伸ばして歩き出す。

 ――だが、どれだけ歩いても一向に彼女との距離が縮む気配がなかった。


「うわっ!」


 突然、彼の右脚が崩れる。

 彼女の下へ行こうとしている間にもラストの魂の崩壊は止まらない。

 ほどなくして、左足もまた同様に消失した。


「っ、この程度で……」


 それでもなお、ラストは両腕を使って這って前へと進んでいく。

 それが消えれば腹筋を使って、体をくねらせて虫のように進んでいく。

 腰から下が消えれば顎を地面に引っ掛けるように使って……前へ、前へ。

 なんとかして、エスの下へと辿り着いて見せようと努力する。

 だが、それだけの意志の強さを示してもなお、二人の距離は縮まらない。

 彼にはむしろ、足掻けば足掻くほどにエスの姿が遠ざかっていくようにさえ感じられた。


「……まだ、まだっ。ま――」


 やがて顎が消え、鼻が消え、目が消える。

 今度こそ本当に何も見えなくなった中で、ラストはそれでも最後まで諦めようとはしなかった。

 ――なんとしてでも、エスの下へと辿り着く。

 その想いだけは、絶対に絶やすものかと彼は強く想い続ける。

 やがて残る脳さえもがしゅわりと溶けていくような感覚の中、彼はたとえ死しても彼女への想いだけは失わせるものかと念じ続けた。

 ――絶対に、絶対に一人ぼっちになんてさせるものか。

 あの宇宙を模した部屋の中で彼女に宣言した、エスのことを想っているという気持ちは誰にも負けないと彼は失われた口で叫ぶ。あの時のように、彼女を孤独に悲しむ一番星になどさせてたまるものかと、ラストは強い意志で消失に抗い続けようとする。

 だが、世界は残酷にも彼から全てを奪っていく。

 最後に残った脳の核……魂の根幹となる一片すらも暗闇に溶けて、沈んでいく。

 それはすなわち。

 ラストという存在が、完全に死んだということを意味していた。

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