第34話 暗雲の先に光あれ


 ラストが防御魔法を展開してから、どれほどの時間が経っただろう。

 それは数分か、数秒か。彼の脳には、数時間も耐えているようにさえ感じられた。

 膨大な光と熱の波濤を前に、結界を張った彼はただただ耐えることのみに脳の思考回路を全力回転させていた。もし一瞬でも魔法が解けてしまえば、その瞬間に自分の身体は跡形もなく燃え尽き去るという予感があったから。


「うぐっ……」


 半ば毒のような魂魄加過圧薬の反動に垂れた鼻血が、防御魔法の外に出た途端蒸発した。熱波に吹き飛ばされそうになるのを地面に伏せて堪えながら、ラストはひたすらシルフィアットの魔法を耐えしのぐ。

 その永遠に思える時間を越えた先で、ふっと極光が消えた。


「……っ、はぁっ、はぁっ……」


 ラストが彼女の展開していた魔法陣から読み取った疑似太陽の顕現時間きっかりに、彼が身に纏っていた防御結界が解除される。

 果たして光炎の大魔法が消えた【深淵樹海アビッサル】に広がる景色はどのようなものか。


「なんだ、これ……」


 それは、おとぎ話に描かれる地獄そのものだった。

 生けとし生けるものが全て焼け落ち、大地はぐずぐずと真っ赤に煮え滾る。

 かすかに形を保っている残骸たちが、ぱちぱちと燃えながら涙のような火花を流している。

 そんな世界の中に、ラストは横たわっていた。


「強い、なぁ」


 げに恐ろしきは、これほどの暴虐と破壊を成し得るシルフィアットの潜在魔力か。

 邪魔をするものは容赦なく薙ぎ払い、蹂躙して先へと進む。

 これこそがかつて人類を恐怖に震わせた魔王軍の一端かと、ラストは息を飲む。覚悟と想定はしていたものの、実際にその光景を目の当たりにして、彼は少しばかり怯まされる。

 加えてわずかばかり、自分にはこんなことは出来ないとの弱音めいた思考が彼の心に浮かぶ。


「……いや、出来なくたって良いんだ」


 だが、そんな格の違いをありありと見せつけられてもなお、彼は自らの身体に筋肉を弛緩させることを許さない。

 周囲に荒れ狂う熱波を吸い込むようにして熱を持った腕を力強く握りしめ、彼はそのままの体勢で思う。


「僕たちが目指すのは、こんな悲しい世界じゃない。殺し合いの果てに誰かが涙を流し続ける……そんな当たり前を過去にすると決めたんだ。だから僕は、ただの暴力には夢を見ない」


 熱気に歪んだ空気の向こう側を見上げれば、魔法を撃ち終えて宙から地上を見下ろしているシルフィアットの姿がかすかに見える。

 ――今こそ、その力が全てである過去の象徴を地に叩き落とす時だ。

 彼の体内に残存する魔力は残り一割にも満たないが、それでも計算上はぎりぎり足りている。


「……補助魔法、並列起動」


 彼が描いたのは極々小さな、手のひらに収まるほどの魔法陣だ。

 そこに込められたほんのちょっとの魔力では、彼方のシルフィアットを撃ち落とすには全く足りない。

 だが、それでも十分だった。

 この魔法は彼が仕込んでいた本命の罠の、ただの導火線に過ぎないのだから。

 森の中に僅かに走った奇妙な魔力の流れに、シルフィアットは気づかない。

 彼女自身の発した膨大な魔力の残響により、かつて森だった大地の魔力はぐちゃぐちゃに荒れ果てている。その中に走ったラストの幽かな魔力など、見えるはずもない。

 そして、彼がこの半年の間にせっせと地中に仕掛けていた魔法型の罠が起動する。


「――領域指定。熱空気塊、上昇加速」


 シルフィアットの魔法によって加熱された大気は、自然と上空へ逃げていく。

 ラストはその上昇気流に風魔法で干渉し、なるべく熱気が周囲に拡散しないように拾い集めていく。

 やがて澄み切った上空に達した大量の空気は内包していた微粒子を核に、雲を形成し始める。


「蒸気冷却加速……微粒子臨界強化。遊電子分離、収束っ、誘導……」


 冷却された水蒸気が夜空を遮る分厚い黒雲となり、徐々に危険な雰囲気が醸し出されていく。


「……これはいったい?」


 その光景にはさしものシルフィアットも不審を抱くが、余力をほとんど使い果たした今の彼女は逃げる素振りすら見せずに状況を窺うことにした。

 呑気な彼女をよそに、雲の中で繰り返される構成粒子の衝突がラストの強化魔法によって加速する。それを経て、徐々に溢れ出した電子が雲の下部へ収束していく。

 徐々に光り出した雲の下で、シルフィアットはようやく自分が危険な状況に置かれ始めているのではないかと察する。


「雷雲がどうしていきなり? 雨の降る予兆なんてなかったというのに……くっ、このままでは危険ですわね。あの子どもの生死は確認できておりませんが、一度退避すると致しましょう」


 ゆっくりと宙を滑るように彼女は移動を開始する。

 その上では収束した電気が、徐々に大気の壁を打ち破って地面に降り立とうとしている。

 だが、それでは魔王の配下である彼女を倒すにはまだ足りない。


「座標指定。雷電充填。抵抗開始……っ」


 雲の下部に集中した電力が、絶縁体である大気の操作によってシルフィアットの近くに集められていく。

 ここで力を溜め込めば溜め込むだけ、後に開放される威力が増幅される。

 ラストは残る魔力を全て振り絞って、雲の内側に圧縮される力を空気の壁で堰堤のように溜め込んでいく。

 彼女はいよいよ危険な様相を見せ始めた雷雲から離れるために加速しようとするが――もう遅い。


「五、四、三……二……一……零! 収斂全解除!」


 ラストの号令の下に今、待機命令が解かれる。

 全力で酷使に酷使を重ねた魂の熱を一気に吐き出すように、ラストの口から自然と詠唱が紡がれる。

 それは本来ならば不必要なものだ。彼は魔法陣の直接操作だけで、この魔法を完結させている。

 だが、この内側から溢れ出る魂の叫びはどうにも止められなかった。


「雷鳴よ、運命の暗雲を裂け! 我が英雄はここに在りて、今こそ人魔を照らす一迅の光とならん! ――【迅雷抜剣・天雲照光ポスト・ヌービラ・ポエブス】!」


 それはいわば、宣言だった。

 力が全ての過去を置き去りにして、自分たちは前へと進む。その道を先導するエスの隣に立てるだけの、新たな【英雄】としての第一歩を踏み出すことへの宣言。

 彼の声と共に、一気に身軽になった雷流が解放された大気の中を一直線に駆け抜ける。

 そこから先はもはや、ラストが干渉する必要はない。

 彼はただ、天の怒りが勝手にシルフィアットへ――彼女の背負う、避雷針代わりの三叉槍へと向かうのを見届けるだけだった。

 稲妻が大気を切り裂いて彼女へ着弾し、神の嘶きが夜を揺るがす。


「なにをっ、きゃああああああああああぁぁぁっっっ!」


 シルフィアットの生み出した脅威が今、ラストの手を経て彼女自身へと返された。

 その身で受け止めてしまった己の暴威によって灼かれ、くすんだ銀の翼は墜ちていく。

 勝った――そう確信めいた眼差しで、彼は彼女の敗北を確かめるべく落下地点へと近づくのだった。


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