第32話 暗き森に潜む罠


 誇り高き魔族であるシルフィアットは激昂していた。

 己の色々な尊厳を容赦なく地の底に叩き落とさんとする、この森のどこかに潜む下等で外道な人間のクソ餓鬼ラストに。


「はぁ、はぁ……うふふっ、あの子ども、絶対に許さないん、あははっ! ……ですからっ、あひんっ!」


 悪態をつきながらもぞりと身体を震わせて、息も絶え絶えになった彼女は殺意を込めて呟く。

 僅かに差し込んだ月明かりに照らされて露わになったその姿は、なんとも言えないものだった。

 丁重に着込んでいた装備には所々染みや破れた穴が散見され、壊れてはいないものの無惨な形を晒している。まるでエスの秘蔵本の一つに出てくる憐れな女騎士のようだ。

 彼女自身には目立った外傷はないものの、僅かに羽毛の先端が焦げている。

 なんどもラストの罠に引っ掛かっては燃やして脱出、というのを繰り返した結果だ。


「せっかく主様に褒めてもらえるよう、うふふっ、きちんと整えてきた毛並みが台無しにっ……あはっ、くぅんっ! ぶっ殺してやりますわっ! あぅっ!」


 更に彼女は今も勝手に動き出しそうな頬の筋肉を堪えるように引きつらせ、熱を帯びた下腹部の疼きに堪えるようにもぞもぞと両脚をすり合わせている。

 内側から無理やり・・・・湧き立ってくる情欲の誘いに頬を紅潮させた今の彼女は、最初に仕掛けられていた亜竜ワイバーンの体液がどれだけマシなものだったのかを悟っていた。

 姿の見えぬラストに憎たらし気な眼を向けながら、彼女はこれまでに己が引っ掛かった罠の凶悪さを振り返る。


「獣の糞尿や食肉植物の消化液、それに笑い薬に睡眠薬、くっ! 果ては媚薬まで仕込んでくるなんてっ、どれほどいやらしいというのっ……ふほっ、うにゃぁっ!」


 落とし穴や落下天井など、一見分かりやすい罠の向こう側に極細の糸で仕掛けられていた罠の数々。初めは子どもの悪戯と笑って油断していたところに、牙を剥く本命の罠。どれも液体や粉末など広範囲に拡散するものであり、それらを完璧に避けることは困難だった。魔法で吹き飛ばそうとしても、必ず少量は身体に降りかかる。

 動植物の体液などの悪臭系ならば歯を食いしばればまだ耐えられる。

 だが一見戦闘には関係のなさそうな薬品類までひっきりなしに飛んでくるのだから、たまったものではない。

 どれもシルフィアットの致命傷にはならないまでも、戦意をがりがりと削ってくるろくでもない精神攻撃ばかりだ。

 しくじって飲み込んだ液体が【淫魔サキュバス】の体液から精製された媚薬だと感づいた時には、さしもの彼女でさえ主と仰ぐエスの教育を疑ったほどだ。


「本当にどうなってるんですのっ、あの子どもの性格ぅんっ! あんなのを主様の傍に置くなんてっ、なんて危険でしょうっ! ぷっ、ふふっ……あぐっ、排除、排除ですわっ!」


 なお、この作戦を考案したとうのラストはいたって真面目だった。

 最後の一手へ誘導するために相手のまともな戦意を削ぎ、怒りを溜め込めさせる。それを達成するために、エスに教えてもらった敵の戦意を喪失させる戦い方を実践しただけだ。

 ――ただ、そこに幼いが故の残酷さというか、躊躇のなさがちょっとばかり出てしまったというか。エスが時折お遊び半分で開発していた、訓練に余談で出たこぼれ話の中の試薬までもを生かそうとしてしまったのがシルフィアットの運の尽きだった。

 彼女の頭に詰まった情報はエスの今後に必要なため、猛毒のような殺傷力はない。

 ただしとことん彼女の自尊心を冒涜するようなものばかりを敷き詰めていた。

 それらが功を奏して、今のシルフィアットの足はかなり遅くなり、注意も散漫になっていた。

 だからこそ、こんな罠にも引っ掛かる。


「あっ、あれはっ……!」


 ぼんやりと光る、魔力の人影が彼女の視界に映る。

 ようやく見つけた木々の影に潜むラストの輪郭に、絶対に復讐してやろうとの一念で漏れそうになる喘ぎ声を押さえながらよたよたと小走りに近づいていく。


「きっと自らの術中に嵌って無様な姿を晒すわたくしを見て笑ってるんでしょう? うふふふふふ……あんっ! こほん、今すぐにその幼気な顔を歪めてやりますわ――さあ、年貢の納め時ですわっ! どう料理してくれましょうか……へっ?」


 だが、そこにあったのはラストの形をした精緻な人形だった。

 次いで不用心に近づいた彼女の足にかちりと何かを踏んだような感触が伝わる。

 驚いて逃げるよりも先に、ラストの人形が彼女の目の前で爆発した。


「きゃぁっ!? 今度はいったいなにが――ぺっ、ぺっ、なんですのこれ、甘酸っぱっ!? 美味し……じゃありませんわ、炎よ燃え盛れ【火炎球イグニスフィア】!」


 彼女の舌を撫でたのは、でろりとした奇妙な感覚。その味わいはこれまでの物と比べて幾分かマシに思えたものの、どうせろくでもないものに違いないと勢いよく吐き出す。

 ついで体についた分を燃やし尽くすと、どうにも今度は肌がかゆくなってくる。


「今度はかゆみ薬ですか!? ……うっ、隙間から侵入されて、駄目、今そこは敏感で――あうぅっ!」


 どうにも耐え切れなくて、涙目になりながら必死に全身の肌が逆立つような感覚を彼女が必死になって堪えていると、森の一角が妙に騒めき出した。

 バサバサとなにかの群れが勢いよくシルフィアットの下へ高速で来襲してくる。


「くっ、いやっ……次はなんだと……竜の群れですって!? なんでこんな時に、それもわたくしを狙って――んひぃっ!?」


 彼女の瞳に映った魔力の輪郭は、よりにもよって魔物の中でも上位に位置する竜種だった。

 腰をがくがくとさせながらも、こうなっては力の行使を控えている場合ではないと彼女は不本意ながら背負っていた三叉槍を抜いた。

 竜種の外皮は魔法攻撃に抵抗力を持ち、物理攻撃に対しても大きな防御力を持つ。

 その両者を駆使しなければ討伐が不可能だということは、自身の新たな身体を作る際に大いに参考にしたシルフィアットもよく知っている。


「数は――合計で百匹も!? どうして、なんで一つの群れが……近くに巣穴でもあったというのかしら? くっ、ふぅっ、それが今同時に迫ってくるなんて……まさか!」


 ラストの人形が浴びせたのは、薬物でもなんでもなかった。

 この森の竜種が特別好む果実を旬の内に摘み取って煮詰めておいた、濃厚な果汁だった。肌がかゆくなるのはあくまでも酸味のある果物に共通の副次効果に過ぎない。彼の真の狙いは、その匂いを嗅ぎつけた竜種をシルフィアットの下におびき寄せることだった。


「あの人間っ、なにを考えていればこんな手段を取れるんですのっ!?」


 ただでさえ強力な竜種を相手どるのは、魔王軍の精鋭部隊でも一苦労だ。

 ましてやここは悪名高い【深淵樹海アビッサル】。そこらの雑魚が、外では一つの群れの主を務められるだけの力を持つ。

 正面から太刀打ちするのは彼女でさえ顔を顰めたくなるが、それで素直に逃げてはラストの手のひらの上で思うがままに転がされているような気分になる。


「この私がいつまでも思い通りになるなど、くひっ、思わないことですわっ! いくら辱められようと【銀凰翼アルゲニクス】と呼ばれたこの魔王第一の下僕が空飛ぶ蜥蜴に後れを取るとでもっ! ――この身に宿れ万陥の槍と不陥の盾、主命に逆らう愚か者に断罪の刃を! 【狂戦強化ベルラ・フォルス】!」


 槍に魔力を纏わせ、震える身体に強化魔法をかけてシルフィアットは飛び出す。

 全身が薬に侵されていると言えど、いざ戦闘になれば歴戦の経験値がその穂先が揺らぐことを許さない。

 鋭く振るわれた三叉槍が竜の首元に迫り――ざくり、と僅かに切れ目が入る。


「くっ!?」


 彼女は予想よりも浅い傷に舌打ちする。

 切りつけた部位は確かに鱗を切り裂けたものの、その下の肉にはほとんど傷がついていない。

 それもこの森の効果ですぐさま修復してしまうありさまだ。


「ほんとふざけてますわこの森は、ふふっ、くふっ……って笑ってる場合ではありませんわよ!」


 隙あらば表に出てくる笑い薬の効果に苛立ちながら、再び攻撃を仕掛けるシルフィアット。

 今度は彼女は槍の一撃と同時に、裂けた肉が修復される前に炎の魔法を打ち込む。

 傷が焼けて僅かに広がったところに更に返しの追撃を加える。

 それを五度ほど繰り返せば、ようやく一体を倒せる計算になりそうだ――だが。


「ええい、邪魔ですわ! そこの、逃がすなんて許した覚えはないですわーっ!」


 半分くらい首が取れかけたところで、その個体はすぐさま後方に撤退する。

 追撃をかけようとしたシルフィアットの歩みを塞ぐように、新たな竜が火を吹いて立ちふさがる。

 思わず怯んだ彼女の視線の奥では、じわじわと傷を治す竜の姿があった。


「こんなの、いつまで経っても終わるわけないじゃないですのっ!」


 先の思いを撤回して、逃げようかとの考えが一瞬彼女の頭をよぎる。

 だが、既に竜たちは仲間に傷をつけたシルフィアットの臭いを嗅ぎ分けている。

 身に染みついた果汁が焼き払われたところで、彼らは彼女の都合など考慮することなく何処までも追いかけてくるだろう。


「……ええい、こうなればもうやることは一つですわ! 竜の団体がなんぼのものでしょう! この名に懸けて、一匹残らずやってやろうじゃありませんか!」


 迷いを振り切って槍をぎちりと握りしめたシルフィアットは、威勢よく竜の群れの中に飛び込んだ。

 濃密な魔力の強化外皮を被った三叉の刃が一体となり、一回りも二回りも大きい巨鉾となる。

 それを勢いよく振りかざせば、たった一度の閃きで竜の首の半分が断ち切られる。そのまま彼女が勢いを乗せて感情のままに体ごと水車のように振り回せば、残りの肉も紙のように引き千切られた。


「うふっ、うふふふふふふふ――っ!」


 頬についた血を指先で拭い、戦いの飢えに乾いた唇を舌先で湿らせる。

 ようやく自身が想定していたような力による蹂躙が出来そうなことに、シルフィエットは昂りを隠せないでいた。

 べちゃりと地面に落ちた竜の首を踏みつけながら、彼女は周囲の夜闇に眼を光らせる竜たちを睥睨する。


「あなたたちが悪いんですのよ? あんな子どもの策につられて私の前に出てくるから、ここで死体となってしまうのですわ。醜い蜥蜴共、精々この大鉾の前菜として踊ってくださいまし!」


 だが、彼女はまたも忘れていた。

 この森にはまだまだ、彼女の知らないラストによる罠が仕掛けられているということを。

 手のかかる竜との戦いの中でそんな小細工にまで注意を払うことなど出来るはずもない。

 彼女はやがて全ての竜を倒しきるまでに幾度となく辛酸をなめさせられ、結局更なる鬱憤を溜めることになるのだった。

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