第31話 小手調べと小細工


 互いに視線で戦意をぶつけあう、ラストとシルフィアット。

 ラストはまずは試しに一度斬り込んでみようかと彼女の様子を窺うが、どうにも隙が見られない。武器は手にしていなくとも、彼が踏み込めば彼女はすぐさま三叉槍を引き抜いて応戦出来る予感がした。

 そんな攻めあぐねる彼ににっこりと余裕の表情を取り直したシルフィアットが、戦いの口火を切った。


「やる気がないのでしたら、こちらから。まずは小手調べから参りましょう。精々愉しませてくださいましね――風よ、乱れ舞え。【旋風刃ヴェンファルク】」


 たおやかな声でうたい上げられた短い呪文によって完成した魔法陣が、光を放つ。

 そこに込められた法則はちょうど三十の風の凶刃を意味する。それがシルフィアットの魔力から産み落とされ、ラストの下へと一気呵成に押し寄せる。

 見えない数々の刃が一瞬のうちに目標へと辿り着き、着弾した先でもうもうと土煙を巻き上げる――しかし、それが晴れた先に彼の死体はなかった。


「あら、随分と逃げ足の速い子どもですこと。か弱い人間には相応しい有様ですわ。先ほど啖呵を切った姿が、まるで嘘のよう……」


 驚いた様子もなく、シルフィアットはせせら笑う。

 彼女は消えたように見えるラストの行方をしっかとその眼に捉えていた。

 彼はシルフィアットの魔法陣が見えたと同時に剣を腰に収め、一目散に森への逃走を開始したのだ。

 だが、ただの子どもの脚の速さでは魔王軍の幹部の魔法から逃げられるわけがない。

 彼女は瞬時にラストが自身の魔法から逃げられるほどの加速力を為した答えを見出す。 


「今の速さは強化魔法ですわね。それも呪文を呟いた様子もなければ、無詠唱とは。もしや主様が直々に手ほどきなされたので?」

「……」


 エスは答えない。

 しかしその態度が既に、彼女の答えを示しているようなものだ。


「うふふ、まさか無詠唱魔法を身につけているとは少々驚かされました。あのような子猿にも芸を仕込めるとは、さすがは我が主様ですわ。……ですが、解せませんわね」


 その言い方に、エスがぴくりと眉を動かす。


「戦いにおいて毎度一から魔法陣を意識的に構築するなんて、無駄ですわ。よほどの力量がなければ、詠唱で無意識領域から引っ張り出す方が早いでしょうに。そんな技術、主様をおいて他に使いこなせるわけなどないでしょうに。あの【英雄】たちでさえ、詠唱の省略が精々だったというのに……扱えない武器なんて、しょせんは宝の持ち腐れですわ」

「……御託はいい。それよりもさっさとラスト君を追ったらどうだ」


 暗にラストを愚弄するシルフィアットの言葉に、エスはむっとした表情を見せた。

 だが、そこに込められた感情の正負を問わず、ただ自身の言葉に反応されたことが嬉しくてシルフィアットは頬を染めるばかりだ。


「ああん、そんなつれないことを言わないでくださいまし。たかだか人間の子どもと主様との逢瀬、どちらが大事かは言うまでも――」

「――戦意喪失で不戦敗にするぞ」

「あふんっ。それを言われては従うほかありませんわね。承知いたしました、主様のご命令通りあの子どもの首を持ってくることといたします。お話はそれからでも、ゆっくり、じっとり、ねっとりと……うふ、うふふふふっ……」


 彼女は身体を軽くくねらせながら翼をはためかせ、宙に浮かぶ。

 どうやら親切にもラストの思惑に付き合って、自らも森に飛び込むつもりのようだ。

 彼の一切迷わぬ足運びから、森の中になにかがあることは彼女も承知の上だ。

 その上で彼の作戦を全て蹂躙して、少年のうら若き心を完膚なきまでに叩き折る。エスの手塩にかけた飼い犬をなぶり殺しにして、彼女のかけた時間が全て無駄だったのだと知らしめ、その視線を自分一人で独り占めする――そんな妄想を立てるだけの余裕が、シルフィアットにはあった。

 それも当然のことだ。

 彼女は古に隆盛を誇った魔王軍の幹部で、標的はちょっと腕に覚えがある程度の子どもなのだから。

 自分が万が一にでも負けるとの考えを抱く方がおかしいのだ。


「あんな小さな子どもが主様の真似をしたとして、なにが出来ましょうや。さあ、鬼ごっこのお時間ですわ。このわたくしから逃げられるとでも?」


 薄ら笑いを浮かべて森の中に突撃していくシルフィアット。

 その余波が、僅かにエスの髪を揺らした。


「……さて、これでどうにか初手は彼の思い通りと相成ったわけだが」


 以前彼女の提案した通りに、ラストは森の中で戦うことを選んだ。

 一応は師匠の役割として、エスは彼の考案した作戦に一通り目を通している。

 彼女の知る通りのシルフィアットならば、十分に打倒できる計画だ。しかし彼女がこの数百年で手に入れたであろう未知の力による不測の事態は、いつでも起こり得る。

 それが出た時に咄嗟に正解を導き出せるだけの判断力が、今回のラストには求められるだろう。

 彼の判断力についてももちろん鍛えてはあるが、不測の事態とはいつだって当事者の予想の斜め上を越えてくるものだ。


「このままうまく行けばいいが……そんな都合の良いお話があれば、余がかつて苦労することもなかっただろうよ」


 この一年の内にエスの為せることは全て為した。

 そして戦いが始まった今、もはや彼女に出来ることはラストの勝利を信じることだけだ。

 エスは静かに森の中に目を凝らしながら、二人の戦いを見守る。

 その視線の先では、ラストが早速次の戦術行動に移行していた。



 ■■■



 夜の【深淵樹海アビッサル】はほぼ完全な暗闇の世界だ。

 日の光すら大きく遮られる樹海の中には、月の光などほぼ届かない。今のこの森はその名に相応しく、誰も探検したことの無い未知の深淵のようだ。そして、その向こう側に潜む危険が足を踏み入れた者に容赦なく牙を剥く。

 そんな死の森の中を、ラストは縦横無尽に踏破していた。

 嵐の吹き荒れる大雨の日や人間界では珍しい冬の雪中行軍さえこなしてみせた今の彼にとっては、この程度は前に進むことを躊躇する理由にはならない。


「……上、下、左……」


 今のラストの瞳は幽鬼のようにおぼろげに輝いている。

 魔力を宿した彼の瞳は今、光ではなく魔力で構成された世界を映し出している。

 それによってまるで昼と同じような視界の中を、ラストは出来る限りシルフィアットが追ってこれなそうな道を選んで進んでいく。

 成長したとはいえまだまだ小柄な彼は、容易く森の障害物を潜り抜けていく。

 踏み込む極僅かな一瞬のみに強化魔法を宛がいながら、蜘蛛の巣や蔦が絡み合う自然の罠の隙間を次から次へと踏破する。

 しかしそんな彼の耳に響くシルフィアットの声は、つかず離れずの距離を保っている。


「あらあら、どこまで逃げるおつもりかしら? 男の子なのにただの臆病者なのでしょうかねー? くすくす……ああ、なんて情けない。これでは主様も泣いておられますわ……」


 あからさまな挑発を投げかける彼女の嗜虐的な声は、返ってくるであろうラストの浅はかな反応を予想して愉悦に弾んでいる。

 だが、そんなものに今更彼が気を取られることはなかった。

 それよりも彼の精神に来るのは、彼女が思っていたよりも森の障害に足を取られていないことだ。

 振り向いて彼女の動向を確認すれば、立ちふさがる障害物があれば適当な魔法で無理やり吹っ飛ばして押し通っている。

 ラストには出来ない贅沢な魔力の為せる技は、彼にとって少々羨ましくもある。


「でも、ここから先は単純な暴力では抜け切らせない――」


 彼女がどうかそのまま油断していてくれるようにと願って、ラストはひたすら記憶通りの道順を辿っていく。


「ほうら、もっと早く逃げないと死んじゃいま――きゃっ!?」


 意外と可愛らしい声を上げて、シルフィアットの行軍速度が減衰する。

 己の策に手応えがあったことにちょっとだけ拳を握りしめて、ラストはその隙に一気に加速して彼女の視界から遠ざかっていった。

 一方のシルフィアットはといえば、そんなことよりも自分を襲った謎の手応えに気を取られて動けないでいた。


「なんですの、これはっ!?」


 森の地面にべちょりと落ちたシルフィアットは、その場で手足をばたばたと動かしてもがき苦しんでいた。

 その原因は、彼女の全身に絡みついている粘性の謎の物体だ。嫌にぬめりとする液体のようななにかがシルフィアットの体の至る所に纏わりついて、自慢の翼がうまく動かせない。


「気持ち悪い上になんだか臭いような……っ、これはいったいなんだというのでしょうかっ!?」


 あがけばあがくほど逆に取れなくなっていき、引き剥がそうとする動きが空回りする。

 苛立った彼女が水で流し落とそうとしても、風で払いのけようとしてもまったく取れる気配がない。

 その正体が分からず、このままではらちが明かないと彼女は火の魔法を明かりがわりに手元に灯して確認する。


「これは、この澱んだ青色、それに硫黄のような匂い……もしかして【亜竜ワイバーン】の胆汁? ――くっ、なんて汚らわしいものを! 仕方がないですわ、ええい! 炎よ燃え盛れ、【火炎球イグニスフィア】!」


 水や風では拭えないと分かったシルフィエットは、最終手段に出る。

 ――竜の体液はその多くが可燃性を有する。竜の吐き出す火炎放射も、噴射した体液に牙を撃ち合わせて着火していることを彼女は知っていた。竜種の劣化版と呼ばれる【亜竜ワイバーン】も同様だ。

 ならばいっそのこと、と面倒になった彼女は自らの身体ごと邪魔者を燃やし尽くすことを選んだ。


「熱ぅっ……くっ、なんのこれしきですわ!」


 彼女が念入りに調整した特製の身体は、簡単な魔法では傷一つつけられない。

 それでもまったく熱さを感じないわけではなく、全身が焼けた鉄板に押し付けられたような感覚を彼女は否応なしに感じることになった。

 少し待ってからひと羽ばたきして残る火の粉を振り払った彼女は、ぴくぴくと頬をひくつかせる。


「中々に面白いことをしてくれるではありませんか……」


 いくら人の手が入らない未知の【深淵樹海アビッサル】とはいえ、そのまま生き物の胆汁が放置されていることなど絶対にありえない。

 明らかに何者かの手で仕掛けられた、人為的な罠だ。

 そして、こんないやらしいものを設置するような相手はたった一人だ。

 エスが姑息な手を使うことなどありえない、となれば残るは――ラスト。


「こちらがちょっと手を抜いてやっていれば、調子に乗って……せっかくの主様の視界に入れても恥ずかしくないように調整したわたくしの肉体を、下等な獣風情の体液で汚すとはっ!」


 見下してきた弱者に一本取られたという事実は、彼女にとってこれほどまでにない屈辱だった。

 それに、シルフィアットはいつ主に見られても良いように人一倍身だしなみに気を使っている。そんな乙女の身体に汚物を平然とひっかけるような、魔族ですら躊躇うような所業に黙って笑っていられるわけがない。

 全身を怒りに震わせ、魂の底から煮え滾る魔力で大気を揺らめかせながら、引きつった笑顔で彼女は助走をつけて勢いよく翼を羽ばたかせた。


「こうなればただ殺すだけでは飽き足りませんわっ! 生け捕りにしてあのお方に引きずり出し、目の前で四肢を切り落とし、目玉をくりぬき臓物を撒き散らして、悲鳴の鎮魂歌を自ら奏でさせてやりましょう!」


 森の奥深くに潜り姿をくらませたラスト目掛けて、シルフィエットは放たれた矢のように先に広がる常闇に自らも姿を飛び込ませた。

 ――その向こう側に更なる非情と恥辱の罠が待ち受けているとも知らずに。

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