閑話 想いを形に


「……」


 ある日、ラストは額に汗をかきながら頭を悩ませていた。

 目の前にどっしりと構えているのは画架に乗せられた無地の画用紙。それと向き合いながら片手に特製の筆を握りしめた彼は、なにかを描こうと持ち上げたまま動けないでいた。

 この姿勢を取ってからおよそ半刻。未だ彼は描くべき対象を観察するばかりで、その手を硬直させていた。

 では、そこまで彼を恐れさせる描画対象とはなにか。

 そこらにありふれた素材であれば、彼は躊躇なく筆を進めることが出来ただろう。

 ――だが、彼が描こうとしているのは生半可な存在ではない。

 白紙の向こう側で静かに本を捲る、深窓の貴婦人。

 彼が半ば睨みつけるような強い視線を向ける彼女が、そっと顔を上げた。


「……おいおい、そんな悩んでたって始まらないぞ? まずは筆を走らせること、それからだって何度も言ってるだろう。いつまで君はその体勢のまま彫像になりきってるつもりだ?」

「いえ、そう簡単にはいきません。お姉さんを適当に描くなんて、僕には出来ませんっ! 星のように美しくて、花のように可憐で、剣のように強くて……それを素人の手で汚すなんてこと、気軽には出来ませんっ!」


 いつまで経っても描き始めないラストに呆れるエス。

 しかし彼はすぐさま大胆な声に反論し、元の姿勢に戻った。

 ラストの短い人生においてエスとは人という区分に限らず最も美しい存在であり、それを中途半端に描写することはどうしても許せない。

 半端な妥協を許さない彼の勉強熱心なところが、今は裏目に出ていた。


「おぅふ。まさかそこまで真剣に想ってくれているとは、いやはや不意打ちなんてやるじゃないかラスト君。余の心臓にずっきゅんと矢を打ち込んでくれるなんて、せっかく我慢している余の理性を解き放……ごほんごほん」


 今の彼はエスの失言も気にすることなく、なんなら半分聞こえてすらいない。

 ただ静かに描くべき未来を見据えて目を凝らす彼に、エスは立ち上がってぽこんと頭を本の背表紙で叩いた。


「あいたっ!?」

「ともかく、始めは下手でも構わん。他ならぬ被写体の余が言っているんだ、無礼討ちになんてしないから早く書き始めろ。なにせこれはただ綺麗なものを描けばいいってわけじゃない、立派な魔力制御訓練なんだからな!」

「……仕方ないですね。むむっ」


 ――そう、これはただのお絵描きの時間ではない。

 ラストの握っている筆には芯が入っておらず、ただの張りぼてだ。

 近くにはインク壺も置かれておらず、そのままではなにも描くことが出来ないように見える。

 その先端に、小さく魔力の灯が宿った。


「よしっ――」


 ラストが静かに着手した先に、光る魔力の線がゆっくりと刻まれていく。

 そう、これは彼の魔力制御の練習の一環だった。なにもない空中に魔法陣を描くという最終目標を達成する前の、まずは下地のある平面に魔法陣を描くための練習。それを目指すために眼前の被写体を丁寧かつ精緻に魔力で模写する、それが今日の彼に課せられた課題だった。

 一定の出力で魔力を流し続けなければ均等な太さの線にならず、ガタガタに震えたみっともない絵になってしまう。

 幼いころから一流の調度品に囲まれて暮らしていた彼は絵心はあるものの、実際に描くことは初めてだ。

 ましてやその相手がエスともなると、半端なものでは納得できないと気合を入れるのも無理はなかった。

 ゆっくりと流し続ける魔力の線、それが僅かに思い通りにいかずエスの輪郭が曲がってしまう。その動揺に伴ってインクの出力がブレる。


「あッ……くっ、これは違う!」


 僅かに書き損じた紙を投げ捨て――ようとしたが、そこに描かれていたエスをそのまま地面に接吻させるわけにもいかない。近くの机の上に乗せ、彼は新たな紙を取り出す。

 今度は最初のように描き始めるまでに長い時間を掛けなかったが……。


「顔の輪郭がこうで……胸、腹周りから脚が……」


 少しずつ目の前の輪郭を写し取り、なぞっていくラスト。

 しかしどうしてもその線が本物と見比べて歪んでいるように見えて、彼はすぐに次へと取り掛かる。


「――駄目だ」

「随分早くないか!?」


 新たな紙を設置して、再び魔力の線を引いていく。

 しかしそれもすぐに書き損じたと思って、彼は新たな紙を並べる。

 そうして何度も何度も最初から書き直している内に、失敗作がどんどんと積み重なっていく。 


「……お、おいラスト君?」

「……」


 エスが呼び掛けようが、彼は返事を返さない。

 一切の妥協を許さない芸術家のような瞳で、彼女の身体の隅から隅までを網羅する。

 その眼には普段のようなエスの性を意識して恥じらうような色は存在しない。

 自分がこんな真面目な目線で見られるのは初めての経験で、普段とは異なり今回はエスの方が逆に恥ずかしくなってしまう。


「うぅ……そこまでジロジロと見られるとだな。なんだか恥ずかしいというか、こそばゆいというか。おかしいな、風呂で裸を見られた時でもなんとも思わなかったってのに……」


 羞恥心から目を逸らすように、エスは魔力糸を伸ばしてラストが失敗だと断じた作品の山の一部を手元に持ってくる。

 その大半は既に魔力が大気中に散って消えてしまっているが、廃棄してすぐの方はまだかすかに残照が見て取れる。

 そこに写されているのは、まごうことなきエスの姿に見える。


「なんだ、どれも悪くない出来じゃないか。超一流と比べれば無論お粗末だと言えるが、素人目線から見れば十分未来があると言える。魔法使いの技能としてはとっくに合格だが……」

「駄目ですッ! まだ僕はお姉さんの美貌を、欠片も表現出来ちゃいないんですっ!」

「うぉっ!?」


 彼女の独り言を偶然聞き届けたラストが敏感に反応する。

 その鬼気迫る勢いに若干引きながらも、彼女自身真剣に想われて嬉しくないわけがない。


「お、おう……そこまで言われたのなら、もう少し被写体を頑張ろうじゃないか」


 既に彼女は飽きが来ていたが、そこまで言われればもうちょっと我慢しようという気にもさせられる。

 どきどきと心を躍らせながら絵の完成を待つエスとは裏腹に、ラストはただひたすらに絵の完成度を上げようと自分の世界に没頭していく。

 かち、こちと鳴り響く壁時計の音が聞こえなくなる。部屋の机に置かれた失敗作も視界に入らない。

 ただひたすらに目前のエスの完成された肢体を己の手の内に写し取る――その一点にラストは熱中する。


「……なぁ? そろそろご飯を食べないか? お腹がすいたろう?」

「なんのこれしき、問題ありません! お姉さんは食べていただいていて構いませんので、僕はまだ突き詰めるべきものが――いえ、むしろこの空腹感が僕に更なる集中を与えてくれている――今なら、行けるっ!」

「……ああ、うん」


 まさか頑張っている弟子を一人置いて目の前で美味しい料理を頬張るわけにもいかず、エスはそのままラストに付き合うことを選んだ。

 ――やがて外では昇っていた日がとっぷりと沈み、夜も更けるようになった頃。

 ようやくラストは、満足げな顔で筆を置いた。


「出来、まし、た……」


 息も絶え絶えに、精力を限界まで絞り尽したと言わんばかりの様子で宣言したラスト。

 散々焦らされたその出来栄えを見ようと、エスがばっと椅子を跳ね飛ばして紙を取り上げた。


「結局一日丸々と使うとはな。その執念にはあきれるばかりというか、君が余の驚くほどの成長を見せてくれるその理由の一端に触れた気がしたよ。いつも自由時間の間はずっとこんなことをしていたんだな……どれ。貴重な一日を費やしてどれほどのものが出来たか、この余が直々に鑑定してくれようではないか」


 ぐったりと床に寝っ転がったラストをよそに、エスが摘まみ上げた紙の表側へ目をやる。

 ――そこには白地一色の世界の中に静かに腰掛ける、もう一人の彼女が存在していた。

 単なる無機質な写生画のはずなのに、妙に生命力に溢れた色のないエスが向こう側の世界から見つめ返している。彼女はそのような錯覚にさえ囚われた。彼女がかつて【真魂改竄クリフォテイア】で自ら整えた肉体の黄金比が寸分たがわず再現されている。

 あまりの完成度の高さに、彼女はしばしの間その画に目を奪われていた。


「……未だ素人臭さは抜けきらん。だが精緻性で言えば一級品……それにこの絵には、ただならぬなにかが感じられる……? まさか、魔道具として成立しているというのか?」


 彼女はラストの描いた自分自身を食い入るように眺めながら、分析する。


「法が成立する以前の原初の魔導……その根源は余に対する並々ならぬ感情の爆発か……。いやはや、ラスト君には何度も驚かされる。こいつ自体はなんの効果も持たない、魔道具としては三流以下だが……研究対象としてはとんだ代物だ」


 床に倒れ伏した彼の頭の下にそっと自らの膝を差し込んで枕代わりにしながら、彼女は微笑んだ。


「素晴らしいぞラスト君。そしてありがとう、と言うべきか。これほどまでに余を想ってくれていることを証明してみせるとは、嬉しいな」

「どういう、ことです?」


 よく分かってないと言いたげな彼に、エスが説明する。


「魔力というのは、いわば無色の力だ。それを変換する法則を形に成した魔法陣に流すことで熱にも光にも、物質にさえも変化を遂げる。だが、それは魔法陣あってこそ。それ無しに操ることは出来ても、何らかの意味を与えることは普通ならば出来ない。だが、原理的には可能なんだ。魂から流出した魔力なのだから、その魂の抱いた感情を乗せて、法則を介することなく変幻自在に色を変えることが。現に、魔法の法則を見つけ出す以前の古の魔法使い――巫女と呼ばれる類の人間は生贄祈祷で雨嵐を呼んだ記録がある。それに【聖女】の出身地である聖国の周囲を覆う閉ざされた万年雪の凍結界も、余の研究によればそこに住まう民の異端を排斥する無意識が結集し一つの自然現象を成しているとも――」


 思考を口から駄々洩れにする彼女に、ラストは「要するに」とまとめを欲した。


「それって驚くようなことなんですか?」


 そんな彼の気軽さを否定するように、画を傍に置いた彼女は彼の両頬をがしりと掴んで覗き込んだ。


「無論、そうだとも! ラスト君、生物の抱く最も強い感情とは怒りであり嘆きであり悲しみであり、負の感情だ。幸福の絶頂はすぐに忘れても、不幸によって抱いた絶望は何十年たとうと消えやしない。故にこの現象も、大抵のものが魂の負の感情が凝縮された、触れるだけで周囲に災厄をもたらす封印すべき魔道具として現れる。だが、だが!」


 彼女はラストの描いた絵を見て、胸の内から声を上げる興奮に頬を朱く染める。


「この絵はそうではない! 君の純粋な余に対する想念が、画材として使用した魔力に意味を与えている! 君が失敗作と断じて捨てたものを見てみろ!」


 ラストが顔を横に動かして失敗作の山を見る。

 だが、そこには失敗作と言っても、なにも描かれていないただの白い紙しかなかった。


「分かるか、普通は魔力は体外に出た時点で拡散して外界の魔力として還元されていく。身体との接続が途切れない限りは操作することも可能だが、完全に分離した場合は意志の伝達が不可能となり支配権が白紙に戻される。だが、この絵は一向に魔力が散っていく気配がない。不動にして不壊、修復も手入れもなしに永久に飾ることのできる魔道絵画として成立している! それも負の感情など一欠けらもない、純粋な美への感動と想いが形を成した聖なる芸術品として!」

「あ、えーと。どうも……?」

「これほどのものがなぜ生まれた? 幼い子供の持つ豊かな感受性が感動に満たされ、その純粋な意思に魔力が呼応した? だがそれなら世の魔力を持つ子どもが似たようなものを残すはず……となれば他に必要な条件はなんだ? 魔力と想い以外の条件……周囲の環境か? もしくは個人の能力、彼の魔力操作熟練度か魔力そのものに特徴があるのか……実に興味深い!」


 頭の中で様々な仮説を巡らせるエスの様子に茫然となりながら、彼は気になっていたことを問いかける。


「それで、この絵は合格ということでいいんですか?」

「もちろん合格だとも! ふははっ、よくもやってくれたなラスト君! まさかこんなものを生み出してくれるとは、余の研究意欲が久々に刺激されてきたじゃないか!」

「それは分かりましたが、その。急にお腹が空いて……あの。研究したいのはともかく、一度ご飯を食べませんか?」


 ようやく集中が途切れたラストは、自分の身体の至る所が悲鳴を上げているのが分かる。

 喉は乾いたし腹は減ったし、何なら一日中座りっぱなしで腰は重いし腕もぴきぴきと悲鳴を上げている。

 ひとまずは遅めの夕食をたらふく食べて、ベッドで眠りたかった――だが。


「そんなことをしている暇があるか! 飯なんぞ食べている暇があったら研究するに決まっているだろう! さあラスト君、この現象の発生した原因を共に突き止めようじゃないか! さぁてどこから取り組もうか、まずは分かりやすく環境の変化から――温度、湿度、気圧、高度……魔力に意志の作用する条件を一つ一つ変えて……」


 弟子が弟子なら、師匠も師匠。

 そう言わんばかりに熱を上げるエスに、ラストは静かに頬を引きつらせた。

 自分のわがままで長い時間エスを拘束していたのだから、こうなった彼女に彼が文句を言えるはずもなかった。

 まる一日分の罪悪感に襲われた今の彼は、己の疲労よりも先に彼女の研究意欲を満たさんと頷く他なかった。

 ――しかし、何故か彼がこの後に同じようなものを完成させることはなく、ばたりと口に魔力回復薬を加えたまま倒れたところでようやく正気に戻ったエスによってこの実験は中止されることとなるのだった。


「すまなかったな、ラスト君……久々に面白いもんが見れたんで、つい」

「いえ、僕の方も色々と迷惑をかけたというか……すみませんでした」


 そうして二人が何度も頭を下げ合ったところで、この一件は一応の収束をみたのだった。

 原因となった彼の描いたエスの写生画は、密かに屋敷の一角に飾られている。

 屋敷に他に飾られた絵はどれも色彩豊かで歴史に名を残す超一流の画家のものばかりで、一見ラストの画は場違いのようにも見える。それでも、もし誰かに彼の画を他のものと並べて飾る根拠を問われれば、エスは胸を張って自慢げにこう言うだろう。


「余にとってはこの画こそが、一番趣味に合っているんだよ」


 ――と。

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