第30話 廻る季節と約束の時


 ――季節が一巡し、ラストは屋敷に訪れたばかりの頃から大きく成長していた。

 師匠たるエスの教育と改造の賜物で、彼の身体は既に成長期のように頭一つ分ほど背丈が伸びていた。加えて丸みを帯びて幼さを残していた部分が着実に引き締まり、精悍な青年の予兆が僅かに顔を出している。

 今のラストの年齢は八歳なのにも関わらず、既に恵まれた十歳児ほどの体格になっていた。

 そんな彼は今、一人【深淵樹海アビッサル】の中に腰を下ろしていた。


「……よし」


 手に持ったガラス瓶から細く垂らした水銀が地面に伝う。魔力浸透率の高い銀の糸で描いた魔法陣の完成度を見て、ラストは満足げに頷いた。

 幽かに神秘的な光を放つ液体金属製の魔法陣は、後は魔力を送るだけで起動する。

 それを周囲の土で覆い隠し、脳内の地図に記憶してから彼は移動のために立ち上がった。

 エスから授かった白いローブを羽織り直し、薄く日の光が差す森の中を歩く。

 すると、正面から突如一匹の大きな灰色の巨体が姿を現した。


「【衝角巨熊コルヌルサ】か、ちょうど良かった。お姉さんから新しい食糧の仕入れを頼まれてたんだ」


 【衝角巨熊コルヌルサ】――【五頭獄犬クイントロス】すら餌として喰らう肉食の魔物だ。

 それがぎょろりと黄色い目玉を剥いて、ラストのことを見ていた。

 ちょうど良い食事を見つけた、と大熊が彼へ向けて前傾姿勢を取って駆けだした。

 体当たりしようと一直線に迫りくる熊に対し、ラストは余裕そうに腰から銀樹剣ミスリルテを抜いた。


「熊さん、さようなら――っと!」


 すぐに最高速度に達した熊の身体が目と鼻の先まで接近したその瞬間、彼は上空へと飛び上がる。

 強化魔法を施した爪先で高く跳ねた彼は、そのまま空中で身体を捻って一回転。

 魔力の残光が弧を描き、銀の刃が容易く熊の首を一撃で刎ねた。


「では、失礼して。いただきます」


 崩れ落ちた熊の身体から薬となる胆のう以外の臓物を指先から伸ばした魔力の短刃で手早く切り出し、ついで食用部位を切り出す。

 本来ならば残りは地面に埋めてしまうのだが、今は他に役割がある。

 手に入れた分の肉を担いで、彼は素早くその場を離れた。

 彼が離れた後に、上空から様子を窺っていたこの森に自生する竜種が大きな音を立てて降り立つ。


「さすがにまだ竜種は狩れないし。お肉は美味しいんだけどなー。ああ、もったいない……」


 相手が囮になった余りの死体を喰らうのを背に、ラストは獲物を引き寄せるために放っていた魔力を体内に収めてさっさと立ち去る。

 すぐに森の奥へと消えていったそんな彼のことを一顧だにせず、巨竜は幸運とばかりに落ちていた肉をがつがつと齧るのだった。

 ラストは森の中を駆けながら、懐に収めていた呪符型の魔道具に魔力を流す。

 すると延々と続くかのように見えた木々の向こう側が徐々に晴れ、平地が姿を現した。

 ここまでくればもはや周囲を警戒する必要もない。

 彼は門をくぐって、エスの待つ屋敷の中へと足を踏み入れた。


「ただいま、エスお姉さん」

「ん。お帰りラスト君。持ってきたのは熊肉……となると煮込みだな。悪くない成果だ」

「本当は竜もいたんですけど、さすがにまだ倒せる気がしなくて。すみません」

「構わんさ。竜種は仮にも生態系の頂点の一つだからな。それよりもきちんと右手は持ってきただろうな?」

「もちろんです」


 ずいっとラストが切り落とした熊の右手を見せると、エスは読んでいた本を閉じて満足げな顔で近づいてきた。


「よしよし、こいつは鍋の中で大事に育てていかないとな。ふふっ、今から一週間後が楽しみで仕方がなくなってきた。早く下処理してしまおうか!」


 るんるんと食糧庫から転移で引っ張ってきた各種の香味野菜を並べつつ、彼女は嬉しそうに手渡された熊の手を撫でた。

 熊の右手は食糧である蜂蜜が浸み込んでおり、その分だけ他の部位より美味しいとされている。

 すぐに台所へと移動して他の具材を鼻歌交じりに刻み始めたエスが、傍で別の料理の下拵えをしていたラストに話しかける。


「それにしても、君もちゃんと森の中を歩けるようになったな。最初は襲われて傷だらけだったのが、今じゃ汗一つかかないくらいには慣れてきたか」

「おかげさまで」

「その様子じゃ竜種からもほとんど追われなかったんだろう? 五感の敏感な奴らから逃げきれたのは、魔力操作の力量が伸びている証だ。これならあやつとの戦いも問題なかろう」


 そういうと、エスはラストに一つの瓶を手渡した。

 濃い緑色のどろりとした液体が入っている。封を解くと、植物特有の苦い匂いが彼の鼻をつんと刺した。


「魔力回復薬だ、使った分は回復させておけ。なにせ約束の日はきっかり今日だからな」

「……はい。そうでしたね」


 約束の日、それが意味するところはつまりシルフィアット・リンドベルグがエスの下を訪れてから一年が経ったことを意味する。

 エスの立てた計画をより確実にするために、ラストは彼女と戦って勝利しなければならない。


「ですが、本当に一年後ぴったりに来るんですか?」

「来るさ。自称最も忠実なる魔王のしもべだ。余の前で一度口にした言葉を違えることはないだろうさ」

「……ですか。この一年で強くなった自信はありますが、やっぱり緊張します」

「なに、大丈夫さ。今の君ならあやつの不意を打てば勝てるだけの実力があることは余が保証するとも。シルフィアットが来るのは恐らく黄昏を迎えてからだ。それまではいつも通りに過ごしていると良い。というわけで君もこいつの他の部位の下処理を手伝え。勝利した先に待つ美味いご馳走のことを考えれば、幾らか気もまぎれるさ」


 そうして任された残りの熊の塊肉から、ラストは皮と余分な脂を剥がしにかかる。

 獣特有の生臭い匂いが鼻いっぱいに広がり、確かにこれではシルフィアットのことなど考えている余裕なんてなさそうだった。



 ■■■



 結局本当にいつも通りの生活を過ごして迎えた、黄昏時。

 空が赤く染まる中、ラストとエスの二人は屋敷の正門前で待ち構えていた。

 今の彼の格好はエスとほぼ同様だ。全身をぴったりと覆う魔獣の皮で出来た伸縮性のある防具に身を包み、その上からローブを纏っている。唯一の差異はその色彩で、エスのものが魔族の長たる【魔王】らしく漆黒に統一されているのに対し、ラストの服装は希望の旗印たらんとする【英雄】の聖なる白に染められている。

 そんな相反する装いの二人の前に、一人の魔族が優雅に空から降り立った。

 夕日を受けて茜色に輝く翼をはためかせ、そのハルピュイアがエスに傅く。


「――お久しゅうございます、主様。お約束通り、不肖このシルフィアット・リンドベルグがお迎えにあがりました」

「ほぅ、こないだから随分と装いを変えたな。その翼の輝き、余と共にあったかつての時よりも素晴らしい。魔力が細胞の一つ一つにまで染み渡っている……余を出迎えるための特別製だな」

「ええ。主様との再会の時のために用意しておいた、わたくしの八百年の集大成ですわ。前回はみすぼらしい肉体を御身の前に晒してしまい、真に申し訳ありませんでした。そも、あの時はまさか主様に出会えるなどとは夢にも思っていませんでした。人間界から騎竜が飛んできたとの報告を聞いて軽く調査しに来ていただけだったので、碌に準備もしていなかったのでございます」


 謝罪を全身で示そうと頭を地面に擦り付ける勢いで下げたシルフィアット。

 その眼はもちろん、エスの横に立つラストのことなど見ていない。


「本来ならば魔王様に付き従う全軍兵士と共に陛下の新たなる門出を祝うのが礼儀。ですが、大半の部下はこの森を越えられるほどの実力がなく、私が代表として参りました。さあ、凱旋の時にございます。魔王様の生存を信じぬ諸侯を鏖殺し、その血の杯を以て新たなる【魔王】の戴冠といたしましょう」

「ふむ。よかろう」

「ああ、ありがたき幸せ。このシルフィアット・リンドベルグ、再び主様を仰ぐことが出来るとは……」


 シルフィアットは感極まった様子で涙すら見せながら顔を上げた。

 そんな彼女の感動に水を差すように、エスが更に言葉を続ける。


「――だが、それはお前がこの人間の子どもを倒せればの話だがな!」

「はい?」


 ぴきり、とシルフィアットはたちまち能面のように表情を消した。

 そこでようやく自らの主の横にラストがいることを認識したようだ。


「あら、まだそれを生かしておいでたのですね。よろしいでしょう。主様がそう仰るのならば、この私めが魔王凱旋の余興として、その身体を微塵に引き裂いて御覧に入れますわ」


 立ち上がったシルフィアットが、ゆらりと翼を広げていく。

 その余波で魔力を伴った風がラストに襲い掛かる。

 一年前ならばそれだけで足一つ動かせなかった彼だが、今は違う。

 ぎゅっと一歩前へ足を踏み出した彼に気に入らなさそうに眉間に皺を寄せながら、それでも余裕綽々と彼女は自己紹介を述べた。


「魔王軍幹部、【銀凰翼アルゲニクス】シルフィアット・リンドベルグ。生意気な人間の子どもが私と主様の間に立つなど、なんとおこがましいことか。その罪、悲鳴と命を以て贖わせてあげましょう」


 背負っている三叉槍すら抜かずに微笑む彼女に対し、ラストもまた言葉を返す。


「僕はラスト。あなたを倒して、僕がエスお姉さんの隣に立つ」


 それだけで十分と、彼は自らの木剣に手をかけた。

 自らが崇める【魔王】の隣に立つなどという挑発には十分な宣戦布告を口にした彼に、シルフィアットは一瞬で怒りに顔を歪めた。

 その身体から漏れ出た魔力が肩に重く圧し掛かる中、ラストは決して気迫では負けぬと啖呵を切るように眼前の敵を強く睨み据えた。



 ――日が完全に沈み、夜空に月が嗤う。

 世を照らし導く光が消え、魔の者が蠢く時がついに彼らの元に訪れた。

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