第29話 樹海での訓練行楽


 幽かな木漏れ日が周囲を朧げに照らす【深淵樹海アビッサル】の中。

 木々の隙間から覗く幾数の獣の気配に囲まれながら、ラストとエスはその中を散歩していた。

 木剣を固く握りしめて周囲に警戒しながら歩くラストに対し、エスはすたすたと勝手知ったる自分の庭のように進んでいく。

 道の先を塞いでいた倒木をひとっ跳びに乗り越え、その上から彼女が一言。


「そう怯える素振りを見せるな。そんな弱者の態度をしていれば、余計狙われやすくなるだけだぞ? ――ほら、食われたいと言っている君に誘われてお客さんだ」


 がさがさと茂みの向こうから、巨大な甲虫が飛び出してきた。

 黒く刃のように輝くギザギザの大顎を開いて、ラストに一直線に襲い掛かってくる。


「くっ!」


 ラストは固い外骨格に覆われていない腹の下へと潜り込み、木剣を一閃。

 容易く切り裂けた腹から漏れ出る排泄物を浴びるよりも先に足の隙間から脱出する。

 断末魔を上げた甲虫が自重で倒れたのを確認してから、彼はエスと同じ倒木の上に飛び乗った。


「はぁ、はぁ……。これで十匹目か……」


 彼はこの調子でなんらかの魔物に数分に一度の割合で襲われており、軽く息を乱している。

 一方でエスに襲い掛かる魔物は一匹もおらず、彼女は毎回涼しい顔で彼の戦う様子を見守っていた。


「まだまだだな。魔力の制御がなってないから魔獣たちに感知されてるんだよ。もっと集中して、生命力を内側に押し留めろ。表皮から漏れ出る幽かな魔力すら、君の場合だと無駄に消費しちゃいけない」

「んむむ……むうぅ……」

「力むな。焦ると更に五感が鋭敏な魔物をおびき寄せる。そら、今度は後ろから大蛇が君を睨んでるぞ。緊張で上がった体温に目をつけられたな。あいつは煮込むと良い出汁を出す、倒して今日の夕食を一皿増やそう」

「難しいなぁ……ひとまず倒してきます」


 さっと倒木から飛び降りたラストが周囲の木の幹を蹴りながら視覚を攪乱し、蛇が彼の姿を見失ってきょろきょろと首を振ったところを背後から斬り飛ばした。

 すぐさま引っくり返して体から血が抜けきったところで、エスがまるっと亜空間に収める。


「動けるようにはなっているが、余から見ればまだ甘い部分が多い。ここまでで無駄にした分を纏めれば、強化魔法一足分になる。その差は大きいぞ?」

「はいっ」

「それじゃあ行こうか。魔力の制御に気を払いつつ、余に着いてこい」


 再び森の中を進んでいく彼女の背を追って、ラストも苔むした腐葉土の道を歩く。

 そんな彼女の身体からは、普段の威圧するような魔力の圧はまったく感じられない。

 極限まで身体から外へと自然に出る魔力を抑え込み、気配を消しているのだ。それがラストが襲われている側で魔物たちが彼女に見向きもしないことの理由だった。

 深呼吸しながら後をついて歩く彼に、エスが口を開く。


「人間と魔族の平均では、一度の魔法行使で十分の一の魔力を余分に消費している。腕を上げるに従ってその余剰消費率は徐々に低下していくが、およそ千分の一以下に迫る頃に魔力を意識して鍛錬を積む者とそうでない者で決定的な差が出る。君は当然、その壁を越えなければならない」

「……ちなみに今の僕だとどの程度でしょうか?」

「三百分の一ってとこだな。まだまだ獣たちにとっては美味しそうな餌だ」

「うぅ……頑張ります」


 集中して体内の魔力に意識を染み渡らせるラストに、彼女は微笑む。


「ふふっ、今の君はまるで誘蛾灯のようなものだぞ。この森を一人で歩けるようにならなければ、ここに住む者としては到底一人前とは呼べないからな。なに、こいつを極めればここでの生活がもっと楽しくなる。戦闘の訓練にもなるし、お遊びの枠を広げることにも繋がって一石二鳥だ」


 そうして軽々と障害を乗り越えていくエスの後ろを、ラストは必死になって追いかけていくのだった。



 ■■■



 彼らが目指していたのは、この森の水源の一つである巨大な湖だった。

 その岸辺に腰を下ろし、二人は釣竿から糸を垂らして今日の昼食を手に入れるのに勤しんでいた。


「……空はあんなに明るいのに、ここは本当に涼しいですね」

「息を休めるのにはちょうどいいだろう? 屋敷で本を読むのも良いが、たまにはこうして自然と戯れるのもいい。木漏れ日に包まれて、優しい風の中に身を任せる。心が洗われるような気分だ。っと、かかったな」


 エスが竿を上げると、食いついていた魚が二匹纏めて水面に躍る。

 それを手早く捌いて木の枝に突き刺し、傍の焚火に立てかける。

 その横には既に良い焦げ色のついたものが、パチパチと表面に油を躍らせていた。

 それを手に取って丸かじりすると、エスは良い声で言った。


「んー、美味いな!」

「……」

「ん、なんだ? そんな欲しそうな目をしても駄目だぞ。余も心苦しいが、これも君の鍛錬のためなのだからな」


 焚火を挟んで逆側に座るラストの方には、未だ一つの魚もあぶられていなかった。

 というのも、自分の食べる魚は自分で釣るというのが今日の昼食での決まりだからだ。

 既に十匹も釣って順調なエスとは裏腹に、彼の釣果は未だにゼロのままだった。


「魚は魔獣たちとは異なり、見知らぬ魔力を放つ生命の気配を感じると逃げていく。先ほどと違って動かずに座っている分、集中しやすいはずだ。頑張れ、ラスト君」


 応援しながらバリバリと骨まで食べるエスをよそに、ラストは口の中にたまる涎をごくりと飲んで意識を冷静に保とうとする。


「これを身に付ければ、一年後の戦いにも役に立つ。シルフィアットは他の魔族の例に漏れず、隠れるくらいなら魔法をぶっ放すのが好みだからな。隠れた君をあぶりだすついでにこの森の魔獣を相手にしなきゃならない。さぞ苛立って仕方ないだろうな」


 そんな彼女の言葉に、なんとか魔力を乱ないように気をつけながらラストは尋ねた。


「……この森の中で戦うんですか?」

「そっちの方が君に有利だろう。まさか屋敷の敷地内で正々堂々戦うつもりだったのか?」

「てっきりそうなるかと」


 意外そうにするエスだが、驚かされていたのはラストもだった。

 彼は戦いの舞台はてっきり【五頭獄犬クイントロス】と同じなのかと思っていた。

 だが、彼女にとってはそちらの方が意外だったらしい。


「なんだ、制空権を取られた状態で戦うことの恐ろしさについては……まだ教えてなかったな。いいか、空に目があるというのは戦いにおいて非常に有利な状況なんだぞ。とはいえ、まだ飛べる術を持たない君には分かりづらいか……いや。君は騎竜については知っているな? 人間側でも運用されていたはずだ」

「あ、はい。確か王城に待機している騎士団の一つに、騎竜で構成されたのがあったはずです。ブレイブスにも竜舎がありました」

「だろう? 竜に限らず、魔獣は莫大な維持費用が掛かる。それを踏まえてなお頭数を揃えているということは、それほど空の支配を得ることが重視されている証拠だ」

「確かに……そうですね」

「空には地上と違って障害物がない。故に地上を簡単に一望し、敵の逃げ道を推測して攻撃を行うことが可能だ。シルフィアットのやつはそう言った戦いに手馴れているんだから、少しでも奴の有利を削るこの森を戦場とする方が良い。こないだやった盤上遊戯を思い出せ。駒の視点では、それを動かす者の意図など絶対に分からない。だからそれを防ぐために、視界の悪い森に身を潜める戦法が効率的なんだよ」

「なるほど……。それにあんな森の中じゃ、自由に飛び回るのも難しいですしね」


 地面を歩くラストでさえ、木々の根っこや蔦などに足を引っ掛けないよう気を付けて進まなければならない。

 空中が主戦場である彼女もまた例に漏れず、ラストを追い詰めようとして木の枝などの多くの障害物に苦しめられることはすぐさま想像できた。


「そうだ。そういうわけで、もっとこの森に慣れ親しめ。この森について知れば知るだけ、君は地の利を得られるからな。そのためにも、魔力を封じ込められるだけの操作力が必要なんだ。……とはいえ、今日一日で身につけるのは辛いか。竿はいったん置いて、罠でも作ってみよう。腹が減ってはなんとやらだからな」

「……すみません」


 なんだかんだいって弟子には甘いエスが近くから素材を取ってこようと腰を上げる。

 ラストが悔しげな顔で竿を手放そうとした矢先、一つの手ごたえが伝わった。


「っ、来ました!」

「お、でかしたぞ! ……とはいえ、この気配は……?」


 エスが首を傾げるのに構わず、彼は勢いよく釣り糸を引き上げた。

 だが、その先に引っ掛かっていたのは魚ではなく、そもそも生き物ですらなかった。


「……ただの流木だな」

「がーん……」

「ま、まあそう落ち込むなって。釣りにはこういうのもつきものなんだ。気を改めよう。なっ?」

「……はい」


 待ちに待った反応だっただけに、そこからの感情の落差は大きい。

 ぬか喜びさせられたことに気を重くするラストの背中からは、どんよりとした雰囲気が駄々洩れになっている。

 そこに一緒に漏れた魔力に当てられて、せっかく近づいてきていた魚たちは逃げていってしまうのだった。

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