第27話 謝罪と決別


 達成感に満たされたラストはよたよたとおぼつかない足取りでエスの下へと向かう。

 ふつふつと心の中に滾る興奮は収まりつつあるものの、彼の頬は自然と緩んでいた。

 なにはともあれ【五頭獄犬クイントロス】を倒したのだから、きっと褒めてもらえるに違いない。

 そう心を躍らせながら試合を眺めていた師匠のところへ行くと、彼女はたいそう良い笑顔を浮かべて彼を出迎え――。


「こんの……馬っ鹿ちんが!」

「もぶっ!?」


 全力で振りかぶられたビンタが、彼のたわみきっていた顔にすぱーんっ! と直撃した。

 あまりの勢いにラストの身体はその場で水車のように何回転かして、その後ばたんと仰向けに倒れてしまった。

 ぐるぐると視界が揺らぐ中、続いて無理やり拾い上げられて――次に襲い来るかもしれない衝撃に目を閉じて耐えようとする彼を、エスは今度はぎゅうっと抱きしめた。

 先とはまったく異なる感触に彼が今一つ状況を飲み込めないでいると、耳元でそっとエスが囁く。


「お姉さんをこんなに心配させて……まったく、君は悪い子だ」


 ぽたり、とラストは肩に湿り気が伝うのを感じた。

 そこで彼はようやく悟った――自分は、彼女を泣かせてしまうほど心配させていたということに。

 それに気づかずに過去にばかり囚われていたラストには、称賛を貰うよりも先に言わなければならないことがある。

 彼はまだ口にしていなかった大事な一言を、ゆっくりと告げた。


「すみませんでした。その……教わったことをろくに出来なくて。お姉さんを、心配させてしまって」

「そうだ。余が先の戦いを、どんな思いで見守っていたと思う? 君が一撃を浴びる度、我が身に痛みが走るようだった。本当に何度も冷や冷やさせられて、心臓はもうばっくんばっくんだ」

「はい……」

「これほどまでに緊張したのはいつ以来だ? まったく、長らく平穏に慣れきっていた余の心臓を散々に甚振って、まさかそのまま破裂させるつもりだったか? ここまで心を乱してくれるとは、とんだ不心得者だ、君は」

「はい……すみません」


 エスの悲痛に満ちた口調に、ラストはただひたすら謝るより他はなかった。

 此度の戦いにおける失態は全て彼に起因するものであり、それで待ち人であるエスを泣かせてしまった責任は重い。

 どうすれば償えるのかすぐには思いつかず、彼はひたすら彼女の心配を受け入れる。


「いったいなにがあったかと思えば、その原因は君を捨てた両親だと言い出して。余のことを忘れて、クソみたいなことに気を取られていただと? あれだけやってもまだ甘やかしが足りないというのか。【魔王】の寵愛を受けてまだ足りぬとは、どれだけ贅沢なんだ君は」

「はい……」

「君を捨てたやつらのことに裂く意識なんて、全て余へ向けろ。過去から足を引っ張ってくる愚か者どもなんかに目を向けるな。そんなのにかまけている暇があれば、その先へ駆けるんだ。余と共に、まだ誰も見たことの無い未来へ」

「はい……本当に、ごめんなさい」


 ラストは彼女に抱きしめられながら、その顔の傍で頷いた。


「もう、父と母……ライズとフィオナのことには囚われません。僕はもう、大丈夫です。改めて、ただのラストとして。前を向いて進みます」

「そうか……そうか……」


 彼はそう、エスへとはっきりと宣言した。

 これ以上過去の苦しみに囚われ、醜態を晒すことはしない。魔力不足だとして見捨てられたラスト・ブレイブスは、その才覚の壁を越えてより明るい未来へとエスと共に歩んでいく。

 そんな決別の意志を乗せて、ラストは強く彼女の身体を抱きしめ返した。


「ならば良い。君が自分で心に決着をつけたのなら、余としてもこれ以上何も言わないさ」


 ぐぃっと彼女は一度ラストを離して目と目を合わせた。

 涙の浮かんだ紅と藍の双玉が、優しげに緩む。


「――【五頭獄犬クイントロス】の討伐、よくやったラスト君。余は嬉しいぞ。先ほどまでのは余を悲しませた分。そしてこれは、見事過去を乗り越えた君へのご褒美だ!」

「うもっ!?」


 ぎゅむーっ、と今度はいつものようにエスの豊満な胸部に顔を埋めさせられるラスト。

 彼が声にならない悲鳴を上げるのにも関わらず、彼女はぐりぐりと自分の柔らかい母性の象徴を彼の顔に押し付けた。


「余の教導した魔導剣技を巧みに操り、かつて恐れおののく他なかった敵を討ちとってみせた! 余は本当に嬉しいぞ!」

「うももももーっ!?」


 呼吸しようとすればするほど、彼女の胸元の甘酸っぱい匂いが鼻いっぱいに吸い込まれる。

 逃げようと身体を動かそうとするたびにそれがなおさら強くなって、ラストはこの世の天国と地獄を同時に味わっているような気分だった。


「ふはは、そう照れるな。この極上の肢体に触れられる者などそういないんだぞ? ありがたく受け取るが良い!」

「んむむーっ!」


 確かに、ありがたいことに変わりはない。

 思春期に突入しかけたラストにとって、エスの至高の身体は何度味わっても良いものだ。恥ずかしいことには変わりはないが、嬉しいものは嬉しい。これが称賛だというのなら、彼は素直に受け取りたかった。

 ――だが、今の彼は心底疲れ切っている。

 性欲よりも先に休みたいという気持ちが大きく上回っている。

 ただただ息苦しさに悶えるばかりで、ラストは拷問を受けているも同然の気分だった。

 なんとか、せめて一度離れようとする彼をよそにエスが興奮のままに笑う。


「この調子で精進すれば、次の試練もまた乗り越えられるとも! これからも共に頑張ろうな! きっと一年後の君なら、あやつだって倒せるさ!」

「うも?」


 それを聞いて、彼は魔犬と戦う前の彼女の呟きを思い出す。

 倒した時に改めて教えようと誤魔化されていたが、たった今聞かされた一年後という具体的な指標が彼に不穏な予感を抱かせる。ここは下手に聞き逃してはまずいと、彼は一度暴れるのを止めて続く言葉を待った。


「君に次に倒してもらうのは――他ならぬ魔族だ!」

「んもっ!?」


 魔物からいきなり飛躍した目標に、ラストは呻く。

 実際にはこの森の魔物は大半の魔族よりも強く、【五頭獄犬クイントロス】を倒せた時点で下級魔族程度ならば容易く倒せるのだが――不幸なことに、エスはその点について彼にまだ教えていなかった。

 彼にとって、魔族とは魔物の強力さと人間の知性を合わせた怪物である。

 誰もが皆【魔王】を名乗るエスほどではないだろうにしても、魔族を相手どって苦戦した人間側の記録はいくつも残されている。夜に騒ごうとする子どもには「魔族がやってくる」との言い聞かせがあるように、人間にとって魔族とは恐怖そのものなのだ。

 魔物に苦戦していた今の自分が今度は魔族を相手どるなど、随分と段階が跳んでいるように思えてならなかった。

 いずれは戦うことになるだろうが、流石に一年は準備期間として短すぎるのではないか――そんな彼の心中など同じく知る由もないエスは、彼の反応を間違って受け取った。


「ふふっ、ただの魔族では不満か! そうだろうそうだろう、なにせこの森の魔物に比べれば並の魔族は相手にならんからな! 喜べ、君が倒すのはそこらの雑兵などではない、二つ名持ちの強力な魔族だ!」

「んむむーっ!」


 ラストが違うと言おうとしても、胸に押し潰されて言葉にならない以上どうしようもない。

 彼の慌てぶりを興奮と勘違いしたまま、エスは楽しそうにその魔族の名を教えた。


「次に君に倒してもらいたいのは、そう。シルフィアットのやつだ!」

「……ん?」


 高らかに宣言された次なる目標に、彼はまず聞き間違いかと自身の耳を疑った。

 しかし、彼女がもう一度同じ名前を繰り返したことにより、それが間違いではないと否応なしに理解させられる。


「シルフィアット・リンドベルグだ」

「ん……んむ?」

「なんだ、もう忘れたのか? 一月くらい前に余らの元を訪れてきただろう。余に世界を支配しろなどという妄言をほざき、君を飼い犬扱いしたあの白いハルピュイアだ」


 もちろん、ラストはその名の持ち主のことを覚えている。忘れるわけがなかった。

 シルフィアット・リンドベルグ。

 魔王軍の幹部にして、かつての【英雄】たちとも一時互角に戦ったとの話が伝わっている歴戦の猛者。

 いくら魔物を倒せるようになって成長した彼とはいえ、無謀にもほどがある。成長した今のラストだからこそ、彼女と会った時に向けられた絶対零度の視線に込められた実力の差が分かる。彼とシルフィアットとの間に広がる天と地ほどの差は、まだまだ縮まっていない。

 しかしエスはそれでもなお、ラストが彼女と戦うことを既定路線であるかのように話していく。


「余と君の二人であんの痴れ者の目玉を引ん剝かせてやろうじゃないか、なぁ? 待っていろよシルフィアット! 貴様が歯向かったのは古にて頂点を極めた【魔王】と余が認めた新たなる【英雄】なのだとその身に叩き込んで、昔に取り残されたままの性根を叩き潰してくれるわ! なーっはっはっはっはっ!」


 一人そう興奮するエスをよそに、ラストはただ茫然と彼女に抱かれたまま垂れ下がっていた。

 一つの大きな壁を乗り越えた余韻に浸る余裕もなく、次なる壁が迫ってきている。

 しかもその壁は彼の予想を一つも二つも超えて高く聳え立っているときた。

 もちろん、彼女が言うのだから出来るのだろうとラストは信じているし、それが彼女の助けになるならばどんな相手だって乗り越えて見せる覚悟はある。【英雄】ならば急に訪れた展開への対応力は必須だし、倒さなければならないのならば戦うことに異論はない。

 しかし、だからといってとうのラストですら置いてきぼりにしていくこの展開の速さには彼も愚痴の一つも言いたくなる。

 ――そう思う傍らで、彼の右手は変わらず銀樹剣ミスリルテを握りしめていた。

 精神的余裕を取り戻したラストの頭は、既にかの魔王軍幹部を打ち倒すにはどんな知識が必要なのかの計算を勝手に始めている。過去の文献に記された彼女の攻撃手段、ハルピュイアという種族そのものの特徴……それらを読み込んだ上で、どのような作戦を立てるべきか。

 ただ彼女の笑い声を左から右へ聞き流すばかりのラストの無意識領域では、とっくにエスの色に染まった【英雄】としての思考回路が順調に働くようになっているのだった。

 昔の彼は誰かの指示や期待に応えるばかりで、そこに深い思慮を巡らすことなどなかった。

 そんな自分が本当に昔とは変わってしまったのだと感慨深くなりながら、ラストは小さく笑う。

 もう、罅割れた心の軋みが胸を痛めることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る