第26話 過去からの解放
視野狭窄に陥ったラストは、八方塞がりの状態でもなんとか奮闘していた。
いたる所から襲い掛かる魔犬の爪牙に出来る限りの強化魔法と剣を合わせ、辛うじて致命傷を防ぐ。それでも攻撃が彼の身に掠る割合は徐々に増えていた。
力のいなし加減を間違えたり、魔法陣を描く線が歪んで強化が発動しなかったりと要所要所の失敗が積み重なり、どんどん血と体力が失われていく。
せっかく魔法構築に消費を抑えるよう工夫を施していても、長期戦になれば意味はない。既に体内の魔力残量も残り一割を切っていた。
「……まだ、まだだっ……。はぁ、はぁっ……」
無理なのでは、という弱音は何度も彼の頭を過ぎっていた。
それでもなお彼は諦めるという選択肢を選ばない。
なんとしてでも敵を倒し、強くあらねば生きる価値がないとの怯えが彼の脚を否応なしに前へと踏み出させる。
だが、そんな覚悟も意味をなさず、彼の身体は襲い掛かってきた巨大な前足によって吹き飛ばされる。
いなし損ね、力が予想とは違う方向へと向かう。盾として身体との間に挟んだ剣が弾かれ、それを握っていたラストの腕が曲がった。
「ぐっ……」
痛みに泣き叫ぶ余裕はない。
このままでは形が歪んだまま治ってしまい、今後の防御に支障が出る。
それを防ぐため、彼は折れた腕をもう一つの腕で無理やり元の位置へ戻した。
「ふぅっ! ……うがあぁぁぁっ!」
骨の髄にまで響く鈍痛にみしりと歯を食いしばって耐え、ラストは間髪入れず迫ってくる涎塗れの大顎から逃げるように地を蹴ろうとする。
――しかし。
「うっ……」
またも予想通りに動かない身体、今度はその膝からがくりと力が抜けて足がもつれる。
とうに限界を迎えていた足の筋肉は脳から命令を送ろうと動かない。
不格好に姿勢を崩したラストはまるっと食われることこそ避けたものの、魔犬の体重を乗せた体当たりをくらうことになった。
「がふぅっ!」
踏みとどまることすら出来ず、文字通り宙を舞ったラストの身体は屋敷の庭先に生えていた一つの木に大きな音を立ててぶつかった。
ざくっ、と背中に複数の痛みが生じる。
見ればその木の幹にはバラのように棘が生えており、そのいくつかが彼の背中に突き刺さっていた。
だが、その程度の痛みは既にどうということはないと思えるほどに彼の感覚は麻痺していた。
それよりも次の攻撃に備えようと前を向くと、視界が僅かにぼやけている。
数分の内に血を流し過ぎた弊害が、ついにラストの脳の処理機能にまで達していた。
ぼんやりとした視界の中、木の幹にへたり込んだラストの下へやけにゆっくりと【
「ははっ、もう限界かぁ……」
いつだったか、彼が寝る前にエスに読んでもらった魔族の英雄譚に出てきた話だ。
主人公は強力な魔物に相対して死に瀕したとき、やけに時間の流れが遅く感じられたという。
その英雄は見事最後の力を振り絞って魔物を討伐したものの、彼はもはや指の一本すら動かせる気がしなかった。
自分もついに死んでしまうのか――情けない自分に笑うしかない中で、ラストはふとエスはこんな自分をどう見ているのかと彼女の方へ目を向けた。
きっと失望に見下しているに違いないだろう、と彼は考えていた。
そんな彼女にせめて最後に謝罪の一言くらいは言おうと、目を向ける。
しかし、その予想は大きく裏切られた。
「ラスト君……!」
あらゆるものの輪郭がぼやける世界の中で、彼女の姿だけは鮮明に映っていた。
「まだ、まだだ……君なら勝てるって、余は信じているっ!」
エスは両手を組んで、ラストへ向けて希望を信じる目を向けている。
彼女が抱いている感情は決して失望などではなく、ラストが勝利を掴むことを願う希望だった。
こんな状況になってもなお、彼女は己の弟子の勝利を信じている。
どうみても敗北が濃厚な場面で、ライズやフィオナと同様に出来ないからと見捨てられるのも仕方がないだろう……そんな風に諦観を抱いていたラストへ、彼女は応援を続けている。
――耳に届いたその言葉に、ラストの荒れていた心臓は一気に落ち着きを取り戻した。
「……馬鹿だな、僕は」
自分で勝手に見捨てられると怯えていたのが、まったく間違っていたことに彼は気づかされた。
忘れていた、エスに受けた言葉の数々が急速に思い起こされていく。
――ラストには力以外にも魅力がちゃんとある。エスが見捨てるなどということはない。彼女はいつだってラストの傍にいてくれようとしている。そんな彼女だからこそ、その夢のために力をつけようとしていたのに……いつしか力を身につけることに夢中になり過ぎて、自分が【英雄】を目指した根幹を忘れていた。
それを自覚した途端、手足に静かな意思の力が再び漲っていく。
「……すぅーっ……」
ラストは大きく深呼吸した。
周囲を漂う濃厚な龍脈の魔力が、空っぽになっていた彼の全身に僅かばかりの活力を与えてくれる。
「かあああぁッ!」
もはや、魔法の構築に失敗する予感など微塵もしなかった。
ラストは迷いのない魔力操作で強化をかけると同時に思いっきり地面を蹴った。
だが、残量の心もとない強化魔法をいつまでも発動しているわけにはいかない。
少しでも消費魔力を削るために、足先が地面を離れると同時にラストは強化魔法を切る。
そして、死に体だったラストが最後のあがきをしてきたことに攻撃の軌道を修正しようとする【
「【
同時に強化魔法を再び構成し、魔力を刃の先端に纏わせる。
今度は彼自身の心と完全に同調した剣筋が、ずぷりと勢いよく魔犬の首筋に正しく入った。
そのまま彼は犬の首周りを小走りに駆けて、ぐるりと一周。
切り傷が治癒するより先に最初の場所まで戻り、ラストはとどめとばかりに剣をより深く付き込んだ。
ゴキッ、と関節の外れる嫌な感覚が手に伝わる。
――ぎゃうっ!
嫌な悲鳴を上げた魔犬の首が、どすっと重い音を立てて地面に落ちた。
それを見ていた残りの首が、驚愕に一瞬動きを止める。
「まだ、もう一度だッ!」
ラストは立て続けに上半身を勢いよく引いて、強化魔法をかけ直す。
隣にあった首にもう一度剣を突き立てれば、また首を落とされてたまるかと魔犬は暴れ始める。だが、ラストは同時に足の指に強化魔法をかけてがっちりと足元の犬の肉を掴んでいた。そう簡単に振り落とされることはなく、彼はもう一つの首をすぐに落としてしまった。
――ぐるるるるっ! と怒りに魔犬が叫ぶ。
ラストを振り落とせないと分かったら、今度は近くの木にぶつけて潰してやろうと走り出す。
しかし、今の冷静さを取り戻した彼の頭はすぐに次の動きを導き出す。
「おっと」
ラストは木にぶつかる直前で足を強化し、跳躍。
一足先に木の幹に着地し、同時に魔犬の足元を見定めて一つの魔法陣を描く。
【
かわりに出来たのは落とし穴というには小さな小さな凹みだ。
魔犬を落とすには役不足な代物だが――その前足を少し引っ掛ける分には十分だ。
がつんっ、と体勢を崩した魔犬。なんとか踏ん張ろうとするも、すかさずそこへ目掛けて彼は【
ぎゃうんっ、と魔犬が悲鳴を上げる。
そこにすかさず降り立ったラストが、朦朧としている二つの頭を八の字を描くようにして斬り落とす。
「落ちろぉぉぉっ!」
次々と落ちていく魔犬の首。
唯一残されたのは一番右端の首だ。
途端に動きの良くなった――本来の動きを取り戻したラストに、【
もはや、こうなれば食うかどうかの問題ではない。なんとしてでも眼前の敵を殺して、逝った首への手向けにせんと全身に魔力を滾らせる。
それを見て、ラストはむむむと頭を悩ませる。
濃密な魔力に怒りの感情が乗った分厚い鎧。より一点集中すれば切ることも出来るだろうが、今の彼の力量では貫けないだろう。
だが、彼に後ろに下がるつもりはなかった。
「……負けたくない、もんな」
その言葉にはもはや、先ほどまでの張り詰めた悲壮感はない。
負けられないではなく、負けたくない。
勝ってエスに誇れる自分になろうと覚悟を決めた彼の言葉に、敗北を恐れる気配はない。
「斬れないなら、他のやり方を使うだけだ」
エスの見事な一刀両断を見てラストはこれまで首を斬り落とすことに拘ってきたが、彼がエスから教わったのはなにも剣だけではない。
襲い掛かろうといざ全身に力を込めた魔犬の前に、彼は手を突き出した。
その手から放たれた魔力から、一つの魔法陣が構築される。
それを見て、犬の身体が一時的に止まる。
彼が四つの首を落とした時には、常に魔法陣を輝かせていた。
これまで散々弄された小細工の原因が、全てはラストの魔法にあると魔犬は学んでいた。
本能的にその魔法もまた危険なものだと思って、警戒に足を止めて彼の様子を窺う。
――それこそが、ラストの狙いだと気づかずに。
「悪いけど、これに意味はないんだ」
ぱちんっ、とラストの正面に浮かんでいた魔法陣が解けて消えていく。
しかし、何も起きることはない――当然だ。
彼が見せていたのは、見た目をそれらしく整えただけの張りぼてだった。
では、彼の本当の狙いは何か。
疑いに周囲を見渡す獣は、ラストの視線の先を見る。
それは、己の首元だった。
首を下げて見てみれば、見づらいものの己のものとは異なる魔力が渦を巻いているのが確認出来た。
「他の首があったら気づけたかもだろうけど、分からなかったよな。でも――」
ラストは開いていた手をぎゅっと閉じる。
それを合図に、魔法陣が完成して効果を発揮した。
魔法陣が輝き、魔犬の首が白い光に包まれる。
そこから溢れる魔力量に脅威を感じて慌てて逃げようとするが、もう既に遅かった。
「もう遅い。これで、僕の勝ちだ」
次の瞬間、犬の首は全く異なる場所に展開されていたもう一つの魔法陣の上に飛ばされていた。
――そう、ラストの本当の狙いは時間だった。
他の魔法とは違い、ラストが描くのに時間を要する魔法陣――転移魔法。
その場にあるものを容赦なく、空間ごと捻じり切る恐るべき魔法だ。ラスト自身、身を以て味わっているが故に威力は抜群だ。ただしそこに込められた情報量は他のものより圧倒的に多く、他の行動と同時に完成させることは困難だ。だからこそ、少しでも余裕を作ろうと偽の魔法陣で魔犬の意識を引いたのだった。
この大地を流れる龍脈の力を借りた大いなる力には、さしもの魔犬も抵抗することも出来ずに首を千切られてしまった。
頭を失った残る身体が、一歩、二歩と歩いた後……力を失って崩れ落ちる。
全身に纏われていた魔力が霧散し、もはや完全に動く気配がなくなった。
「う……」
これにて勝敗は決した。
「うおおおおおおお――っ!」
かつて彼を蹂躙した【
それとは対照的に、身体をふらふらとさせながらもラストはその両足で立っている。
――彼はついに、己の心を縛っていた過去の鎖から自ら解き放たれた。
その歓喜を全身で表すように、ラストは残る体の力を全て振り絞って鬨の声を上げるのだった。
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