第25話 心の罅に叫ぶ
ラストがままならない自分の不調に苦戦する様子を、エスは外側から見守っていた。
「……まあ、この程度はまだ予想の内だ。頑張れ、ラスト君」
緊張による精神の揺らぎは戦いにおいて禁物だ。
焦りに逸る心の動きと肉体に培った鍛錬の経験が一致せず、結果として本来の実力の十分の一も発揮できないようになる。
特にラストの戦い方は魔力によるゴリ押しではなく、繊細な技術の上に成り立っている。
今の彼は細やかな魔力操作が必要とされる魔法陣の描画にもたついたり、剣筋を生まれたての小鹿のようにぷるぷると震えていたりしている。エスに傷をつけた先日とは悪い意味で別人のようだ。
――とはいえ、これは傍観しているエスだからこそ理解できることだ。
今まさに混乱の渦中にいるラストがすぐに自覚できないのも無理はないと彼女は考えていた。
「余が助言の一つでもやれば、すぐさま気づいて直せるんだろうが……生憎と、戦いの最中にいつも助言を貰えるわけはない。死地にあろうと常に自分のことは自分で見つめ直さなきゃ駄目なんだ。早く気づけ、ラスト君っ」
そう小さく呟くエスは二の腕の内側を指でトントンと叩き、苛立たしそうに何度も地面を踏んでいる。
今の言葉はどちらかといえば、ラストへ向けたものというよりは今すぐに助言したくてたまらない彼女自身に対する自制だった。
混乱に必死に抗おうとしている愛しの弟子を助けてあげたいのは当然の親心だ。それでも成長を導く師匠としては口を挟んではいけないと分かっているが故に、動けない。それがもどかしくてたまらなかった。
今の彼女に出来るのはただ、ひたすらラストに気づいてくれと心の中で密かな声援を送るのが精いっぱいだった。
――まだか。
――まだか?
――まだ気づかないのか?
「早く、早く……気づいてくれ。一度落ち着いて、深呼吸をすればいいんだ……」
だが、彼女の願いとは裏腹に視線の先のラストはずっと半端な動きで五頭犬に翻弄されている。
一息つく暇もなく猛攻に晒される彼はずっと気を張り詰めっぱなしで、自身を客観視する余裕はない。
「くぅっ! ふぅっ、ふーっ……」
なんとか迫りくる相手の爪を剣で受け流すくらいは出来ているものの、一向に攻めに転じることが出来ていない。
――それどころか、彼の動きはますます悪くなってきていた。
いつまでも解けない緊張に身体の不調が強くなっていき、それが更なる緊張を呼び起こす。
まだ始まって十分程度しか経っていないのにも関わらず、今のラストは既に呼吸を乱し始めている。屋敷の外周を走って鍛えたせっかくの持久力が、無駄に消費されている。
「ぐうっ!?」
受け損ねた【
致命傷ではないとはいえ、赤い血が流れたことにエスは最悪の予想を立てる。
「……もしかしたら、このままでは負けてしまうか?」
勝って彼に自信をつけさせるはずが、このままでは立ち直ることも難しい挫折へと繋がってしまうのではないか――そんな可能性が彼女の脳裏をよぎる。
「そいつはマズい、マズいぞ。心の挫折なんて治るのにどれほどの時間を必要とするか。最低でも年単位はかかる……人間と魔族の戦争が見えてきている今、【英雄】を目指すのならそれに割く余裕なんてないぞ。――これならばいっそのこと、完全な敗北を喫するよりも先に一度中断させるべきか?」
ラストの将来のことを見据え、師匠としての大局観から考えを巡らせるエス。
元より本来の計画よりも早い成長具合なのだから、多少遅くなったところで問題はない。
目先の戦いに失敗して多くの時間を取られるよりも、ここは無理にでも中断して一度仕切り直す方が良いかもしれない。
「彼には悪いが……これも余と君の夢を叶えるためだ。許しておくれよ、ラスト君」
今の彼の視点では分からないだろうが、師匠であるエスには素直なラストのことだ。
きっと一声かければ、自分の提案を受け入れてくれるだろう。そう考えて、彼女は謝罪したい気持ちに張り裂けそうな胸を目いっぱい膨らませて大きく声をかけた。
「――おーい、ラスト君! ここで一度中断しよう! 今の形勢はよろしくない、このままだと悪い結果になるかもしれない!」
だが、ラストからの返答はない。
よほど戦いに集中していて聞こえないのだろうかと、エスは今度は拡声魔法をかけて再度言葉を投げかける。
「聞こえないか! 中断だ、中断! いったん引くんだ! 君の試練に余が立ち入るのは無礼なことだと重々承知した上で言わせてもらうが、これは勝って成長を実感するための戦いなんだぞ! それなのに負けたら元も子もない!」
それでも、ラストは身を引こうとはしない。
いったいどれほど没頭しているのだろうか。個々の戦いの中で戦局そのものに気を配れないことの危険性は、エスは以前に授業内で教えたことがある。功を焦り敵将の首を取ることに熱中するあまり、周囲を敵兵に囲まれた憐れな強者の話には彼も注意深く聞き入っていた。
それすらも忘れているというのなら、いよいよラストには実戦は早かったということになる。
「いっそのこと力で介入することもやぶさかではないか……?」
エスがラストと
「止めてください!」
一瞬視線をエスの方へと寄こしたラストが、強い声で押しとどめた。
「なんだ、聞こえていたのに無視とはひどいじゃないか! なに、無理することはないんだ! ただでさえ早足なんだから、ここらで一度立ち止まっても――」
「――嫌です!」
「嫌、だって……?」
これまで散々彼女に従順だったラストの向けてきた拒否に、今度はエスが戸惑う番だった。
「今の僕の力でこの魔物を倒せるってお姉さんは言ってくれたんです! だから僕はなんとしてでも倒してみせます! だから止めないでください!」
「そりゃあそう言ったが……そんな、なんとしてでもだなんて! そこまで気負わなくても良いんだぞ!」
「出来るのなら、やらなくちゃ駄目なんです!」
「なにを言ってるんだ!?」
嗜めて次へつなげようとするエスには、どうしてラストがこの勝負に拘ろうとするのかが分からなかった。
彼は必至に魔犬の攻撃を捌きながら、心の内を漏らすように叫ぶ。
「きちんとお姉さんに教わったことを身に着けたんだって証明しないと……求められたことに応えられないようじゃ、僕はっ……僕はっ! ここにいられるだけの理由がない!」
「ここにいる理由、だって……? 君は何を言って……」
彼の言葉を受けて、エスはラストがこの屋敷へ来た理由を思い出す。
魔力不足を理由に実家を追い出され、誰も助ける者がいないはずの魔の森へ捨てられたラスト。
その孤独感と傷は、二人で一緒に過ごす生活の中で癒えたものだと彼女は思っていた。力なんてなくても彼が傍にいるだけで嬉しいのだと、彼女はラストに言葉と態度の両方で示してきたつもりだった。
――だが、彼女は知らなかった。
ラストの未熟な心に刻まれた外傷は、完全に治ったわけではなかった。
彼女に注がれた愛情で包み込まれてかろうじて形を保っているようでも、その実、彼の心の罅割れは完全に消えたわけではない。周りから支えて抑え込んでいるだけで、いつまたなんらかの切っ掛けで割れても不思議ではない状態だった。
そんな心に深く根付いていた彼の闇が、他ならぬ
「ここで負けたら、お姉さんの期待に応えられなかったら、
「……ラスト、君?」
そんな悲痛な悩みを心の奥に抱え続けていた彼がこの一戦にかける想いは、エスとはまったく異なっている。
この魔犬との戦いはエスにとっては小さな階段の一つに見えても、ラストにとっては絶対に乗り越えなければならない絶壁だった。
踏み外せば、後がない。
人は、期待に応えられない相手を簡単に見捨ててしまう。大切な家族でさえそうだったのだから――優しいエスでさえも、そうしてしまうかもしれない。そんな恐怖心が、彼の逃げられない、勝たなければならないという心を後押しする。
【魔王】にすら相手にされなくなったら、今度こそ【英雄】への道が断たれてしまう――すなわち、自分を慰めてくれた彼女の期待に応えられない自分自身への失望で、今度こそラストの心はバラバラに砕け散ってしまう。
絶対にそうはなりたくないという暗くドロドロとした心の闇をぶつけられて、エスはようやく今のラストが本当に勝たなければならない敵について気づいたのだった。
「そうか……君はずっと受け入れられていなかったんだな。両親に捨てられた時の記憶を、辛さを、ただ余との時間で誤魔化すばかりで……真に乗り越えることがまだ出来ていなかったのか。驚くべき習熟の早さも、この悪しき記憶が要因の一つか。成長しなければ失望される、そんな気持ちに追い立てられていたんだな」
捨てた息子の心に厄介な呪縛を残し続ける、顔も知らぬラストの血縁上の両親にエスは激しい憤りを覚えた。
だが、この心の傷はもはや他人がどうこうできるものではない。ラスト自身が自分という存在に確かな自信を持たなければ克服できない。
エスがやるべきなのは安全な道を用意してあげることではなく、彼の背中を支えることだ。
「すまなかったな、ラスト君。もう邪魔はしない。だから、君も余の期待に無理に応えようなんて考えるな。君は君のために、この勝負に勝つんだ――!」
彼の心の成長を塞き止めようとしてしまっていた自分の浅慮に深く恥じ入りながら、エスは腕を下げて再び沈黙を守る状態へ戻った。
これ以上の手出しはしない。それでも、せめて想える限りの祈りを胸に抱いて、彼女はラストの戦いをしっかりと見届けようとするのだった。
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