第24話 異変
翌朝。ラストを出迎えた森の静かな風は、普段よりもやけに冷たく感じられた。
緊張で寝ようとしても寝付けず、心だけが空回りを続けていた彼の身体は異様な熱を持っていた。
「なんだ、興奮して眠れなかったのか? 目元に若干隈が出来てるぞ。不調なら別の日に回しても……」
「いえ、大丈夫です。やれます」
身を案じるエスに対し、ラストははっきりと宣言した。
そのまま戦いに挑む意思を見せつけるように、彼は彼女に教わった通りに本格的な戦いの前の準備運動を黙々とこなしていく。
「……まあ、新兵の初陣はいつだって一番緊張するもんだからな。こればっかりは実際に戦いを経験しなきゃ収まらないか。うんうん、分かったよ。君の意見を信じよう。だが忘れてくれるなよ。これは君の早い成長を鑑みた上での試練だ。本来の予定よりも前倒しになるんだから、無理に倒そうとしなくたって良い。難しいだと思ったらすぐに声を上げるんだ、良いね?」
「……はい」
納得していなさそうな重い声で返事をする彼に、エスは肩を竦める。
彼女の眼には今のラストは興奮で頭がうまく働いていないのが明らかだった。
それでもいざ戦い始めれば時間と共に元通りになるだろうと思い、あえて引き留めて彼の意欲を下げるようなことは選ばなかった。なにより最悪の場合は自分が手を出せば済む話だと、彼女は深く考えることなくラスト自身の意志を尊重することに決めた。
抜かりなく身体の暖機を終えたラストに、エスがおもむろに手を伸ばす。
「さて、ラスト君。ちょいとそいつを貸してくれ」
彼の手から白銀に輝く木剣を取り、彼女はその剣身を観察しながら呟く。
「魔力がよく馴染んでいる。こっちも君に合わせて着実に成長しているな。これなら新たに剣を作る必要もない」
彼女が爪先でコンコンと持ち手を叩くと、新たな魔法陣が刻まれる。
返却された木剣にラストが魔力を流してみるも、目立った変化はない。
だが、よくよく見ればこれまでは潰されて丸みを帯びていた刃の部分が鋭利になっている。
「【銀樹剣】ミスリルテ――それが新たな君の相棒の銘だ。練習用と真剣の状態を自由に切り換えられる。魔物を斬るのにただの木剣じゃ様にならないからな」
「……ありがとうございます」
試しに軽く振ってみても、彼の手に伝わる感覚はこれまでとなんら変わりない。
剣の違いに戸惑うことなく身体を動かすことが出来るようにと思いが込められた贈りものに、ラストは大きく頭を下げた。
こんなものまで貰っては、なおさら負けられないというものだ。
よりいっそう、彼の心に熱が入る。
「話はこれまでだ。それでは君と戦う【
エスがこの間とは違い、ぱちんと指を鳴らした。
中庭の中央に大きめの転移魔法陣が拡がる。
そこから放たれた光の柱から姿を現したのは、彼の戦うべき【
その魔犬は縛られた口元に不満そうな唸り声を上げながら、真っ先にラストに鼻先を向けた。
「こいつは特別でね、ラスト君の魔力の残滓を辿って捕まえた奴だ」
「僕の魔力ですか? ってことはまさか……」
「そう、もう分かったろう。かの日に君に深手を負わせた一頭だ。逃がしてしまった得物によほどご執心らしいな、余は眼中にないらしい。ふふっ、怖気づいたか? 止めるならまだ間に合うぞ」
「……ここまでお膳立てされて、引き下がるわけにはいきませんよ。勝ちます。勝って、お姉さんの教育計画に花を添えてみせます」
そう――勝って、【魔王】に寄り添えるだけの【英雄】になれるんだと胸を張って誇れる自分になりたい。
そんな想いを胸に秘め、ラストは一歩前へ歩み出た。
「その意気だ。では行け、見事余の教育が正しいものだと見せてみろ!」
「はい!」
魔犬の身体を押さえていた魔力糸の縛りが今、解かれる。
エスと対峙したときの個体と同じように全身を震わせ、犬は生まれ持った五つの頭でゆっくりと目前の小さな獲物を見据える。
あの日前足で引っ掻けて吹っ飛ばした後、行方が知れなくなっていた柔らかそうな肉がある。
今度こそは逃がすことなく喰ろうてやろう――開始の合図を待つことなく、それぞれの頭が同じ意思を持って己が先だと言わんばかりに一斉にラストへ齧り付いた。
――だが。
「もう、僕は逃げるだけじゃない」
彼らの顎のどれひとつにも、肉を噛んだ手ごたえがない。
いつの間にか、ラストはその場所から少しずれた位置に立っていた。
正確には、五頭犬の懐――首の骨格的に届きにくい前方へと彼は踏み込んでいた。
「今日はお前を倒す。覚悟しろ大犬、その首落として僕は【英雄】に近づくんだ!」
背を見せて逃げるだけではなく、分不相応にも顔を近づけて敵愾心を見せるラスト。
魔犬はそんなことを言う彼の匂いを嗅ぎ分ける。魔力もないに等しく、乳臭ささえ完全には消え去っていない脆弱な子ども。
そんな彼に対等であるかのように扱われれば、十分に野生の誇りが刺激される。
侮られたと感じた犬の全身に怒りの力がみなぎっていく。
それを見たラストもまた、腰だめに構えた剣に力を込める。
「――行くぞ!」
ラストの声にかぶせるように、犬が吠える。
彼らは全く同時に、獲物と見定めた互いを目掛けて攻撃を繰り出した。
先手を取ったのはラストだった。
自身の懐という狭い場所に五つもの頭を同時に突っ込むわけにはいかず手間取る魔犬より先に、手早く手元に強化の魔法陣を描きあげる。
「【
脚部に強化をかけ、素早く跳ね上がったラストは数ある犬の首筋の一つを目掛けて剣を振るう。
既に刃には魔力を細く濃く乗せてあり、首の分厚い肉は斬り裂ける確信があった。問題なのはエスのものよりも短い剣身の長さだが、最初に正面から一回刃を突き立て、中心の骨の周りをぐるりと回るように斬れば良い。残りは自重で関節が外れ、落とせる――そう道筋を立てて剣を振るおうとした矢先、空中でラストの姿勢がぐらりと崩れた。
「うわっ……とっ、とっ! とととっ……」
急ぎ体勢を整えようと犬の身体の上に立ち止まるように着地するが、それでは犬の肉を貫くのに威力が足りない。
目標とは違う位置に斜めに斬り込んでしまい、彼はせっかくの好機を無駄にしてしまった。
首元に走った激痛に魔犬が身を捩じらせ、その勢いでラストは振り落とされてしまう。
地面に降りて向き直れば、既に犬の傷は龍脈の魔力で繋ぎ直ってしまっていた。
龍脈の効果自体はラスト自身も受けられるが故に卑怯とは罵れない。
それよりも彼は、自身の動きに混じった不調に困惑していた。
「なんだ、今の……?」
だが、それを把握しようとするよりも先に、今度は自分の番だと言わんばかりに魔犬が牙を剥き出しにして襲い掛かる。
彼は反射的に後ろへ飛び退って避けたものの、傷をつけられた怒りに任せた犬の連撃は留まるところを知らない。
自分の身体に起きた異変を把握することもままならず、ラストは幸先の悪いことに最初の内から防戦一方の状況に陥ってしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます