第21話 実戦の目標


 澄み切った青空の下、気合の入った掛け声が屋敷の中庭に木霊する。


「――五十七ッ! 五十八ィ! 五十……うわっ!?」

「はい、そこ。重心が指二本分ほど右にブレてたぞ。振り直しだ」


 剣を完全に振り切る寸前でラストの身体がぴたりと硬直する。

 その全身には、至る所にエスの十指から伸ばされた魔力の糸が張りついていた。


「そら、正しい形はこうだ」


 彼女が指を動かすと、彼の身体が勝手に剣の軌道を修正して五回ほど素振りを行う。

 まるで操り人形のようだが、これがエスなりの教育方法だった。

 見取り稽古よりも直接身体に正しい剣筋を染みつけさせる方が早いとして、ラストが失敗するたびに彼女はその指で以て彼に身に着けるべき剣の動きを示していた。


「さ、これで君の歪んでいた重心が違和感となって掴めたはずだ。そこんところを修正して、もう一度やってみ」

「はいっ! ……五十八ッ! 五十九ッ!」

「ん、よしよし。きちんと剣筋が立っているな」


 そう言いながら、エスは空中に置いていた資料をぺらりと捲った。

 汗を流しながら剣を振っているラストの傍らで、彼女は近くの木に背を預けながら彼の育成計画に随時修正を加えている。

 それでラストの稽古が中途半端になっているということはない。

 今の彼女は左目で資料を、右目でラストを見るという絶技をさらりとやってのけていた。

 

「――百ッ!」

「よし、それじゃ一休みといこうか。水分補給は大切だからな」


 ぱたんと本を閉じたエスに投げ渡された水筒を受け取り、ラストは中の飲み物をぐっと仰ぐ。

 最後に口元を袖で拭って息を整える弟子に近づいて、彼女は満足そうに頷いた。


「姿勢は着実に良くなってきている。形が崩れることも少なくなってきたし、ちゃんと余の教えが身についているようでなによりなにより。成長しているぞ、ラスト君」


 その誉め言葉に多少照れくさそうにしながらも、彼は申し訳なさそうに首を傾げた。


「そう、ですか? あ、いえ。お姉さんの言葉を疑ってるわけじゃないんですが……実のところ、僕にはよく分からなくて。本当に強くなってるのか、実感がないといいますか……」

「んー、そうだなぁ。自分の成長は中々分かりにくいし、斬る相手がいないんじゃ比較しようもない。それにずっと基礎訓練ばっかじゃ退屈になっちゃうか」

「いえ、文句を言っているのではなくてっ!」

「なに、普通のことさ。だからそうぶんぶんと首を振らんでも良いっての。しかし、んーむ……それなら、そろそろいっちょ実戦といってみるか」


 彼女はしばし黙考し、ぽんと手を叩いた。


「そうだ。君が初めて屋敷にやってきた時に大怪我をしていたのは覚えてるな? その時襲われた魔物について覚えてるか?」

「えっと……確か、五つの頭を持った大犬でした。動きがまったく見えなくて、手も足も出なかったです」

「ほー、【五頭獄犬クイントロス】か。あの程度ならちょうど良いだろう。ふむ、ちょっと待ってろよ?」


 そう言って彼女は再び五秒ほど目を閉じた後、なんの前振りもなく唐突に右腕を屋敷の外へと振るった。

 細い指から弧を描いて伸びる魔力糸の先端が、瞬く間に塀の向こう側へと消えていく。

 そのまま彼女は五指をわきわきと動かして、やがて確かな感覚があったのか「よしっ」と小さく声を上げた。


「さぁて、捕まえた。ふふっ、良い子だからそのまま大人しくしていろよ――そーれ、一本釣りだ!」


 彼女が糸を束ねて握り、おもいっきり右腕を引いて手繰り寄せる。

 すると、その糸に引きずられて森の方から一つの大きな影が飛んできた。

 ずしん! と地面を軽く揺らして着地したその巨体の正体は、以前ラストを痛めつけた五つの頭を持つ魔犬だった。


「っ!」


 この【深淵樹海アビッサル】における仇敵との思わぬ再会に、ずきんとラストの傷を受けた背中が痛んだ。

 思わずあの時の恐怖を思い出して後退しかけるが、今の彼はエスの下で修業を積み重ねて成長している。自分で自覚はなくとも、エスにそう言われたのだ。その小さな自負と共に、彼はきっと歯を食いしばってその場に踏みとどまった。


「こいつはこの森じゃ、大体真ん中よりちょい下くらいの強さかな。今の君が短期的な目標にするにはぴったりだ」

「ぴったりって、まさか……」

「そうだ。もう少ししたら君にはこいつを倒してもらう。どれ、試しにやってみせようか」


 彼女は【五頭獄犬クイントロス】が動けないように四肢と頭を魔力糸で縛りつけながら、自身の四肢と心臓に小さな魔法陣を刻んだ。

 それが効力を発揮すると同時に、途端に彼女の存在感が大きく萎んでいく。


「これで余の力は今の君と同じくらいに押さえつけられた。見ているといい、君でも出来るってことを証明してやろう。さ、もう起きていいぞ」


 無理やり平服させられていた状態から糸が解かれ、魔犬が大きく立ち上がる。

 折り畳まれていた獣の身体が一気に持ち上がり、ぶるりと震えて毛並みが立つ。その全身を改めて観察してみれば、ラストどころか長身のエスさえも凌駕する大きさだ。

 自身を縛り付けていた不遜な輩を見据え、【五頭獄犬クイントロス】が涎を垂らす。その雫が口元から滴り落ちるたび、地面がじゅうっと不穏な音を立てた。

 それに真正面から対峙しながら、エスは取り出した一振りの剣を構えた。


「かかってくると良い、犬っころ。精々ラスト君の良い見本になってくれ」


 言葉は通じずとも態度から読み取れたのか、挑発を正しく受け取った魔犬が大顎を開けて吠える。

 地に付けた脚がぐぐっと一回り盛り上がり……溜め込んだ力を込めて、エスへと飛び掛かった。

 触れれば岩だろうと容易く噛み砕いてしまいそうな牙が五つも同時に襲い掛かってくる光景は、常人なら失禁間違いなしだ。

 恐怖に怯え、身が竦み、ただ食われるだけの哀れな餌。

 エスもまたそうなることを魔犬は予測していた――だが、彼女は何一つ顔色を変えることなく、そのまま剣をゆっくりと腰の横に構えた。


「そーれっ」


 間の抜けた掛け声とともに、エスの姿がラストの視界から消える。

 がちん、と急にいなくなった得物に大犬の牙が空を切る。

 空っぽの手応えに困惑する大犬は、仕方なしに次に近くにいたラストを目標に定めようとして――その首の内の一つが、地面に落ちた。


「……え?」


 ずるりと地面に落ちた首が、別れた自分の身体を見て目を見開いている。

 それを見た残りの四つの首もまた、不可思議そうに頭をそれぞれ傾げていた。


「おいおい、どっちを見てるんだ。お前の相手はこっちだぞ?」


 エスの気楽な声が【五頭獄犬クイントロス】の先ほど立っていた位置から響く。

 そちらにラストと大犬が慌てて目を向ければ、剣を肩に乗せた彼女がにやりと頬をつり上げていた。


「どうだいラスト君。中々綺麗に斬れているだろう。このまま剥製にして屋敷の壁に飾ってもいいとは思わないか?」

「は、はあ……」


 なんと答えれば良いのか分からず呆気に取られていた彼をよそに、大犬が落とされた首一つの仇を取ろうとエスへと襲い掛かる。

 だが、彼女は再び姿を消す――否。

 しっかりと目に力を込めれば、今度はラストにも僅かに彼女の動きが見えた。

 四つ首の隙間に身体を潜らせて、すれ違いざまに首を一閃しているのだ。

 更に流れるように剣を返し、一度の邂逅で同時に二つの首を落としてみせる。


「さて、もう例は良いだろう? お疲れさん、安らかに眠るといい」


 過ぎ去ったエスが身体を反転させ、大犬が振り返るよりも先に残りの首を纏めて切り裂いた。

 どすっ、と全ての首を失った【五頭獄犬クイントロス】の身体があっけなく地面に崩れ落ちる。


「……」

「ま、こんなもんか。どうだい、ラスト君」


 軽く剣の表面についた血を振り落として片付けたエスが、唖然としたままのラストに近寄る。

 自分では戦いにすらならず、逃げ回るのが精いっぱいだった魔物がいとも容易く倒されたのだ。

 普段のエスの様子からは【五頭獄犬クイントロス】を倒してもなんら不思議ではないのだが、今の彼女はラストと同等まで力を落としている。

 それでも傷一つつかずに凶悪な魔犬を倒してみせた彼女の洗練された技量に、ラストは驚きを禁じ得なかった。


「信じられないだろうが、君の力でもこれくらいのことは出来るんだ。もっとも、こうもあっさりいくのは余の腕前があってこそだけどな。それでも、君もただ倒すくらいならコツを掴めばなんとかなるとみている。魔力の多寡は関係なしに、この森の魔物どもくらいは狩れるようになってみせないとな」

「は、はい……っ!」


 気を取り直して声に力を入れるラスト。

 彼はふと、次の素振りを始める前に魔犬の死体に近づいてその切り口を眺めてみた。

 その首の断面は本当に綺麗に、すっぱりと一刀両断されている。

 筋繊維の一つ一つから血管、骨髄に至るまでが潰れることなくその形を美しく保っている。

 その並々ならぬ達人芸に、木剣を握る彼の腕がぶるりと震えた。

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