閑話 一方その頃、元父親は
「――逃げろ! 逃げろぉーっ!」
蒸し上がるような熱気と土埃、そして鼻をつく鉄臭さの中に怒号が響く。
皮鎧を着た兵士たちが一目散に、蜘蛛の子を散らすように平野を駆け出していく。
そこにはもはや、軍隊としての規律などなにもなかった。
「命が惜しいものは後ろへ下がれ!」
自分たちの御印である双剣の交差した軍旗を踏みにじり、身を重くする金属製の武具を一つ残らず投げ捨てて、彼らは脱兎のごとく逃げ惑う。
だが、いったいどこに逃げ場があるというのだろうか。
「来る、来たんだ! 見えるだろう、あの恐ろしい輝きがっ!」
彼らを襲わんとしている脅威は、上空に浮かぶ巨大な
「――【
慌てふためく【
太陽を顕現させる大魔法の詠唱、それを謳うのはたった一人の壮年の男性だった。
「――日は満ちた。争いは今こそ終幕に至れり。善悪の一切を灰燼に帰す、大いなる星の裁きを今ここに。爆ぜよ、【
ゆっくりと落下する、城一つ分はあろうかという火球が戦場の一切合切を焼き尽くした――。
■■■
「お疲れさまです、ライズ・ブレイブス殿。さすがは我が国の誇る【英雄】、刹那の内に敵兵の全てを滅ぼしてしまわれるとは陛下もさぞお喜びになられるでしょう」
「お世辞は結構。陛下の命令はこれにて遂行された。貴様は範囲外に逃げた残りの雑兵どもをさっさと片付けに向かえ」
「ははっ、それでは失礼いたします!」
ささっと身を引いていった武官をよそに、ライズは勢いよく傍らにあった酒をあおる。
戦場にあるまじき豪奢な調度品が完備された【英雄】専用の天幕の中で、彼は軽く鼻息を鳴らした。
「ふん、つまらんな。気晴らしにもならん」
彼が機嫌悪そうにナッツを噛み砕いていると、新たに一人の男性が天幕に入ってきた。
ライズと似たような顔立ちをしており、無精ひげを生やしている。
彼がじろりと睨みつけるも、相手は飄々とした様子であいさつ代わりに片手を上げた。
「なんだい兄貴、そんな辛気臭そうな顔してさ」
「……マウント。なにをしに来た」
「そりゃもちろん、大切な兄上の顔を拝みに来たのさ。いつもは別んところで魔法をぶっ放してるあんたが俺んとこに顔を出すなんて、どんなつもりかと思ってな。――それに娘がうるさくてね。へっへっへ」
「娘だと?」
――ガシャァァンッ!
次の瞬間、彼らのいた天幕が勢いよく吹き飛ばされた。
瞬時に魔力の鎧を身に纏った彼らは無事だったものの、その他のものはことごとくガラクタと化してしまった。
すっかり開けた彼らの視線の先には、剣を振り切った一人の女の子が立っていた。
漆黒の髪を麻紐で尻尾のようにくくった、くすんだ瞳を持つ少女。
「……ラスト。今日こそ首、もらい受ける……」
ぼそぼそと呟いた彼女に、ライズが呆れた目を向ける。
「ハルカまで連れてきていたのか」
「ああ。兄貴がいると聞くと私も行くって駄々をこねるもんでさ。へっへ、うちのお姫さんはそっちのラスト君にご執心なのよ。で、どこにいるんだ? こないだ誕生日を迎えたばかりだし、てっきり初陣に連れてきてると思ってたんだが」
マウントが周囲を見渡すも、どこにも彼の甥の姿は見当たらない。
同じく瓦礫を引っくり返してラストを探すハルカを見ながら、ライズは苦々しく答えた。
「……ラストは死んだ」
「死んだぁ? おいおいどうしたってんだ。生半可なもんは治癒魔法でどうにかなるってのによぅ」
「急病だ。昨日発表されたばかりゆえに、お前たちが知らんのも無理はない」
それを聞いて、ハルカがぴたりと体の動きを止めた。
「……ラスト、死んだ?」
「そうだ。なんども言わせるな小娘」
不機嫌そうなライズが言い含めると、彼女はすたすたと天幕のあった場所から離れていった。
少しして、そう遠くない場所から悲鳴が響く。
ライズの記憶が正しければ、声が聞こえてきた方の天幕には軍に潜入していた諜報員が捕らえられていたはずだ。
「あーあ、ハルカの奴キレてーら。ったく、まあしゃーねぇよな。今日こそはぶっ殺すって息巻いてたのに、その相手がいなくなっちまったんだからよ」
「……人切り癖は相変わらずか」
「ああ。ありゃ母譲りの天性の才能さ。俺でもどうしようもねぇ。最近じゃ魔法剣も身に着けて、どんどん色んなもんを切って回ってる。だからこそあいつを相手しても平然として、誕生日なんかには贈り物を欠かさねぇラスト君くらいしか嫁に引き取ってくれる奴がいなさそうだったのによぉ。まさか死んじまってるとはねぇ。急すぎるっての。これじゃ性格も直らなそうだし、学校に行ってもロクな仲間を作れねぇな」
ぼりぼりと頭をかくマウント。
いくら【英雄】に求められるのが一騎当千の戦闘力とは言え、その他の能力が欠けているようでは問題だ。最低限の良識が無ければ、人前に出すことも出来やしない。
だが、昔は彼らも似たり寄ったりだった。
生まれ持った強大な力に驕り、周囲を好き勝手にかき回すのはブレイブス家ではそう珍しくないことだ。
年を経れば自分たちと同じように自然と戦闘欲も収まるだろうとマウントは娘の将来を楽観視して、もう一つの話題へ移った。
「ま、ハルカのことよりもだ。――兄貴には伝えたと思うが、最近ちょくちょく魔族の影が見える」
「知っている。魔族の領域に放った斥候からも報告が上がっている。人間側の地域でも、異形の連中が散見されるようだ。十中八九、何らかの企みが動いているとみて間違いない」
「ああ。奴らが何を企んでるかは分からねぇが、いざというときのことは考えとかなきゃならねぇ。兄貴も早めに次を作っとけよ」
「お前に急かされるまでもなく分かっとるわッ!」
「おお怖い。なら良いんだけどよぅ」
ひらひらと手を振って出ていくマウント。
ライズはハルカの奏でる悲鳴を聞きながら、ワインをぐびぐびと飲み干していく。
――弟に言われずとも彼は次の準備はきちんと行っている。
というのも、ラストを捨ててから妻であるフィオナの夜の求めが段々激しくなってきているからだ。
余りに執拗な夜の誘いには最近のライズもうんざりしており、それ故に彼はこうして弟の担当する戦場にわざわざ出てきて敵兵でうっぷん晴らしをしていたのだ。
あれからというもの、屋敷の中の雰囲気は彼にとって息が詰まるようになっていた。
ラストの一件の顛末を知っている使用人たちの目線が一々鼻につくし、フィオナは精神的に不安定になっている。
「まったく、死んでも親に迷惑をかけるとはな。あの愚息めがっ!」
彼の投げ捨てたワインの空瓶が割れ、空しい音を響かせる。
次を手に取ろうとしても、全て姪のハルカに斬り飛ばされていたことに気づいて彼は舌打ちする。
仕方なしに、ライズは酔いに身を任せて目を閉じた。
彼の耳には、風に乗って聞こえてくる姪の狂気がいつまでも木霊していた。
――大森林の奥にて、息子のラストはエスと共に寄り添いあって安らかに心の傷を癒している。
――それとは対照的に、父ライズの精神はささくれ立つばかりであった。
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