第10話 一日の終わりと日常の始まり


 風呂上がりには既にエス特製の猪肉の濃厚シチューは完成しており、それをお腹いっぱいに頬張ればもうラストにはおねむの時間だった。

 ぷるんとした脂身と噛み応えのある肉の調和が、余韻となって彼の舌に残っている。

 このまま眠ればきっと、良い夢を見られるに違いなかった。

 朧げに目をしばたかせたラストは、エスの腕に抱かれて寝室へと案内された。

 部屋の中心にどんと置かれていたのは、透き通った濡羽色のカーテンに囲われた巨大な天蓋付きベッド。もちろん二つに別れているわけもなく、その上には二人分の枕が置かれていた。


「さ、おいで。一緒に寝ようじゃないか」


 見慣れた早着替えで寝間着姿になったエスがベッドの縁に腰掛けてラストを手招きする。

 彼女が身に纏っているのは透明感のある紫のネグリジェだ。ぼんやりと照明が弱い部屋の中で、その服は彼女の大人びた雰囲気を更に引き立てている。大事なところは厚手の布で隠されているが、それが逆に少年の未熟な情欲を煽る。

 思わず、これまで通りに後ずさろうとしたラスト。

 しかし彼は思い切って前へと足を踏み出し、自ら彼女の腕の中に入っていった。


「分かり、ました……」

「おや? 本当に良いのか?」

「……はい。恥ずかしいですけど、お姉さんのために我慢します……」


 彼がそう覚悟を決めたきっかけは、風呂場でのエスの独白だった。

 永久の孤独感に苦しみ続けていた彼女のことを思えば、ラスト自身の羞恥心など二の次だった。

 ――【英雄】に相応しい力はなくとも、【英雄】のように困っているエスの心を癒せるのならば仕方がない。

 彼は彼女のためにその身を差し出すことに躊躇しなかった。


「んっふっふ。そうかそうか、よーしそれじゃあお姉さんと一緒におねんねしようか!」


 ぎゅっとラストを抱きしめたエスが、後ろ手に倒れて横になる。

 ぼふん、と天にも昇るような柔らかさのマットレスが二人を優しく迎え入れた。


「ラスト君は暖かいなぁ。ぬくぬくだー」


 ラストの体温を直に感じ取ろうと、エスはより密着度を上げる。

 両腕で抱いていたのが更に両足でラストの小さな体を絡め取り、頭を彼のつむじの辺りへ乗せる。

 彼はまるで、自身がぬいぐるみにでもなったかのような気分だった。

 エスは遠慮することなく、自分のしたいように身体を押し付けていく。


「満足されているなら、なにより、です……」


 もちろん、されている側のラストにはたまったものではなかった。

 シーツから漂う濃厚なエスの生活の匂いと、直に伝わってくる柔らかさに強く異性エスのことを彼に意識させる。

 ただでさえ爆発しそうな羞恥心を堪えているのに、こんなことをされてはラストの心臓は本当に破裂してしまいそうだった。

 じんわりと汗のにじむような熱と揺れる理性にラストが必死に耐えていると、エスが彼の耳元に口を寄せる。


「良いねぇ、子どもはあったかくて。湯たんぽみたいでほっとする……寒くない」

「寒いくらい、お姉さんなら魔法でなんとかなるんじゃないでしょうか?」

「そりゃま、猛吹雪だろうと一発で晴らしてみせる自信はあるけどね。そういうことじゃないんだ。誰かといるってのは、心の中がぽかぽかってするのさ。そいつだけはどうも、一人じゃどうしようもなくてねぇ」

「……」


 それを言われて、ふとラストは自分はどうなのだろうかと考えた。

 ――誰かとこうして寝ることは、彼にとっては遠い昔の出来事だ。

 英雄の戦場に家族はいない。戦士の母親や恋人は後方で帰りを待つものであり、彼らが寝るときは常に寝袋の中で一人きりだ。その孤独感に耐えるため、ブレイブス家では幼いころから一人で寝ることが当たり前だと躾けられる。

 だが、それでも生まれてからしばらくの頃は母親に抱かれて眠っていたはずだ。

 身体に刻まれたその頃の記憶が、似たような状況の今ふと蘇る。

 ――ねーんねんころりよ、おころりよ……。

 母フィオナの腕にこうして抱かれて、ぐっすりと安らかに眠っていた時期がラストにもあった。

 そこから離れて一人で寝るようになってからも、家の中には母親が待っている。だからこそ寂しくなかったが――。


「うっ、くっ……」


 ――今の彼には、帰る場所ブレイブス家がない。

 忘れられていたはずの寂しさが急にぶり返してきて、彼は急に生きた心地がしなくなった。

 先ほどまで汗が出そうなほど暖かったはずなのに、ラストは身体の芯から指先までぞぞぞっと冷え込んでいった。


「ラスト君……?」


 ――なるほど、これがお姉さんの言っていた、自分ではどうにも出来ない寂しさなのかな。

 そう悟ったラストの震える身体を、不意にエスがぎゅぎゅぅーっと強く抱きしめた。

 ただし、それは彼女自身のためではない。

 ラストを気遣っての、力強くも優しい抱擁だ。


「……君になにがあったのか、余はまだ知らない。だけど君だって、人の心配をしてるだけじゃなくて、余に存分に甘えて良いんだぞ? 年齢的にはこっちの方が、君を慰めてあげなきゃならないんだからな」

「……駄目ですよ。僕よりも寂しいのはお姉さんなんですから……」


 ラストがもぞもぞと身体を動かして前後を入れ替える。

 エスと向かい合うような形になった彼は彼女の両脇へそっと手を差し込み、彼女を抱きしめ返した。


「そっか。それじゃあ、こうしてお互いに慰め合おう。余も君も、二人でいれば一人でいるよりもずっと暖かい。……おやすみ、ラスト君。良い夢を」

「はい、おやすみなさい……お姉さん……」


 そうして互いに抱きしめ合っていると、自然と二人の心から寂しさが薄れていく。

 相手を想う気持ちと相手に想われる心地よさに包まれて、彼らはそのまま安らかに眠りについた。

 ――エスはラストの必要としている、帰ることの出来る場所を差し出して。

 ――ラストはエスの求める、話すことの出来る相手となって。

 互いに互いの求めるものを補い合い、助け合い、安心できる時間を歩んでいく。

 それが、これからしばらくの彼らにとっての、ありきたりの日常として定着していくのだった。

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