第9話 大戦の記憶


 あの後、なんとか自分の身体は自分で洗うと主張して最後の尊厳だけは守り通したラスト。

 エスは人差し指を唇に当てて切なそうな顔をしており、それに僅かに気持ちが揺るがされたものの、なんとか彼の男の子としての意地がぎりぎりせり勝ったのだった。

 必死に己の胸の動悸を収めようとしながら、彼は同じく身体を洗い終えたエスと共にくったりとお湯の中で身体を伸ばす。


「おいおいラスト君。いい加減そっぽ向いてないでこっちを向いておくれよ?」

「駄目です。なにがなんでも絶対に。それをやったら最後、僕の大事なものがなくなる気がするので」


 なお、ラストは出来る限りの抵抗としてエスの身体から顔を反らして、なにもない天井を見つめ続けていた。

 女体にまったく興味がないというわけではない。

 むしろ一度目にしてしまった分、なおさら彼の本能はエスに興味津々だ。

 だが、相手が気にしていないからと言って露骨な眼を向けて良いわけがない。それは【英雄】うんぬん以前に紳士失格の振る舞いだと、彼は必死に己の欲望を押さえつけていた。


「そっかー。ま、無理に顔を合わせる必要もないけどね。ただ余が寂しいってだけで」


 エスがんーっ、と背伸びをする。

 ちゃぽん、と滴り落ちた雫が小さな水音を立てた。

 何故かラストの耳にはその響きが甘美なものに聞こえてならなかった。


「ここのお湯は熱くないか? 魔族と人間とじゃ熱気への耐性も違うからなぁ。お姉さんに合わせて無理をしなくても良いんだぞ?」

「大丈夫です。むしろこの熱いのは外側からではなく内側からというか……」


 ラストは風呂の熱よりもよほど、自身の身体の芯がかっかと熱を出しているように思えた。


「ふーん、そっか。で、どうだ? 少しは落ち着いたか?」

「……ええ、良くも悪くも。ご迷惑をおかけしました」


 むしろ先ほどまでの記憶よりも物凄い光景で上書きされた分、より性質が悪くなったというべきか。

 なにはともあれ、今のラストの中でエスの剣技への感動はひと段落ついていた。


「そいつは重畳。ま、何事も初めは失敗するもんだ。次から気をつければいいさ。……で、こっちの方はどうだい?」

「今度はなんのことですか?」

「もちろん、この屋敷と余のことさ。今日一日である程度は知ってもらえたかな」

「……はい。いくつか引っ掛かることはありますが、エスお姉さんは非常に優しい方であると」


 色々とラストの羞恥心を喚起させる振る舞いはともかくとして、彼は今もなお多大な恩を受け続けている。

 突然の来訪者など本来は一顧だにされず追い返されてもおかしくはない。

 それを拾った挙句に寝る場所まで与えてくれたエスに、彼が好ましい感情を抱くのは当然のことだった。 


「なら良かった。最初にも言ったが、人と顔を合わせるのは本当に久しぶりなんだ。だから君に迷惑をかけて嫌われてやしまわないかと心配だったんだ」

「そんなことは……」

「あるさ。単純に人とのかかわり方を忘れていたのもあるが、ほら。余は魔族で君は人間だろ? こっちの古臭い価値観じゃ、魔族と人間ってのは目と目が合っただけで殺し合うのが当然だったからなぁ。でも、そうとはいえ久々の話相手にはどうしても逃げられたくなくって、精いっぱいのおもてなしをさせてもらったんだ。お気に召したようで何よりだよ」

「……その、お姉さんは【人魔大戦デストラクシオ】に参加した方なんですよね?」


 ラストは薄々感づいていた疑問をぶつけた。

 戦争を直に体験したとしか思えない、戦いを大きく厭う発言。

 そして数百年前から生き延びている事と、人と魔の戦いについて述べた今の言葉。

 それらを踏まえて、彼は彼女が【魔王】と【英雄】たちがしのぎを削っていた時代の生き残りだと推測していた。


「ああ。余はあの戦争の生き残りだよ……あんな話をしていれば、自然と察せるだろうな。特に君は相手のことを気にかけられる、聡い子だからな」


 エスの声のトーンが、がくんと下がる。

 それまでは楽しく陽気な声だったのが、一転して寂しく真面目なものになった。


「辛い話になる。聞きたくなくなったら、いつでも言ってくれていいぞ。……あれは本当に酷い戦争だった」


 彼女の瞳が遠い過去の記憶を映し出す。

 そこに描かれるのは怨嗟、悲鳴、絶望……ありとあらゆる負の観念を凝縮したこの世の地獄だった。


「常に互いの裏をかき、欺瞞と阿鼻叫喚の隙間を縫っていかないと前に進めない。休みなんてのんきな時間は一秒たりともなかった。気を抜いたら即座に死神が迎えにやってくるからな。ホント、クソみたいな時間だったよ。特に魔族側は、味方にも敵だらけだ」


 エスの吐いた重いため息に、ラストが耳を疑った。


「味方にも敵、とは?」

「裏切り、密告、戦果目的の独断専行。元より力こそが全てな世界だ、自分の気に入らない上官がいればそいつの寝首をかくことさえ常態化していた。同族の首級を上げて反対派を黙らせるなんて、普通のことだった。余はこれでも魔王軍の上にいたからな、部下に寝床を襲われたことも多々あった。もちろん貞操的なのでは……いやそういうのも多少はいたが、大体はお命頂戴の方だ」

「そんな、まさか……」

「そんなこともあって、余は誰かと関わるのがおっくうになった。とことん他の魔族と価値観が合わなくてな、いい加減疲れたんだ。だから人間側の【英雄】たちが出てきた時に、真っ先に決めたね。こいつらに殺されたふりして、さっさと逃げちまおうって。余のここでの生活はそうして始まったんだ」


 一つの厄介な思い出が終わってすっきりしたのか、エスの声色が多少持ち直す。


「最初の頃はそれでよかった。一人で好き勝手にやりたい放題、邪魔してくる奴はだーれもいない。なにせここは名のある奴らでさえ足を踏み入れない魔境だからな。――だが、百年くらい経った頃から急に寂しくなったんだ」


 しかし、すぐにその調子は元のどんよりとしたものに戻ってしまった。


「最初は気のせいだと思って研究に打ち込んだ。打ち込めていた間は良かった。だけど、やりたかったことを全部終えてすることが何もなくなった時、余は激しい孤独感に襲われた。今更外に出るのも憚られて、一人寂しく過ごす毎日。だから、君の姿を見つけた時は本当に嬉しかった。でも、ちょっとだけ不安だった。君は人間だから、魔族の余とは関わろうとはしないのでは、とね」


 エスの暗くなっていた瞳が、ラストの下へと向けられる。

 そこにはここまでの暗い雰囲気とは違い、確かな希望の光が灯っていた。


「君は余の話をこうして聞いてくれる。話せば言葉を返してくれる。人間と魔族の戦争が終結してからだいぶ経って、魔族への警戒心が薄れたからかな? ま、理由はどうあれ余はとんでもなく嬉しかった。だからな、君はたびたび余に感謝を言うが、こっちこそお礼が言いたいんだ。ありがとう、ラスト君。君のおかげで余の心はかなり救われている」

「僕だって、なんどお礼をいえば良いか……! 少しでもエスお姉さんの役に立てているのなら、良かったです!」


 自分の存在が彼女の一助となっていると言われて、ラストは喜んだ。

 彼女が苛んできた孤独感は、彼自身が【深淵樹海アビッサル】で味わったものよりもずっと根が深いものに違いない。

 例え魔族だろうと、彼にとってエスはとんでもなく強く、そして優しいただの女性だ。彼女を助けたいという気持ちは、決して種族の違いなどで曲げられるものではないと彼は無意識の内に拳を強く握りしめた。


「――昼間の件だが。なんならずっと話さなくても良いぞ?」

「え、何を急に……」


 突然そんなことを言い出した彼女に、ラストは戸惑いを隠せない。


「君の性格から察するに、余の事情を聞いたからには自分のことも話すのが筋だと考えるだろう? それはつまり、君が自分の話をしない限りはここから出ていくことはないということだ。そのまま嫌な事なんか全部忘れて、永遠に余とここで暮らす……そんな選択肢は嫌かな?」

「……それは」


 即答するには難しい問いかけに、彼は言葉を詰まらせた。

 その内容は一見、ラストがエスを助けるという先ほどの内容と同じだ。

 しかしそれがどうにも危ういことのように思えて、彼は頷くことが出来なかった。


「……冗談さ、変なことを話して悪かったね。忘れてくれ」


 もやもやとした表情を浮かべるラストに苦笑して、ざばりとエスが立ち上がった。


「どうにも口が回り過ぎた。のぼせたかな? 余は身体を冷ましてくるとしよう。君はまだ入っていて構わないぞ。着替えは出口に用意しておくから、上がったら着替えといてくれ。終わったら迎えに来る」


 彼女はそう足早に、ぺたぺたと音を立てて去っていく。

 その背中には、未だ拭いきれていない寂寥感がうすぼんやりと圧し掛かって見えた。

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