第2話 謎の美女魔族


 次に意識がはっきりとした時、ラストは自分が天国にいるのではないかと疑った。

 眠る前の徐々に体の苦痛が失われていく感覚は、きっと死の予兆に他ならないと感じていたからだ。

 だからこそ、彼はつんと鼻をついた現実味のあるインクの匂いに思わずはね起きた。


「……ううっ。こ、こは……?」


 目を開けた途端に彼の視界に飛び込んできたのは、部屋いっぱいを埋め尽くす本だった。

 四方八方の壁どころか天井にすら本棚が張りつけられ、その中には大小様々な本の背表紙がずらりと並べられている。

 なんとも壮観な光景に、彼は思わず目を引き寄せられた。

 いったいどんな魔法がかかっているのだろうか――そんなことを考えていると、がちゃりと扉の開く音がした。


「おや、起きたのかな?」


 ラストに女性特有の澄んだ声が掛けられる。

 もしや自分を助けてくれた人だろうかと思い、感謝を言おうと音の方へ顔を向ける。


「うわっ!?」


 そして、その声の正体を見てラストは絶叫した。

 それも仕方のないことなのかもしれない。

 なにせ彼の視線の先に立っていたのは、真っ黒のローブを身に纏った挙句、頭に大きな竜の頭蓋骨を乗せた得体のしれない人影だったのだから。


「おや、どうしたんだい? まさか美しき余の身体に一目ぼれしたとでもいうのかな?」

「ド、ドドド――げほっ、ごほっ!」

「おっと。ひとまずこれを飲みたまえ」


 驚きと喉の渇きに息を詰まらせたラストに、すかさず相手が傍に置いてあった水差しからコップに水を注いだ。

 差し出されたその中身を勢いよく飲み干して、彼はようやく生き返ったような心地と共に先ほどの続きの言葉を叫んだ。


「ドラゴンのスケルトン!?」

「あ、そういえばこれつけっ放しだったな。すまないね少年、とある危険な実験をしていたんだ。人と会うのは久しぶりだから、会話するときはマスクを外すというのを忘れていた。いやあ、うっかりうっかり」


 がちゃり、と黒ローブが頭の骨を外す。

 その下から姿を現したのは――ラストがこれまでに見たことのない美女だった。

 腰まで翻った、財宝の如く煌めく豪奢な金髪。

 甘くほろ苦い異国の菓子のような褐色の肌に、ぱっちりと開いた紅と藍のオッドアイ。

 首から下はローブに隠れていて見ることが出来ないが、それでも十分美しいであろうことは想像に容易い。

 初心な少年にはあまりに眩しすぎる、絶世の美女がそこには立っていた。


「あ……いや、その……あ、ありがとうございました!」


 真っ赤になった顔を隠すように、慌ててベッドから身体を起こして頭を下げる。

 そんなラストの反応を面白そうに笑いながら、彼女は彼の傍へと寄った。


「ン。別に感謝されるほどのことをした覚えはないがね」

「ですが、背中の傷を治してくれたのはお姉さんですよね? 五つ頭のおっきな犬にひっかかれて出来た傷なんですけど……」

「いや。それをやったのは余ではないよ。ここは龍脈の吹き溜まり、それも特上のものでね。死にかけの老人だろうと一日経てば活力が若者同然に回復する、そういう場所なんだ。余はただ、屋敷の前で血まみれで倒れていた君をベッドに運んだだけさ」

「それでも、運んでいただけただけでうれしいです!」

「いいよいいよ。さ、頭を上げて」

「いえ、そういうわけには!」

「いいからいいから」


 半ば無理やりに頭を上げさせられるラスト。

 頬に添えられた手から漂ってきた甘ったるい大人の女性の匂いに、再び彼は顔を赤く染めてしまう。


「それで、どうして君みたいな人間の子どもがこんなところにいるのかな?」

「そ、それは……」


 ラストは気まずそうに顔を背ける。


「ここは【永眠領域エンドレスト】、人間で言う所の【深淵樹海アビッサル】だ。ただの少年ならば、踏み入れた瞬間死んでいるはずなのだけどね。それにその面構え、どこかで見たような気がしなくもない……」


 顎に手を当てて、女性は首を傾げる。

 その一つ一つの仕草すら、ラストには妙に色っぽく見えて仕方がなかった。


「ま、気のせいだろ。余がここに引き篭もってウン百年になる。今どき知り合いの人間なんぞ、誰一人として生き残ってるわけもないか」

「え……ウン百年? ってことはまさか、お姉さんは人間ではないのですか?」

「なんだ、人族以外を見るのは初めてか。そうだとも。余は魔族だ」


 胸を張る彼女に、ラストは懐疑的な視線を向ける。


「本当ですか? その、魔族は人間を見たらすぐに襲い掛かって骨まで食べてしまう凶暴な生き物って聞いていたんですけど」

「誰から聞いたんだい、そんなデマ。魔族に人間を食らう習性はない。そも、人間なんて豚や牛に比べれば骨ばっていて肉も少ない。今にも何か食べなければ死ぬ、というのでもなければ手は出さないさ。……それで」


 じろり、と今度はラストが疑いの目を向けられる。


「先ほどの答えがまだだったな。君は何ゆえに余の屋敷の前で倒れていた?」

「……それは」


 二色の眼の睨みを受けて、ラストは黙りこくる。

 なにはともあれ、こうして家に入れてベッドに寝かせてもらった以上、彼にとって目の前の彼女は恩人であることに相違はない。

 しかしそんな彼女であろうと、「自分の能力不足で家から追い出された」という恥ずかしい理由をはっきり言うことは彼の幼いプライドが邪魔して出来なかった。

 だが、それでもやはり恩を受けた以上は自分も礼を尽くして全てを話すべきだろうか――揺れ惑う感情にラストが目を右往左往していると、女性は諦めたように首を横に振った。


「ま、よかろう。誰しも他人に言いたくないことの一つや二つあるだろうからな」

「……すみません」

「なに、構わんさ。それで少年、帰る場所はあるのか? あるのなら送ってやらんこともないが」

「……いいえ。今の僕には帰れる家なんて……」


 ラストは気絶する前の両親の様子を思い浮かべる。

 今更戻ったところで、あの様子では家の中に入れるはずもない。

 自身に向けられていた般若の如き形相とドス黒い負の感情が思い起こされて、ラストの顔に黒い影が浮かぶ。それどころか、彼は頭を抱えてガタガタと恐怖に身体を震わせ始めた。

 そのラストのただならぬ姿を見かねて、女性が一つの提案を出した。


「そうかい。なら、しばらくこの家で暮らさないか?」

「えっ、良いんですか?」


 ラストにとって願ってもない申し出に、ぱっと彼の顔が上がる。

 思わず聞き返した彼に安心感を与えるように、うんうんと女性は頷いた。


「なに、余もかつては残虐だの邪悪だのと散々言われたが、困っている子供を見捨てるほど薄情ではないさ。それによくよく見れば、中々の美少年だからな。ふふふ……」


 なにやら怪しげな笑みを浮かべる彼女の視線が、徐々にラストの顔から下の方へと移っていく。

 今のラストは何一つ身に着けておらず素っ裸の状態で、ズレたシーツの下にはくっきりと彼の身体の影が浮かんでいる。

 その様子にラストは咄嗟にシーツを手繰り寄せ、全身を覆い隠す。

 それが逆にそそるとでも言わんばかりに舌なめずりをする彼女に若干引き気味になりながらも、ラストは感謝の意を込めてもう一度深く頭を下げた。


「え、えっと。僕は出来損ないで、お姉さんに大したものは返せないかもしれませんが……でも、僕に出来そうなことならなんだってします! 掃除や洗濯くらいなら、僕にだって――!」

「ははっ、そんなことはしなくていいさ。だけど、代わりに余の話し相手になっておくれよ。誰かと話すのは久々でね、それだけでも十分嬉しくて仕方がないのさ。じゃ、これからしばらくの間よろしくしようじゃないか……あーっと、そう言えば君の名前をまだ聞いていなかったね。なんて言うんだい?」

「僕はラスト・ブ……」


 ここで彼は、自分にもはやブレイブス家には居場所がないことを思い出した。

 そうなれば、家名としてブレイブスを使うことはできない。

 改めて認識した悲しい現実に流しそうになる涙をこらえながら、ラストはこれまでの自分とは決別するように言い切った。


「いえ、なんでもありません。僕はラスト、ただのラストです」

「ほぅ、ただのラストねぇ」


 明らかに誤魔化された言葉だが、彼女は深く追求することはしなかった。


「わかったよ、ラスト君。余はそうだな、エスとでも名乗っておこうかな。本名はちゃんとあるんだが、君は知らない方が良い。それに君に隠し事があるのなら、余もこれくらいは良いだろう?」

「はい、エスさん……エスさま?」

「様付けは止めてくれ、嫌な思い出が蘇る。そんな改まった呼び方よりも、余はさっきのように気軽にお姉さんと呼ばれた方がよほど嬉しいよ」

「分かりました。これからよろしくお願いします、エスお姉さん」

「うむ。それにしてもエスお姉さん、か。ふふっ、実に良い響きだ……それも将来有望そうな少年に言われるとなおさら……」


 感極まった様子で呟くエスに、謎の冷や汗がラストの背中を伝う。

 なにはともあれ、こうして謎の美女魔族エスと元【英雄】の一族のラストの奇妙な共同生活が始まったのだった。

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