第1話 森の中の黒き屋敷


 人は動かずとも腹が空き、腹が空いては戦は出来ぬという。

 従って、やがて空腹と喉の渇きに襲われたラストが生きる糧を得ようとして森の探索に出ようとするのも、至極当然のことだった。

 立ち入り禁止区域に指定されているだけあって、彼の行く手を阻む者は様々だ。

 少しでも日の光を得ようと歪んで生える植物に、その隅々に生息する得体のしれない昆虫。それらは屋敷の資料に記載されていた人間界の危険生物リストに名を連ねる動植物たちよりも遥かに恐ろしく感じられた。

 さらに、それらの中を自在に蠢く魔獣たちの存在が、いっそう彼の足取りを慎重にさせていた。


「どれが食べられるのか分からないよ……。まずは水だっけ……?」


 食物の確保は半ば諦めて、せめて水源だけでも確保しようと試みる。

 かつて実家の所有する山で行ったサバイバル訓練を思い出し、水の痕跡を探すラスト。

 しかし、この慣れない森の中で川や湖を見つけることがどれほど奇跡的な確率なのか――本当にうまく見つけられるだろうかという不安が、彼のただでさえ絶望的な未来予測に拍車をかけていた。


「……むぐっ」


 紫色の蔦を掻き分けてその向こう側を見た際、ラストは咄嗟に自らの口を手で押さえつけた。

 ばくばくと高鳴る心臓を押さえるよう意識しつつ、息を潜めて近くの木陰に身をひそめる。

 彼の視線の先には、五つの頭を持つ大犬がよだれを垂らしながら鎮座していた。

 ――かつて魔王の忠実な下僕として大勢の人間の兵士を食い散らかした【地獄の番犬ケルベロス】は、三つの頭を持っていたという。その力は一頭につき、優に十の人間を超えると言われている。

 それが計五つともなれば、どう考えても今のラストの手に余る相手だ。

 幸いにも相手がラストに気づいた様子はない。

 このままひっそりとこの場から立ち去るのが最善だと、彼は決して目線を逸らさないまま、一歩ずつ後ろへと下がり始めようとした。


「……っ!」


 次の瞬間。

 視界から魔犬の姿が消えたのを認識したラストは、反射的に身をその場にかがめた。

 ――がおんっ、とその頭上で鉤爪が大気を切り裂く。


「うわわっ!」


 ごろごろと転がりながら距離を取るラスト。

 体中を土塗れにしながらなんとか立ち上がった彼の視線の先では、あまりの引っ掻きの勢いに彼の隠れていた木の幹が半分抉れていた。

 やがて大きな音を立てて倒れた大樹の向こう側から、のしのしと魔犬が姿を現す。

 その視線は、明確にラストの方へと向けられている。


「――うわわわわっ!?」


 立ち向かうことなど考えもせず、彼は一目散に背後を向いて逃げ出した。

 魔犬側も、肉付きが悪いとはいえせっかくの柔らかそうな肉を放置しておく道理はない。

 一手遅れながら、ラストの背中目掛けて強靭な四肢が大地を抉った。


「うわわわわっ!?」


 ラストはくねくねと曲がりくねった障害物だらけの道を、最短ルートを見極めて走り抜ける。

 多少の傷は止む無しと、かつての山籠もりで培った技術で出来る限り被害の少ない道を判断する。

 だが、その技術も圧倒的な力の前にはただ平伏すのみ。

 後ろを見れば、大犬が障害など知ったことかと言わんばかりに全てをなぎ倒しながらラスト目掛けて一直線に猛進していた。

 紆余曲折の道を進む未成熟の人間と、ひたすら直進する野生の獣。

 どちらが早いかなどは言うまでもない。

 ――ザクゥゥゥッ!


「痛ぁっ、くぅっ、ああああああぁぁぁぁぁぁっ……!」


 振り抜かれた爪の攻撃が、ラストの背中を裂く。

 まるで焼かれた時のような激痛が走るが、それでも彼の身体は痛みには耐性がある。

 どくどくと後ろから血を流しながら、彼は必死に悲鳴を押し殺しながら逃げ続ける。

 大声を上げればその分、他の魔獣が集まってくる。

 やせ我慢のまま走り続けると、再び身体に衝撃が走る――ガンッ!


「っぐっ、うううっ……!」


 魔犬の身体のどこかがぶつかったのか、ラストの身体は大きく前方に投げ飛ばされた。

 彼の小さな身体はくるくると宙を回って、最後に枯葉の積もった腐葉土の上に落ちた。

 木や岩にぶつかるよりはマシなものの、柔らかな衝撃が全身を駆け抜けて思わず堪えていた涙があふれた。

 だが、泣いている暇などない。

 すぐさまラストは立ち上がり、周囲に迫っているであろう相手の気配を探した。

 ――だが。


「あれ……来ない?」


 耳を澄ませてみても、巨体の動く足音が聞こえない。

 獣に特有の直接的な殺気も感じない。

 なんなら、今のラストには先ほどの大犬以外の魔物の気配すら一切感じ取ることが出来なかった。

 おかしなこともあるものだ、と彼はふと周囲を見渡して気づく。


「木がない。地面だって平らに整ってるし、歩きやすい……。もしかして、人がいるのかな?」


 明らかに何者かの手が加わった気配のある場所に、ラストは僅かに心が落ち着いた。


「ここなら、助かるかも……?」


 彼は自分が今いる場所が、魔族の領域であることに気が付いていない。

 彼の両親であるライズとフィオナがラストの行き先を決めている時は意識が朦朧としていて、話の内容をよく覚えていなかったのだ。


「……ふぅ、ふぅ」


 安堵が大きくなるにつれて、ラストの呼吸が荒くなっていく。

 なにせ、今の彼は背中に大きな裂傷を刻まれている。

 彼は気づいていないが、運の悪いことに先ほど彼に当たったのは大犬の前足だった。その先端に伸びる三つの鋭い爪が、彼の後ろの肉を深く抉っていた。

 いくら次代の【勇者ブレイブス】として鍛えられたとはいえ、七歳児の身体では限界を迎えるのも早い。


「だ、だれか……いませんか……?」


 一縷の望みをかけて声を上げるも、返事をするものは誰もいない。

 その代わりと言ってはなんだが、ラストは自身の近くに足跡が続いているのを発見した。


「これを……辿れば……」


 その先へ歩くこと、数分。

 もはや立ってすらいられず、地面に倒れてしまってもなお、それでも彼は芋虫のように這う。

 再び意識が遠のきつつある中、彼はひたすらに前へと進んでいった。


「……あれ……は?」


 ラストの強い意思に報いるように、彼の視線の先に巨大な黒い影が映る。

 その影へと、彼はじりじりと距離を詰めていく。

 徐々に姿を現したのは、彼の見たことのない異様な大屋敷だった。

 外壁から門に至るまで一切が漆黒に塗られ、見る者を自然と傅かせる格調高い雰囲気を放っている。

 ――これほどの屋敷の持ち主ならば、回復薬の一つは持っているかもしれない。


「……あ……あ、の……」


 なんとか屋敷の主に助けを請おうとするも、ラストの枯れた喉は既に一つたりとも言葉を発せなくなっていた。

 心なしか、彼は先ほどからやけに背中の痛みが薄れて身体が軽くなっているように感じていた。

 このままではまずい、と彼の直感が叫ぶ。


「……あ、あ……」


 それでも言葉以外で助けを求めることなど、今のぼんやりとしている頭では思いつくことなど出来やしなかった。

 最後に屋敷の門の一部をがしりと掴んだところで、ラストの意識は再び深い眠りの世界へと落ちていった。




 ――無残な姿で血だまりに沈む少年のことを、屋敷の頂点に翻る旗が見下ろしていた。

 その表面に描かれているのは禍々しい九芒星エニアグラム

 魔に連なる九つの種族を束ねることを示すその証を、かつての人族は畏怖を込めてこう呼んだ――【魔王旗章ディアボラック】と。

 だが、それが意味するところなど今のラストには知る由もなかった。

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