ゼムジの魔法使い
いちふじ
第1話
長き戦乱と飢えと飢饉が多くの人生を奪うとしても、まだ多くの人生が生を紡いでいる。
雨が続いていた。
ぬかるむ山道をひとりのみすぼらしい男が上がっている。
もう、陽は落ちて足元不確かだというのに、何だかせわし気に歩を進めている。
身は痩せ細り、頬はこけ、ぎらついた目玉だけが元気に動き回る。三十の歳が十も二十も老けて見える。
一寸は伸びた髭に雨が滴る。数本抜け落ちた歯の透き間からは昼間に半生(はんなま)で食らい付いた蜥蜴(とかげ)の青臭い臭いが零れ落ちている。
青笹を掻き分けながら進む泥道は滑り易く、山作業に慣れた男でも気を付けなければ、いつ足を取られてもおかしくない。
手足には、跳ねた笹の葉に擦り切られた細い傷が幾つも重なり、鮮やかに赤い血を滴らせている。
ここまで登って来たのは久しい。
年に一度や二度、生薬の実が必要な時くらいしか足を運ばない。
ふと、頭を上げると、暗闇に見える微かな灯りが草木の中に浮かんでいた。
薄い杉の皮を何枚か葺いただけの引き戸だ。何度も叩けば軽く破れそうな。
それなのに、外の人物は「おばば、おばば」と声を上げながら強く叩いている。
「開けておくれ。今手が離せないんじゃ」
耳元で囁くしわがれた声に、男は勢い良く戸を開けた。
三畳程の狭い掘っ立て小屋だ。杉の皮の屋根から染み込む水滴が床を濡らしている。半分は土間、半分は荒削りの杉の木で簡単にしつらえた寝床があるだけだ。
竈(かまど)では使いこなされた鉄瓶に火がかけられ、異様な臭いを放つ緑色の液体がグツグツと煮られている。
男の半分も無い白髪まみれの老婆は、垢で汚れる黒い魔法衣に身を包み、深い皺に埋もれた線のような目を鉄瓶から動かさず、じっと火の加減を見詰めている。
「おばば。ちょっと頼みたい事があるのじゃ」
男は、濡れた体を気にする事も無く、老婆の側に体を近付けた。
「こんな夜にわざわざ何用かい。大事な気付け薬を作っておる最中なんじゃ……」
老婆の口は少しも動かず、言葉だけが男の頭に忍び込む。
「実は大変な事が起きたんじゃ。おばばの力を貸して欲しい」
山に籠る身ではあるが、何の知識も無い村人にとっては頼りにする存在である。
魔法使いの老婆がいるお陰で、病が治り、予言を頂き、雨を呼んでくれる。老婆がいなかったら、村はとっくの昔に滅びていておかしくない。
お陰で知りたくない村の情報も老婆の頭の片隅に入って来る。
男は、村の旅籠屋で下働きをしている。元は山あいの農家の次男だが、口減らしの為に家を出されたのだ。ひ弱で臆病者だが、仕事は手を抜く事が無く、旅籠屋では如才無く日を過ごしている。
「わしは、今これに掛かり切りなんじゃ。話を聞くぐらいしか出来んぞい」
老婆の目も口も体も鉄瓶に向き、身じろぎもしない。口を動かさない為、傍目には、男が勝手に喋っているとしか見えない。
「構わん。老婆の助言が欲しいんじゃ」
男は、骨皮ばかりの両手を大袈裟に振り回す。
旅籠屋は主人とその嫁だけで営む小さな稼業だ。
痩せた村にわざわざ訪れる者も少ない為、旅籠屋の他に商人から仕入れた品を売りさばいて生活の足しにしている。
旅籠屋には、娘がひとりいる。白い肌が特長で気立てが良く、話好きで、村でも人気があって、悪く言う者はいない。もう、年も十五を迎え、嫁の話も出ているようだ。
「その娘さんがお昼から姿が見えんのじゃ」
「ほお、昼から……」
「そうじゃ。今、村総出で探しているんじゃが、どこに行ったのか見当もつかん」
「山菜採りでもして、道を間違えておらんかね」
「それも探しておる」
「使いに出されたとか」
「ご主人様が使いに出すなら、おれの役目じゃ」
「最後に見たのはいつじゃ?」
「それがお昼じゃ。おれが庭で野菜を洗っていたら、離れの小屋から出るのを見たんじゃ」
「どこか出掛けたのか?」
「さあ。外に出るとこは見てないから分からないんじゃ」
「朝は何してた?」
「旅籠屋の手伝いだ」
「その後は?」
「ご主人様には、出掛けると言って出て行ったみたいだけども」
「姿を見た者はいないのか?」
「いなかったみたいだな」
「お前が最後の目撃者か?」
「恐らく」
老婆は、少し息を吐くと、竈の横で切り分けていた草花を鉄鍋に放り込んだ。
「これで、朝まで煮込めば完成じゃ」
鉄鍋の中身は、より薄黒い色に変わり、形状も水分が飛んで飴状になっている。
「おばば。それよりも娘さんの居場所が分からないんじゃ。何か、知ってる事無いのか?」
男は多少苛立たし気に言った。
「おれには時間が無いんじゃ。早く教えてくれっ」
「疑われていちゃ、しょうがないの」
「お、おう……」
最後に見たのが男だったら、犯人と疑われてしまうのも無理は無い。しかも、元は村の部外者だ。
老婆は、初めて視線を男に向けると、外を指差した。
「では、しばし表で待っておれ」
「外で?」
男が同じく外を指差すと、老婆は重々しく頷いた。
雨は小降りになり、薄い雲の透き間から月がちらほら顔を出すようになっていた。
足元は相変わらずぬかるんでいるが、月明かりのおかげで歩き易くなっている。
老婆は、男を従え、少しずつ道を下りて行った。
遠くに見える村では、松明の明かりが数本行き交い、近くの山にも樹々に隠されながら光が見えている。まだ、捜索が続いているようだ。
「人は、生きておれば間違いを犯す事はある。まあ、大きいのと小さいのと色々じゃがな。肝心なのは、その間違いを如何に正すかでその後の人生を左右するのじゃ」
すっかり力が弱り、歩くのも不便になった老婆は、一歩一歩億劫気味に足を運ぶ。
「逃げるばかりでは、いつまで経っても同じ事じゃ。ちゃんと己の罪に向き合って、責任を負う事で、上手くいけば再びやり直しが出来るものじゃ」
「別に、こんな時に人生訓を聞く余裕は無いんじゃが……」
「これは、どんな時も必要な心掛けなんじゃ。一度二度は上手く逃れても、それを続けるといつかは痛い目に遭う」
「止めればいいんじゃろ? バレない内に」
「そうはいかん。誰しも上手くいってる間は止められないもんじゃ。このままではいつか失敗してしまうと頭で分かっても、なかなか自分では止められないもんじゃ。他人の助言があっても難しい」
「なあ、言ったじゃろ? こんな話をしてる暇無いんじゃって」
老婆は道を外れ、ふと山に分け入った。
山に生きる者にとって、獣道も道になる。只の山肌にも見えない道が無数につけられている。
急斜面のその場所は、周囲に樹々が生い茂り、村からも見えにくい。
老婆は立ち止まると、男に振り返り、じっとその顔を見詰めた。
男は、痘痕の出来た頬を荒々しくかきむしると大きな溜め息をついた。目が所在無げに動き回る。
「そうか。やっぱり知ってたんじゃな」
「わしの元に来たのもそれが目的じゃろ?」
男は頭を掻くと、可笑しくも無いのに笑った。
「さすがは、おばばじゃ。いつ分かった?」
「……人は、言葉を吐く時、頭の中にその思いを浮かべておるものじゃ。わしが幾つか問い質した時、お前さんは、昼間の出来事を思い浮かべながら話していた。それは、口にしたのも同じ事なんじゃ。わしには、全てが見えておった。後は、お前さんが気を変えてくれるのを待つだけじゃった」
「何だ? おばばは、本気でおれが反省してご主人に謝ると思ってるんか?」
「……人は、最後の最後までやり直す機会を与えられているのじゃ。今は、最悪だと思っても、やり直して取り返せる未来があると分かっていないだけなんじゃ」
「じゃあ、何か? おれもやり直す機会があるというのか? おばばには、それがちゃんと見えているのか?」
「お前さんが本当に心を入れ替えるのなら、な。残念な事に、今は見えん。お先は真っ暗じゃ」
「ふんっ。そんなにな、おれの運命が分かってたまるものか」
男は腰の後ろから山刀を取り出すと老婆に近付いて行った。
「そういうおばばはどうなんだ? この先の事が見えておるんじゃろ? どうやって、この場を切り抜けると言うんじゃ?」
老婆は、振りかぶった男の暗い目を覗き込んだ。常に楽な方法を選んで来た人間が持つ奈落の底が見えていた。
「道は選ぶものじゃが、己が力を使って選ぶものじゃ……」
次の瞬間、男の前からおばばの姿が消えた。子牛程もある熊が現れ、男の前に立ちはだかっていた。
老婆は、鉄鍋をかき混ぜる手を休めていなかった。
その場を動く事もなかった。
雨にも打たれず、山道を歩いてもいなかった。
老婆は、只、薬を作っているだけだった。
雨上がりの村は、強い陽の光に包まれていた。
草木は輝き、鳥が生き生きと空を舞っている。
旅籠屋には多くの村人がたむろしていた。一晩中捜索に携わった者らの為に炊き出しが行われ、互いに勝手な推測、噂話、法螺話に湧き立っている。
旅籠屋の主人は、一睡もしていない疲れた顔のまま身なりだけを整えて、老婆の待つ部屋に現われた。
老婆は、部屋の隅に小さく座り込んでいた。
「ささ、そんな所に座っていないで、どうぞこちらに来て下さい」
主人が進める座布団も構わずに、老婆は懐から笹の葉に包まれたものを差し出した。
「これは、わしが二日間煮込んで作った気付け薬です。奥様にお役に立ちましょう」
「薬……ですか」
主人は、老婆の側に近付くと、恭しく受け取った。
「昨日が終わっても今日が始まり、今日が終わっても明日は来ます。人の心も日々変わります。肝心なのは、正しく修正する気持ちの持ち様なのです……」
老婆の決まり文句だ。
これが始まると、重要な言葉が続くのは村人の誰しも知っている。
主人は、思わず身を正し、老婆の話に耳を傾けた。
「生きるのに苦しい時代です。それは、誰もが同じです。貧しい家に生まれて他所に出されるのは、確かに辛い事です。そこで、一生が決まり、終わる。楽しい事など何も無い。日々働くだけの人生。生きるだけの糧しか得られず、蓄えを貯める事も出来ず、想い合う人も出来ず、心がすさむだけ。そんな毎日に、憧れの光が現れ、それに執着したとしても簡単に非難出来ません。想いの相手は、稼業の手伝いを早々と終え、見付からぬように家を出ました。落ち合うのは、村から見られない山の中。好いた人と逢瀬を重ねるには適当な場所です。事を終えた後、相手が去ってから盗み見られていた事に気付かれます。これは、良い秘密を握った。その者は、自分も求めます。しかし、激しく拒否されてしまいました。挙句の果てには、お前が襲い掛かって来た事を言ってやる。父に暇を出すようにしてやる、と。そんな事をされたら、死も同然です。追い出されたら生きる当てはありません。思わず逆上し、手にかけてしまったのです」
そこで、主人ははたと両手で顔を覆い、崩れる表情を隠した。
「娘さんは、誰にも気付かれずに家を出ています。逢瀬の相手も簡単には名乗り出る事は無い。後は自分が知らぬ存ぜぬを通せばバレる事は無い……」
「何と言う……、何と言う事だ……」
もう、主人は老婆に憚らず、ぽたぽたと涙を落としていた。
「いや、ひとりだけ、確かめずにはおられない人間がいた。あの老婆だったら、もしかしたら知っているかもしれない。村の相談を聞いている魔法使いだ。自分の主人も頼りにするだろう。ならば、先に自分が行くしかない。もし、知っていたら、老婆の命も奪い取ろう。ひとり殺したんだ。もうひとりやっても同じ事……」
主人は、泣き腫らした顔を上げた。
「もういいですっ。娘はどこにいるんですか? 教えて下さいっ」
老婆は、名目して頭を垂れた。
そう。そういう事なのだ。
人は常に自分の事しか頭に無い。
男は、旅籠屋で重労働に苦しんでいた。勿論、それはどこも同じだが、その男の気持ちを汲み取る者がひとりしかいなかった。
旅籠屋の娘は、時折男を気に掛けていた。その作業を手伝い、話相手にもなっていた。男の暗い心の内にほのかな淡い想いが生まれても仕方無いだろう。
ある時から、娘は男に口裏を合わせて貰うようになった。両親に内緒で外出する事が多くなったのだ。理由は分からないが、娘の頼みなら喜んで協力した。
娘も許嫁を決めようという話が持ち上がっていた。相手は、庄屋の息子だった。
偉い人同士の話だ。男は、諦めの気持ちでその話を聞いた。
その日、娘の秘密の外出が何なのか、確かめようとする。
密かに後をつけると、娘は村の若者と会っていた。
それは、男と同じ貧しい農家の倅だった。
どうして、自分じゃ無くあいつなのか。
男は、許嫁の相手は身分の差で諦めていたが、同じ身分の者が娘と心を通わしている事を知って、自分も娘と良い関係になれるかもしれないと思い違いをしてしまった。
主人は、村人を連れて、老婆が教えた場所に向かって行った。
老婆は、静かになった旅籠屋の中で置いてけぼりになっていた。
「……結局、そういうものじゃ。痛みも苦しみも、人は目に見えないと何も気付かないし、気付こうともしないのじゃ」
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