第46話 10年くらい前までの東大はまさに無法地帯だったんだな

 さて、引っ越し準備で必要なものを購買で購入してから、篠原さんの部屋の前に向かった俺達だが、部屋の前についたとたん篠原さん達三人はとたんに慌てだした。


「あ、すみません。

 皆さん少し部屋の外で待っていてください。

 特に前田さんはお部屋の中を絶対覗いたりしないでくださいね」


 俺はコクとうなずいて言った。


「あ、ああ、わかったよ。

 外で大人しく待ってるさ」


 一体突然どうしたんだろうな。


「まさか篠原さんは実はツルの化身で俺への恩返しで部屋の中で機織りをしてるとかかな?」


 冗談めかして俺がそう言うと斉藤さんは苦笑していった。


「そんな事があるわけ無いでしょ」


「んじゃあ、ミステリなんかでよくある殺人現場に偶然遭遇してしまって被害者の死体や凶器を隠して完全犯罪にしようとしてるとかかな」


 もう一度冗談めかして言ってみるが斉藤さんは苦笑しつつ否定した。


「もちろんそんな訳はないわよ。

 大体そうだったら呼んできたときに来るわけ無いでしょ」


「まあ、そりゃそうだ」


 しかし長谷部さんは深刻な顔でいった。


「まあ、今はそういうことはないと思うが、10年ほど前の東大であれば、そういう事もあったかもしれないとは聞いたことがあるな」


 長谷部さんのその言葉に俺と斎藤さんは仰天した。


「え、マジですか、その話」


「本当にそんなことが?」


 コクっとうなずいて長谷部さんは話を続けた。


「ああ、まあ、私もOGの先輩に聞いただけだから、どのくらい正確な話なのかは分からないがな。

 昭和43年(1968年)から翌年昭和44年(1969年)にかけて続いた東大紛争で最初に動いたのは全学共闘会議こと東大全共闘だが、東大生の多数派が警視庁を相手とする紛争から離脱した後でも安田講堂等校舎の占拠・封鎖を続けたため、機動隊が、安田講堂の封鎖解除と共闘派学生の大量検挙を行った。

 そのため東大全共闘はほぼ壊滅した。

 まあ、このあたりは東大入学目指して調べたことがあれば誰でも知ってるだろう」


「いわゆる安田講堂事件ですね」


 俺がそういうと長谷部さんはこくっとうなずいて言葉を続けた。


「ああ、そうなんだが、話には続きがあってな。

 70年代はオイルショックによるインフレなどもあり東大紛争のときに台頭した日本共産主義化党系列の日本民主青年同盟、いわゆる民青と日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派いわゆる革マル派はそれなりに支持されていて、東大生の2割ほどはどちらかに属していたらしい。

 ちなみにこの頃の寮自治会は民青に牛耳られていたそうだよ。

 そして旧左翼系の民青と新左翼系の革マル派は犬猿の仲でお互いにアジのときに襲撃をしあっていた。

 それもあって70年代の10年間で60人ほどの死者が出たのは間違いないらしい」


「げ、10年で60人って2ヶ月に1人は死人が出たってことですよね」


 俺がそういうと長谷部さんはうなずいた。


「まあその数の殆どは70年代前半のようだがな。

 ついでに言えば突然講義に出なくなって姿が見えなくなった奴は大抵は講義についていけずに家に帰ったとかだが、中にはそのまま完全行方しれずになっているような話も少なくなくてね。

 それらも合わせると倍ほどの死者・行方不明者がいるらしい。

 あと、そういった左翼の内ゲバは関係ないが、東大に受かったものの授業についていけず人間関係もうまく構築できない人間が五月祭の後ぐらいに首をつるなんてのも珍しくはないようだ」


「どんだけヤバかったんですか。

 昔の東大」


「まあ、あさま山荘事件がテレビで放映されたうえに印旛沼事件・山岳ベース事件といった、仲間内のリンチ殺人事件が発覚したことで日本赤軍が世論の支持を完全に失っていったように、70年代後半には大学内での左翼セクトも支持されなくなっていくんだ」


 大学内での左翼セクトも支持されなくなっていくという長谷部さんの言葉に俺はほっと息をついた。


「まあ、それなら良かったですよね」


「そこで台頭してきたのが原理研と名乗っていた統合教会やΩ神理教、法の花三法行、幸せの科学、それに顕性会や草加学会などの新興宗教だな。

 まあ、ここ最近はそれらもほとんど目立つような活動はしてはいないらしいけれども」


「ああ、左翼セクトにカルト団体とかが駒場寮の自治会を根城にしてたなら、大学側も警戒しますよね」


「まあ、そういうことだな。

 とはいえ1950年代には駒場寮の寮祭で野良犬をヤキトリと称して串焼きで売ったとかいう話もあるらしいし、天才とキチガイは紙一重だったんだろうな」


「あ、それちょっと聞いたことがあります。

 確かムツゴロウサンの犬じゃなかったでしたっけ?

 でも、なんかほんと昔の東大はヤバかったんですね」


「まあ、今は育ちがいい私立のお坊ちゃんやお嬢ちゃんが増えたからそういう事はほぼないがね。

 まあ、私もちょっと大きめの開業医の家の娘だからあまり偉そうには言えないが」


 そういえば90年代に入り、大学が駒場寮の廃寮を計画し進めようとしたときは、まだ住人がいる部屋でも窓ガラスを割ったり、ドアに木材を打ちつけて使えないようにしたり、ガスも水道も止め、パワーショベルで建物の一部を壊したりまでしたらしいから大学の方も大概だよな。


 大学側もやってることはヤクザの地上げ屋と変わらんぞ。


 そんな事を話していたら部屋の中のほうが静かになって、ジャージに着替えた篠原さん達三人がドアを開けてひょこっと顔をのぞかせた。


「すみません、大変おまたせしました」


 俺はジャージ姿の篠原さんに笑顔で言う。


「全然大丈夫だよ。

 それに絶対中を覗かないでっていうのは着替えを覗かれたくなかったからだったんだね」


「あ、はい、そうなんですよ。

 あはははは……」


 何かをごまかすように笑う篠原さん。


 真相は下着などを洗濯した後で干しっぱなしとか、あるいは床の上に置きっぱなしだったというところかな?


 ゴミ部屋になっていたとかではないと思うけど。


 まあ、そこらへんは突っ込まないでおこう。


 彼女たちの名誉のためにも。


 そして衣装ケースは既にガムテープでとじられているな。


「あ、着替えるついでに衣装ケースに衣装は全部しまって、テープで開かないようにしたんだ」


「え、あ、はい。

 着替えるついでだったので」


「だとすると荷物を運ぶ運ばないに関わらず、今日はタクシーで寮まで移動したほうがいいかもね。

 まあ、中学生や高校生はジャージや道着で電車に乗ってるのもよく見るけど」


「あ、そう言われるとそうですね。

 動きやすくて汚れてもいい格好の方がいいかと思ったんですが」


「たしかにそれは一理あるね。

 思っていたより小物があるみたいだし、梱包してダンボールに詰めていっちゃおうか」


「はい」


 備え付けの棚においてある小さな置き鏡はプチプチで梱包し、マグカップは新聞紙で包む。


 洗面器の中に入っているシャンプーとリンスはビニール袋に入れて口をギュッと縛ってキャップが外れても液漏れしないようにしておく。


 そういった小物を梱包したら順次ダンボールに詰めて行くが、やはりそこまで量はなかった。


 ダンボールに小物を詰め終わったら、誰のものかわからなくなるのを防ぐためにわかり易い場所にマジックで名前を書いておく。


「やっぱり、バス・トイレ・キッチンなんかが部屋にないと物もだいぶ減るみたいだね」


 俺がそういうと篠原さんはうなずいた。


「あ、それはたしかにそうですね」


「まあ、問題は座卓を運ぶときにできれば古い毛布とかで包んで壁とかにぶつけても壁を傷つけないようにしたいけど、そういう毛布はないってことかな……」


「あ、じゃ、じゃあ私が一回使った毛布で良ければそれに使ってください」


「いいのかな?

 じゃあ、寮に入ったら新しいちゃんとした”毛”の毛布を買うね。

 後、吊るせるものはウォークインクローゼットに吊るせばいいけど、アンダーウエアやインナーウエア、ボトムなんかは吊るせないからチェストも必要かな」


「え、ええと……いいんでしょうか?」


「新しい部屋に住むとしたら必要になるはずだよ。

 後は洗濯機と乾燥機とか炊飯器とかオーブンとかもかな。

 食器やカトラリーも必要になるだろうし、また河童橋にもいかないとかもな」


 俺がそういうと斉藤さんがごきげんな表情で言った。


「あら、それはいいわね。

 みんなで行きましょう」


「ん。

 了解」


 残りは布団を紐で縛ったりして仕上げだ。


「引っ越しの現場はここか?

 全くお前らは相変わらず人使いが荒いな」


 と現れたのは上杉さんだ。


「あー、いつもいつも唐突ですみません」


「まあ、いいさ、それも給料のうちだ。

 では、荷物を積んでしまうぞ」


 と上杉さんは手近な段ボール箱を運び始めた。


「んじゃ俺も……ええと何を運べばいいかな。

 布団でも運ぶかい?」


 俺がそういうと篠原さんははずかしそうにいった。


「私が寝た布団を男の人に運んでもらうのは恥ずかしいですし……それに前田さんより私のほうが力もあると思うので、もっと軽いものでいいですよ」


「うぐ、たしかに俺より篠原さんのほうが力はありそうだよな。

 俺もどっか運動系サークルに入って体動かしたほうがいいか」


 俺がそういうと長谷部さんがここぞとばかりに言ってきた。


「ならあたしと同じテニパはどうだい。

 もう一つの学内テニサーのポテト

 はもろに体育会系で結構厳しいけど、うちは楽しくやるのがモットーで未経験者も歓迎だよ」


 長谷部さんの言葉に俺は少し考える。


「テニスかぁ。

 最低限二人いればできるし、人数が少なくてもプレイができるのは手軽でいいですよね」


 俺がそういうと長谷部さんは少し渋い顔になった。


「まあ、その代わり金は割とかかるけどね。

 人数が少ない分一人あたりの負担が大きめになるのが大人数のスポーツよりテニスが学校などではマイナーになりやすい原因だと思うんだ。

 その代わり人数が少なくても済むから大人でもやってる人間が多いのは強みだけどな。

 だから、うちのサークルに入ったら少し支援してくれないかな?」


 ハハと乾いた笑いで言う長谷部さんに俺は笑顔で答える。


「支援ですか。

 もちろんいいですよ。

 1億円くらいまでなら北条さんも怒らないと思いますし、オールシーズン・オールウエザープレイ可能な室内テニスコートとか、筋トレなんかのジム設備とか食事を取りながら休憩もできるレストハウスを作りたいとかくらいなら」


「いや、それはあたしがお願いしたい金額より2桁くらい多いよ。

 お願いしたいのは、お金がないけどテニスはやってみたいって奴でも気軽にテニスの体験ができるように

、共用のラケットやボール、ウエアやシューズと言った備品を購入したいって感じだよ。

 まあ、合宿や遠征の費用も少し出してくれりゃもっと助かるけどね」


「なるほど、それくらいなら俺のポケットマネーでなんとかできますね」


「うん、理解していたつもりだったが、君の所持金と金銭感覚はあたし達と違いすぎるね」


「あー、そうかも?」


 そんな事を話しながらそれほど多くない荷物をトラックに積み込んで、後はタクシーを呼んで、みんな乗り込み寮へと向かった。

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