第22話 物価や地価が上がり過ぎた日本が輸出に頼るのはもう無理かもな
さて、俺は浅井さん達と焼肉を食べ、その帰り道に最低限必要な消耗品や生活雑貨を買って自分達の部屋に戻ってきた。
そして一息ついた後、今後進む牛肉などの輸入自由化も含めて貿易関係について考えてみることにする。
日本の輸出相手として、一番輸出量が多いのはアメリカだ。
そして50年代の繊維産業からすでに貿易摩擦問題は始まっていた。
明治維新から戦後の50年代から60年代ごろ、日本の軽工業を支えていたのは繊維産業で、紡績会社がたくさんあった。
俺が買収した広島紡績もその一つだな。
しかし、今では紡績会社の愛称である〇〇ボウという会社で衣服を作っている会社はほとんどない。
これは80年代までに繊維産業が大きく衰退してしまったからだな。
50年代ごろは米国側繊維メーカーから日本側繊維メーカーがシャツやブラウスの製造を請け負って、日本で大量に生産しアメリカへ輸出したが、あくまでもその衣類のメーカー名はアメリカのものであった。
これが将来的には衣料品の国内生産比率は、たったの2%まで落ち、海外生産にほぼ頼り切るようになってしまった。
なぜそうなったかといえば 、衣料品の単価を安くするため、人件費が安い海外工場への生産にシフトしたり、大量生産で生地をたくさん買ってコストを下げるなど、多くの企業が安い服作りを求めて「企業努力」という名のもとに国内製造から離れていったからだ。
とはいえ80年代のバブル景気までの時期は日本国内での高級衣服がそれなりに売れていたので、何とか持ちこたえていたのだが、バブル崩壊とともに繊維産業は衰退の一途をたどった。
それはともかく、50年代の日本はアメリカへ大量に衣料品を輸出していた。
後々に化粧品会社になってしまう鐘淵紡績などは小売価格3ドルの半額の1ドル5セントで契約したのだがその輸出量はとても多かった。
昭和29年(1954年)鐘淵紡績のアメリカへの1年間のブラウス、シャツなどの輸出量は約150万着ほどで単価は安くても、これだけの数を売れればかなりの売り上げになった。
このころは1ドル360円の時代でもあったしな。
そして翌年の昭和30年(1955年)にベトナム戦争が始まり米国が繊維製品の関税引き下げを行った。
それにより日本からのアメリカへの輸出量は大きく増え、発注は、小売価格 1ドルの半額の50セントであったが、昭和30年(1955年)の輸出量は600万着まで増えた。
こんな感じで、安価な日本製品が米国へ大量に出荷され、米国の繊維業界は深刻な打撃を受けた。
そのため、日本の輸出は「集中豪雨的輸出」ともいわれ、貿易問題は政治問題化し、日米貿易摩擦とよばれるようになった。
これによって昭和32年(1957年)に日米綿製品協定が結ばれ、日本は5年間、輸出を自主規制した。
しかし、その後も日本の輸出量は大きく減ったわけではなく、綿以外の毛や化学繊維でも日本製品が米国市場で幅を利かせるようになり、昭和43年(1968年)には日本のアメリカ向け輸出は、イタリアとイギリスを併せた輸出額の2倍以上に達し、アメリカが輸入する繊維製品の72%が日本製品で占められたといわれるほどにまでなった。
そのため昭和46年(1971年)のアメリカは「友好国日本だが、本件については対敵通商法を適用する」と通告してきた。
具体的には日本が輸出規制に関する協定を受け入れなければ国内企業は2000億円相当の被害が出るとみられた。
日本繊維産業連盟が自主規制案を発表するがアメリカは受け入れなかった。
そして畑中角栄通産相が日本の繊維業界にたいして2000億円の補償を行い、日米繊維協定に仮調印が行われた。
当時のアメリカ大統領ヒクソンは翌年昭和47年(1972年)の大統領選勝利に向けて、繊維問題の解決を日本に迫っていた。
しかし日本側はヒクソンが繊維産業問題を非常に重視していたことへの認識が甘かった。
同年8月には金とドルの交換停止を発表するヒクソン・ショックもあって、日米関係は極度の緊張状態に陥り、沖縄返還が怪しくなってきた。
こうして「糸(繊維)を売って縄(沖縄)を買った」と言われる結末を迎えたわけだ。
こう見ると日本の繊維産業の衰退はアメリカの輸出規制のせいに思えるがそうではない。
日米貿易摩擦は1960年代には鉄鋼で、1970年代にはカラーテレビや自動車、コンピューターメモリなどのハイテク産業などでも起こっていくが、これらは繊維産業のようにほぼ消滅したわけではないしな。
しかしながら、ヒクソンショックにより、為替は変動相場へ移行し、それまで1ドルが360円だった相場は円がどんどん高くなっていくので輸出産業が厳しくなって行くのは事実だ。
例えば1ドルが180円になれば同じだけの数を輸出しても手元に入る円は半分になってしまう。
さらに日本のインフレが人件費その他を押し上げたのはさらに大きい。
昭和35年(1960年)の大卒初任給がおよそ10000円で、高卒初任給はおよそ7400円、中卒でおよそ6000円。
しかし、牛乳は瓶一本で14円、かけそばが35円、ラーメンは50円、銭湯の入浴料は17円と安かった。
しかし、昭和54年(1979年)の時点ですでに大卒初任給はおよそ100000円で、高卒初任給がおよそ88000円、中卒でおよそ75000円。
物価は牛乳は瓶一本で55円だが、かけそばは260円、ラーメンは290円、銭湯の入浴料が170円とかなり上がっていた。
そして昭和63年 (1988年)には大卒初任給は150000円、高卒初任給は120000円を超えている。
物価は、牛乳は瓶一本で60円、かけそばが380円、ラーメンが450円、銭湯の入浴料が310円とこちらもかなり上がってるな。
こうやって人件費や物価が上がれば、物価が上がっていない外国と競争しても負けるよ。
特に日本の繊維業界がほぼ消滅したのはこれがでかいと思うし、林業や炭鉱がダメになったのもそうだと思う。
実際に1950年代の初めごろの日本は東アジアや東南アジア地域でほとんど唯一の近代的繊維生産国・輸出国だったが、1960年代に入ると、香港・台湾・韓国などが対米綿製品輸出を増大させ、日本製品に置き換わるようになっていく。
さらに、1950年代まで日本の綿製品の主要輸出先であったASEAN諸国において、日本の繊維企業はASEAN諸国政府の投資誘致政策に呼応して、輸出から企業進出・現地生産に切り替えてしまい、その結果ASEAN地域への輸出はこれらの現地生産品に代替された。
そして1970年代になると、東アジアや東南アジア地域の繊維製品は、日本国内市場にも浸透するようになってしまった。
そうなった理由は60年代の所得倍増計画と、70年代の日本列島改造論の二つの日本政府の政策だろう。
これらにより60年代以降日本の人件費や地価はどんどん上がっていった。
日本列島改造ブームにより、開発の候補地に挙げられた地域では投機家によって土地の買い占め、転売が行われ、地価が急激に上昇し、この影響で物価が上昇してインフレーションが進行。
これにより、工場の海外移転がどんどん進んでいくことになる。
昭和48年(1973年)春頃には物価高が社会問題化したところでオイルショックが発生し、物価と経済に決定的な打撃を与えた。
人件費や物価が15倍になるということは日本の通貨である円の価値がそれだけ下がってしまったということなんだが、賃金が上がれば金持ちになれる、贅沢ができると考えたのが間違いだったんだな。
とはいえ今から60年代初めの物価や地価に戻すことはできないし物価や地価が上がり過ぎた日本が輸出に頼るのはもう無理かもな。
無論ゲームハードやソフトのように日本でしか作るのが難しいものは別だが。
これに対して俺たちはどうしていくべきか……とりあえず北条さんと上杉さんを呼んで、俺が考えていることを話してみることにしようか。
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