ある日、有隆は弟の手伝いを初めて拒んだ。理由は適当に、突然上司に飲みに誘われて断れなかった事にした。


 有隆は仕事帰りに、ずっと気になっていたゲイバーに入ってみた。ゲイバーは昔入ろうとした事があったが、一度大学の同期に入りそうなところを目撃され、それ以来近付く事はなかった。


 有隆は、今まで弟として暮らし始める前は、酒が好きで友人や同僚とよくバーに飲みに行っていた。大学時代から入っていた登山サークルに参加をしたり、趣味を楽しんでいた。だが、弟として暮らし始めてからは、全てを辞めていた。そんな余裕はなくなったためだった。


 このゲイバーは、いつも職場と自宅を往復する際に目に入るバーだった。有隆は、ずっと物心ついた時から、自分は同性愛者なのではないかと疑っていた。今まで弟以外を好きになった事はないのだが、以前告白をされ試しに交際をした女性とそのような行為に及んだ際に、気分が悪くなり吐いてしまったからだ。


 生理的に女性が受け付けなかった。その女性には大変申し訳ない事をしたが、その後すぐに別れてしまった。


 バーで女性に声を掛けられても、話したくなかった。触られたら、俺に触れるな、とも思っていた。有隆は、弟として生き始めてからは、気が付いたら誰とも会話が出来なくなっていた。


 弟になってからは人間関係も整理していた。元々友人と呼べる相手は少なかったのだが、弟になってからは話し相手が弟と、職場の同僚だけだった。


 弟と会話をすると精神的におかしくなりそうになるし、職場の同僚には自分の身辺を晒さないようになるべく最低限の会話だけに留めていた。


 ただ、他愛もない会話を損得考えずに誰かと話したかった。同性なら話せるのではないかと思ったのだ。


 友人といえば大学以外だと、唯一高校時代から続いていた友人が一人居た。


 彼とは有隆が弟になった瞬間に縁を切っていた。彼はピアノが得意で東京の音大に進学し、フランスに留学していた。彼には高校時代に一緒に東京の大学へ進もうと誘われていたが、弟が実家のある札幌に残りたいと言うので、弟と暮らすためにその誘いを断っていた。


 彼の名は中原といった。ふわふわとした天然パーマが印象的だった。彼は今元気にしているだろうか、と有隆はバーのカウンターで一人飲みながら考えていた。


 有隆は、ゲイバーに入っても、女装をした男性も見ても、何も心が揺れる事はなかった。有隆はどうやら体格の良い男性に人気があるようだった。何人かに話しかけられた。だが有隆はそれを断り、一人でバーのカウンターで飲んでいた。


 何のためにバーに来たのだろうと有隆は思った。もしかしたら自分はもう人間自体が嫌いで、誰とも会話をしたり出来ず、自分にはもう感情がないのではないかと思ってしまった。


 誰かと交際など夢のまた夢だった。勿論あんな弟がいる状態で恋人など作るつもりも、余裕もないが。


 有隆はバーにいる明るいテンションの人間についていけず、誰とも会話をしたい気分ではなくなってしまったため、ひたすら普段飲まないアルコール度数の高い酒を一人で飲んでいた。酒には強いため、沢山飲んでいた。有隆は、二度とここには来ないだろうなと思った。


 そう思っていた時、バーに新しく三人組の男達が入ってきたようだった。有隆の飲んでいたカウンターに近付いて来たので見えた。


 三人はカウンターの奥に居た店長らしき男に挨拶をしていた。皆明るい茶髪で、明るいカラーの服装をしていた。有隆は、自分とは真逆だなと思った。


 また明るい人種か。有隆はこの日黒いワイシャツに灰色のパンツだった。暗いカラーの洋服は、自分の気持ちを隠すのに丁度良い。


 ふとその時、三人組の一人と目が合った。三人組の中でも一番明るい茶髪で、ふわふわした表情と髪型から、中原を思い出した。有隆は最初女性のような華奢な容姿の同性も苦手だったのだが、中原の影響で苦手意識は薄れていた。


 有隆は中原を思い出し、つい声が出ていた。失敗したと思った。すぐに「すみません、人違いです」と謝ったが。


 だがその天然パーマの男は、気にもせず有隆の隣に座って聞いてきた。「隣に座って飲んでもいいですか?」と。


 有隆はその時、他の人間は断っていたのに、何故か頷いてしまった。その男は自分の顔をじっと見て、物珍し気な表情をしていた。






 有隆は、気が付いたらどこかの部屋の一室に居た。頭が痛い。白いベッドに横になっているようだが、有隆は服を着ていなかった。有隆は混乱し、焦った。


 隣を見ると、明るい茶髪の天然パーマが布団の中から見えた。


 有隆は、ここは何処だと周囲を見渡した。普通の部屋にしては豪華な内装をしている。部屋にはスロットマシーンが置かれている。この横に寝ている人間の部屋なのかと疑問に思った。


 その横に居たのは女性ではなかった。華奢な体をしているが、声で分かったし、起きて布団から出た瞬間に胸板が見えたからだ。


 その男は自分の名前を名乗った。笠木創也というらしい。


 有隆は、動揺しながらも自分は高倉だと苗字だけ名乗った。だが、その笠木という男はこう言った。


「知ってるよ。高倉有理君でしょ。昨日聞いたよ」


 有隆は昨日この笠木という男と酔って見つめあっていた後の記憶が何も無かった。

一瞬、弟の顔が脳裏に過った。酔った拍子に何か言ってはいけない事を言ったのではないかと有隆は不安になった。あんなに酔ったのは高倉有理として生きてから初めてだった。


 有隆は急いで自分の床に落ちていた服を着て、外に出ようとした。早くこの男から離れたかった。


「ねえお兄さん、もう帰っちゃうの?もう少し話そうよ」笠木という男はベッドから話しかけてきた。「それに、ここのホテルの支払い僕も半分払うよ。ちょっと待ってよ」


 有隆は部屋の玄関のドアを開けて外に出ようかと思ったが、鍵がかかっていた。

玄関の横には何やら精算をする機械が置いてあった。


「ここラブホテルだから、精算しないと出れないよ」笠木という男は笑ってこちらに言って来た。「もしかしてお兄さんこういうところ初めて?嘘でしょ」


 有隆はカードしか手持ちがなかったので、現金支払いの精算機が使えなかった。


「ごめん、手持ちがカードしかないんだ」有隆は正直に笠木という男に伝えた。


「じゃあ僕が払うよ、ちょっと待って」笠木という男は急いで服を着てこちらにやってきたが、精算をせず、ただこちらをじっと見てきた。


「お兄さん恋人居ないんだよね。もしよかったら僕と付き合わない?」笠木という男は笑顔で有隆に聞いてきた。


 有隆は意味が分からなかった。付き合うとはどこかに一緒に行くという事だろうか。それともまさか恋愛的な意味での付き合うという事だろうか。


 もし後者だとしたら、何故この身長の低い、多分年下の、いやそれらは関係なく同性の男に告白をされているのだろうかと思った。


 有隆はつい「どこに」と聞いていた。


 笠木という男は一瞬ぽかんとした後、腹を抱えて笑い出した。


「お兄さん初心過ぎない?冗談だよね?今のは告白だよ」笠木という男は笑いながら言った。


「もしよかったら、連絡先教えてくれない?」笠木という男は有隆に聞いてきた。


 有隆は笑われた事に苛々としつつも先程からの頭痛に眩暈がし、頭を押さえながらその男を見ていた。連絡先を交換などするつもりもないので断ろうとしたが、一瞬迷った後「いいよ」と答えた。理由は単純だった。


 もし酔っている間に自分が何かおかしな事を言っていたら、弟に殺しを依頼するか、自分が殺せばいいと有隆は思ったからだった。


 その後、その笠木という男は何度も有隆を飲みに誘ってきた。有隆は弟の目を気にしながらも何度か笠木に会い、自分が酔った拍子に何か言っていないか問いただした。だが、笠木は何も脅してこないし、何も疑わしい事実を聞いていないようだった。


 有隆は最初懐疑心の塊だったが、何度か会ううちに、笠木と話していると弟の事を忘れて自然と会話が出来ている自分に気が付いた。普段使わない表情筋が解れるのは心地良かった。


 だんだん、笠木と過ごす時間は楽しいものに変わっていった。有隆は、自分にはまだ感情があったのだと嬉しくなった。今まで弟を思っていた感情を紛らわすように、笠木と一緒に居たいと思うようになっていた。


 笠木の笑う顔が好きになった。裏表のないくしゃっとした笑顔が好きになった。嘘をつけないすぐ感情が顔に出る裏表のない性格は、中原と似ていた。

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