三
「出ていいよ」高倉は言った。
笠木は戸惑ったが、着信の番号を見てすぐに電話に出た。「はい」
「大丈夫ですか」先程の女性警察官の声がした。「まだ中に居るのですか。高倉は何を話したんですか」女性警察官は聞いてきた。
「今…大事な話をしているところです」笠木は高倉を不安な表情で見ながら言った。
「まだ大丈夫です。中には入らないでください」笠木は咄嗟にそう言ってしまっていた。
「わかりました」女性警察官は言った。「何かあればすぐに連絡してください」そう言うと、女性警察官は通話を切った。
高倉は窓の外に視線をやっていた。「警察か」高倉は聞いてきた。
「そうだよ」笠木は言った。「家の外に居る。僕に何かあれば、連絡が取れなくなったら、家の中に入ってくるって言ってた」笠木は正直に高倉に伝えた。
高倉はふっと笑った。
「もう限界だな」高倉は言った。
「有理君」笠木は高倉に話し掛けた。「もし人を殺しているんだったら、自首しよう。自殺はよくない。僕も一緒に行くから。何があっても僕は有理君の味方だから」笠木は言った。
「僕は」高倉は窓の外をまだ見ながら言った。綺麗な横顔が外の街灯に照らされていた。「ただ幸せになりたかっただけなんだ…家族が欲しかっただけなんだ。でも唯一の家族も殺してしまった」高倉は笠木の方を見た。
「お前もこっちに来るか?」高倉は赤い絨毯の上を指差しながら無表情で言った。
笠木は動揺した。先程絨毯の上に上がり高倉の元へ行こうとしたが、今は本能的に、絨毯の上には乗ってはいけない気がした。また、唯一の家族の意味も分からなかった。
「僕は…ごめん。それは無理だよ」笠木は言った。「家族が悲しむ」
笠木は、果たして今の自分の母親が自分が死んだ後も悲しんでくれるのだろうかと一瞬疑問に思いながらも言った。
母親は、新しい父親と新しい子供と、既に新しい家庭を作っている。笠木はむしろ自分が邪魔なのではないかと思った。
また、赤い絨毯の上にはきっと灯油が撒かれているのだろうとも察していた。
「やっぱりそうだよな」高倉は安堵したような声を出した。
「僕にはもう悲しんでくれる家族は居ない」高倉は悲しそうな表情で言った。「唯一の家族も殺してしまった」
「僕が居るよ」笠木は訳が分からずも言った。「いいから、こっちに戻って来て。そこから離れて」笠木は言った。
「僕は家族に否定されたんだ」高倉はまた情緒不安定になりながら声を震わせて言った。「お前にはきっと何も分からない」
高倉は、着ていたジャンパーの中のポケットのジッパーを開けて、中から銀色に輝くジッポライターを取り出し、持っていたペットボトルの蓋を開け上に掲げたかと思うと、中の液体を、思い切り自分の頭から被った。灯油の臭いが漂った。
「やめて」笠木は慌てて言った。「それは駄目」
笠木は恐怖から、足元が動かなくなっていた。
警察に連絡をするべきか。だがこの状況で連絡をしたら、状況が悪化する事も目に見えていた。
笠木は危険を察知し、今すぐ逃げるべきか、まだ情の残っている高倉の元へ行きジッポライターを取り上げるべきか悩んだ。が、足が動かなかった。
一瞬高倉の顔が窓の外の街灯により、悲しそうな、泣いているような顔に見えた。
「もうさよならだ。最後に聞いてくれてありがとう」高倉は言った。「あと兄さんは何も悪くないんだ。全部僕が悪い。兄さんを奪ってごめんな」
高倉はそう言うと、手に持っていたジッポライターで火を付け、床に落とした。
高倉が火のついたジッポライターから手を離して床に落とした瞬間、笠木には何故か時間がゆっくりして見えた。今まで急展開だった映画のコマが、急にゆっくり動き出したかのようだ。
銀色に光るジッポライターは外の街灯と高倉の持ったライトの光に反射しながら、ゆっくりと地面に落下した。ジッポライターの火が不透明に揺れた。
床に敷かれた赤い絨毯にジッポライターの先の火が近付きそうになった瞬間、絨毯は瞬く間に青い炎と赤い炎に包まれた。叫び声が上がった。誰の叫び声かは分かった。
混沌とした頭の状態で、笠木は咄嗟に高倉の名前を叫んでいた。
「有理君!やだ!だめだ!」叫ぶ事しか出来ない自分を笠木は許せなかった。さっき高倉の元へ行けば良かったと瞬時に後悔をした。
笠木は急いで自分の着ていたジャケットを脱いだ。そしてそれで火を消そうと煽いだが、勢いの強い炎がそんな事で消えるはずがなかった。ジャケットに火が付き燃え始めたので、笠木はジャケットを床に手放した。
「水…水…」笠木は一階にきっと台所があると思い水を汲みに行こうかと思ったが、震えた足がもつれ、部屋の扉付近で転倒した。笠木は床に張り付いたまま、恐る恐る振り返って高倉の方を見た。
今は既に高倉の周りは激しい炎で包まれており、体を近付ける事が出来なかった。
高倉が炎の中で悶えているのが、炎の隙間から見て取れた。
その炎が、笠木の元に迫ってきた。笠木は急いで足を引っ込めた。笠木は震えていた。
絨毯が燃え、カーテンに引火している。木製で出来た家の壁を、炎が侵食した。
後ろに後ずさりながらも、「どうしよう…どうしよう」と独り言を言っている自分に笠木は気付いた。
悶えている高倉から目を背けたかったが、目を離せなかった。高倉は床に崩れ落ち、横たわって暴れていた。
笠木が後ろに下がろうと床を見た瞬間、自分の右手の薬指にはめられている、高倉から貰った指輪が目に入った。指輪は炎の灯りによって、赤く光って見えた。
笠木は、こんな状況で何故自分は指輪を見つめているのだろうと思った。
炎がさらに自分に迫ってくる事を笠木は感じた。炎の熱気と煙で、頭がくらくらとしてきた。炎が自分も包み込もうとしている。腰が抜けて体が動かなかった。
自分は何をやっても駄目だ。もうおしまいだ、と笠木が思った瞬間、自分の着ていたパーカーのフードをぐいと後ろに引っ張られた。笠木は後ろに退けられた。
「逃げて!」と叫ぶ声が聞こえた。
先程の女性警察官の声だ。呼んでもいないのに何故来たのだろうと笠木はこの状況でぼんやり考えたが、柔らかくなって動かない足を無理やり立たせられて、後ろに引っ張られた。
ふと自分の名前を叫ぶ声が聞こえた。
「何てことだよ」と叫びながら自分を引っ張る声に懐かしさを感じ、急いで後ろを振り返ると、高倉が必死の形相で笠木の足を立たせながら、笠木を後ろの廊下に引っ張っていた。
「有理君?」笠木は訳が分からず高倉に叫んでいた。
「何で」と笠木が問おうとした瞬間に、「いいから早く逃げろ!」と言う男の声を聞いた。
男の警察官も高倉と一緒になって笠木を起こして後ろに引っ張っていた。
笠木と高倉と警察官二人は、四人で階段を転げ落ちるように落下した。笠木は男の警察官の上に落下していた。階段の段差に腕を思いきりぶつけており、笠木は痛みに耐えながらも、他の三人に連れられて必死で玄関の外に出た。
二階で引火した炎は既に一階まで到達し、庭の生い茂った雑草までも燃やし始めていたようだった。四人は服に引火した炎を手で消しながら、庭の開いたままの黒い柵で出来た門の外に出た。
笠木はその時初めて自分が顔や、全身に火傷を負っている事に気付いた。全身が熱く、ヒリヒリと痛い。高倉は笠木の服の炎を消したと思ったら、急に笠木を抱き締めてきた。
消防車の音が遠くから鳴り響き、笠木と高倉、稲葉と佐々木は、闇夜の中燃え盛る家を庭の外からただ見ていた。
雪が降ってきた。
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