笠木は、廊下の向こうからマンションのエレベーターを降りて、こちらに歩いてくるスーツにコートを羽織った二人組の警察官を見た。


 手前に立って進んでくるのは小柄な若い女性警察官で、後ろからは体格の良い男の警察官が後を付いてやって来る。この二人は、一度笠木の自宅に事情聴取に来ていたので覚えた。


 笠木が伊藤と立ち飲み屋に行ったあの日、女性と歩いていた高倉がどんな様子だったかを聞かれたのだ。普段の高倉の事に関しても細かく質問をされた。


「こんばんは。警察です」手前に居た、意志の強そうな目をして黒髪をポニーテールにしている女性警察官は、身分証を目の前にかざしながら笠木の横に来た。


 笠木は一歩後ろに下がり、玄関の前を開けた。


 女性警察官は笠木に一礼をすると、玄関の前に立ち高倉に手に持った身分証を見せた。後ろに居た男は何も言わずに少し後ろに下がった所に立っていた。


「こんばんは。高倉さん、先客がいらっしゃるところ申し訳ありません。今少しお時間いただいてもよろしいでしょうか?」その女性警察官は高倉に明るい声を出して言った。


「今は先客が居るのですが」高倉が言った。


「お時間はそんなに取らせません。今日中に少し確認したい事がありまして」女性警察官は譲らなかった。「今少しだけお部屋の中を確認させてもらってもよろしいでしょうか?」


 高倉は困惑した顔で笠木を見た。しばし迷った顔をした後、「創也、ごめん、今日は帰って」と笠木の顔を見ずに言ってきた。


 女性警察官は「申し訳ありません」と笠木に頭を下げた後、高倉に招かれて高倉の家の中に入っていった。後ろに居た男も後に従った。


 笠木は廊下に一人取り残されて、この季節に何故か窓の開いている外気の入ってくる寒いマンションの廊下に佇んでいた。






「それでは、本日も捜査にご協力いただきまして、ありがとうございました。また伺わせていただきます」女性警察官は高倉に一礼すると、玄関に向かった。男の警察官は一礼もせずに高倉の前を通り過ぎ玄関に向かった。


 女性警察官が玄関のドアを開けてマンションの廊下に出ようとした瞬間、「おっと」と声を出した。


「お待たせしてしまっていたみたいですね。大変申し訳ないです」女性警察官は廊下に居る誰かに謝った。男の警察官も廊下に出ると、廊下の横に居た誰かに一礼をし、去って行った。


 高倉は誰が居るのか気になり廊下を確認しようとすると、笠木が寒そうな顔で横から出てきた。


「創也、何でまだ居るの」高倉は驚いて聞いた。


「有理君、何聞かれたの」笠木は寒そうに高倉に聞いてきた。


「大した事じゃない」高倉は気まずさを感じながら答えた。


「本当に今日は帰ってくれないかな。駅まで送って行くから」高倉はそう言ったが、着ている服は上下スエットの部屋着だった。


「中に入らせて」笠木は高倉を無視し、玄関のドアに手を掛けた高倉の腕を解き、玄関の中に入ってきて、玄関のドアを閉めた。


「有理君、僕達もう別れよう」笠木は寒さで顔が赤くなっていたが、無表情で高倉の胸元を見て言った。


 高倉は困惑した。玄関の前の廊下に立ったまま迷子になった自分の両腕を下に降ろし、何と答えたら良いのか分からなかった。


「有理君、また浮気したよね」笠木は右手に持っていたスマートフォンを取り出し、何かを操作した後、高倉にスマートフォンの画面を見せて来た。


 表示されている写真には、高倉が親しげに知らない女性の肩を抱いて、何処かの繁華街を歩いている姿が写っていた。


「これはもう有理君だった。もう信じられないから別れて欲しい」笠木は無表情のまま言った。


「つけてたの?」高倉は思わず聞いた。言った後にしまったと思ったが、遅かった。


「やっぱり有理君なんだね」笠木は泣きそうな声で笑いながら言ってきた。


「待って」高倉は咄嗟に言った。「説明させて」


「何を?」笠木は悲しそうな表情をして高倉を見てきた。


 ここで全てを説明出来たらどんなに楽だろうと、高倉は思った。だが何も言う事が出来ず、ただ笠木の顔を見たまま沈黙した。


「さっきの警察の事も、何も教えてくれないんだね」笠木は俯いて言った。「もうさようなら。僕の荷物は捨てておいていいから」笠木は高倉の顔を見ないまま、踵を返し玄関のドアを開け、外に出て行った。


 玄関のドアがゆっくり閉められて、外の外気が一瞬中に入ってくる事を高倉は感じた。高倉は笠木の後を追いたかった。玄関のドアノブに手を掛けようとしたが、よく考えて止めた。


 玄関を見つめながら、目の前が潤んでぼやけ、自分の目から涙が落ちてくる事を高倉は感じた。


 自分の着ていたスエットの袖で目を拭くと、高倉は居間に戻り、ソファーの上に置いてあったクッションにまた八つ当たりをした。壁に投げつけ、壁に掛かっていたコートが揺れて床に落ちた。


 高倉はソファーを蹴ったが、硬いソファーにより自分の足が痛くなった。何か当たれる物はないかと周囲を見渡す。特に何も置いていない部屋に八つ当たり出来るものはあまりなかった。


 高倉はまた自分が過呼吸気味になっている事に気付いた。居間のガラステーブルの横にしゃがみ込み、テーブルに右手を掛けて自分を支え、呼吸を整えようとした。


 胸が苦しかった。過呼吸と共に心臓が酷く痛く感じた。ストレスだろうか。


 高倉は深く息を吸い込み、一旦呼吸を止め、ゆっくり吐き出す動作を何度か繰り返した。高倉は肋間神経痛から来る心臓の辺りの痛みと、過呼吸と頭痛に苦しんだ。


 這うようにしてガラステーブルの上に置いてある安定剤に手を伸ばした。中の薬を取り出すために袋が床に落ちた。薬をブリスターパックから急いで取り出し、口の中に入れた。そのまま水ではなく自分の唾液で薬を飲んだ。唾液の量は少なかったので、薬が喉につかえた気がした。


 高倉は心臓を抑えながら気力を振り絞り立ち上がり、キッチンに向かった。コップを取り出し、震える手で蛇口を捻り、持ったコップに水を入れ、水道水を一気に飲んだ。高倉はそのままコップをシンクに勢いよく置くと、そのままキッチンのシンクの横にまたしゃがみ込んだ。


 いつもの深呼吸を繰り返す。薬はそんなに早く効かないはずだが、プラシーボ効果の影響か、高倉は飲んですぐに心が落ち着いた気がした。いつもそうだ。しばらく深呼吸を繰り返すと、過呼吸は収まった。


 高倉はシンクに手を伸ばし自分を支えるようにゆっくり立ち上がると、寝室のクローゼットへ向かった。


 クローゼットの中を開けると、中のステンレスパイプに普段高倉の着ている暗い色の洋服が何着か掛かっていた。その右端に、普段あまり使用しないスカーフとマフラーが掛かっていた。このスカーフは今年の二月に笠木から誕生日プレゼントで貰ったものだ。


 高倉はまだ一度しかこの長い紺色のスカーフを使用した事がないのだが、そのスカーフを手に持ち、居間の扉のドアノブまで持っていった。長いスカーフの端を結び、大きな輪を作った。


 それをドアノブの向こう側に引っ掛け扉を閉じ、内側からスカーフの輪を引っ張り、扉で挟んだスカーフの輪が解けない事を確認した。


 高倉はドアノブの前にしゃがみ込み、そのスカーフの輪に自分の首を入れようとしドアノブに背中をつけ居間の方を向いたが、ふと居間のガラステーブルの上に置いてあったスマートフォンが目に入った。


 高倉は一瞬スカーフを触ったまま止まった後、ふと我に返り、スカーフから手を放してスマートフォンの元へ行った。スマートフォンを手に持つと、高倉はスマートフォンで時間を確認した後、電話をかけ始めた。

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