第十三章 別れ

「あの子は成績優秀でいつも真面目でした。だけど私達にはどこか心を開いていないようで、常に距離感を感じていました。あまり話すこともなかったですし。それはあのような事件があったからだとは思いますが。以前、私達の息子と娘と一緒に公園にピクニックに行った事があるんです。そこであの子は、地面に咲いた花に止まっていた蝶々を、何の躊躇いもなく靴で踏んでいたんです。冷たい目をして。


 それを見て私はびっくりしました…だって普通の子供は蝶々を踏んだりしないでしょう?私はそれを見て以降、あの子とは少し距離を置こうと思ったんです。


 あの子が高校を卒業してからは、ずっと会っていません。大学は、北大の理工学部に進んでいました。学費は、両親の遺産から出していたので、私達は何も知りません」この五十代後半くらいの岡田弘美という女性は、不安そうな表情をして稲葉に語ってくれた。


 ストールを羽織り気品の良さを感じる私服姿で、玄関で話してくれた。


「分かりました。捜査にご協力いただき、ありがとうございます」稲葉は手帳にメモをしながら言った。


 稲葉は西区にある一軒家から出て、家の前に停めたパトカーの中に戻った。


「お疲れ様。事情聴取どうだった」運転席に座った佐々木が聞いてきた。佐々木は温和な性格とは逆に体格が良く、運転席のスペースが窮屈そうだった。


「高倉は少し…変わった少年だったようです。引き取った親戚の方は、高倉の高校卒業後から、ずっと会っていないと言っていました」稲葉は佐々木に言った。


 佐々木はペットボトルに入った珈琲を一口飲むと、ドリンクホルダーに珈琲を置き、パトカーを発進させた。


「それにしても井戸から見つかった遺体の数は凄いものでしたね。いつDNA鑑定が全て終わるのか」稲葉は言った。


「急にだもんなぁ。匿名の通報って、まだ誰からの通報か分かっていないんだよな」佐々木は言った。


 北海道警察に匿名で連絡が入ったのは二週間前の出来事だった。電話を受け取った事務員の女性は、公衆電話からかけられた男の声で、こう聞いたらしい。


「熊を追って山の中に入ったら、異臭のする井戸を見つけました。中を確認したら、奥に死体のようなものが見えたんです。場所を今からお伝えするので、確認してもらえませんか」このような内容だった。


「熊ハンターなら狩猟者登録リストで確認出来ればいいんだが。その地域を普段担当している者の情報がまだ出てこないからな」


「私有地ですし」稲葉は言った。「この私有地の持ち主の高倉が許可しないと、普段は中には誰も入れませんから」


「高倉の事情聴取は殆ど意味が無かったな」佐々木は言った。「黙秘するだけで」


「以前行方不明の女性と会っていた件で事情聴取を北警察署で受けていましたけどね。どう見ても行方不明の女性と最後に会っていたのは高倉なのに、車のナンバーがはっきりしないからと警察は動かなかったんですよ」稲葉は不満そうに言った。「いくらアリバイがあるからと言っても」


「その行方不明の女性、プリクラが井戸から出てきたってな」佐々木は言った。「息子さん大丈夫だろうか」


「今はまだ自宅に引きこもっているそうですよ」稲葉は言った。「ずっと引きこもっているみたいで。母親とずっと話していなかったから、帰って来ない事にもなかなか気付かなかったみたいで」


「プリクラは若い頃の写真だったみたいだな。子供の小さい頃の写真は可愛いもんな」佐々木は言った。


「でも小さい頃の自分ばかり見て、大人になった自分を見てくれないのって、嫌じゃないですか?」稲葉は言った。


「大人にも色々あるんだよ」佐々木は言った。「そういえばさっき本部から連絡が来たが、やっぱり最近増えていた行方不明者は殆どが女性で、それも全員既婚者か付き合っている男が居たらしい。井戸から見つかった遺体も全員女性だが、全員左右どちらかの薬指に指輪をはめていたらしい」


「性犯罪でしょうか?」稲葉は言った。


「それもまだ確認中だとよ」佐々木は言った。


「本部に戻ったら再度高倉の身辺を洗いましょう」稲葉は言った。「やはり高倉の身辺が怪しいとしか思えません。あの男、事情聴取の間、常に無表情でした。普通は自分の親族の所有する土地から遺体があんなに発見されたら、焦りません?私は高倉が何か隠していると、まだ思っています」


「本部が高倉に捜査令状を出した。俺達にしばらく監視するようにって」佐々木は言った。「今日はこれから張り込みだ」


「私達がですか」稲葉は言った。


「ああ、これから再度聞き取りに行く」佐々木は言った。「少し圧をかけた方がいいかもな」






 高倉は自宅でソファーに横になっていた。体調が悪く、安定剤をテーブルの上に置き、仕事はしばらく有休を使用していた。


 高倉は今年中に作成しなければならない設計書を、後輩に預けた事だけが気がかりだった。普段から念のため引継ぎのマニュアルを作成しておいて良かったとは思ったが、果たしてあの後輩はマニュアルを理解して取り組んでくれているだろうかと思った。


 数回後輩からチャットで業務内容の確認の連絡が入っていたので、今日はその返信をしただけだった。朝食も取っていない。今はスマートフォンを確認する気力は湧かない。もう夕飯の時間になるが、何も食べる気が起きなかった。


 最近はずっと寝不足が続いていた。笠木に「有理君」と夢の中で呼ばれる度に、目が覚めて眠れないのだ。


 高倉は水を飲もうと立ち上がった。その時、玄関のチャイムが鳴った。高倉は居間のモニターに近付いた。また警察だろうかと思ったが、モニターに映っているのはふわふわの茶髪の、笠木の姿だった。


 高倉は急いで玄関に向かい、モニターは無視してドアを開けた。笠木は寒そうな顔をして、着ていたジャケットのポケットに両手を入れた状態で玄関のドアの前に立っていた。


「創也」高倉は驚いて咄嗟に笠木の名前を呼んでいた。


「有理君、急に来てごめんね。ちょっと大事な話があるんだ」笠木は言った。


「創也、本当にごめん。会いに来てくれてありがとう」高倉は言った。「寒いから中に入って」


「いや」笠木は動かなかった。「ここで話すよ」


 高倉は困惑した。笠木がこんなに真面目な顔をして寒さの中外で立って話すのは、二年前に札幌ファクトリーの外で笠木が高倉に告白をして来た時以来だった。


「話すなら、ここじゃなくて中に入ろう。寒いでしょ」高倉は言った。


「本当にここで話すだけだから」笠木は譲らなかった。「僕実は…」


 笠木が話し出そうとした瞬間、笠木は廊下の向こう側を見て黙った。

 高倉も笠木が何を見て黙ったのか気になったが、すぐに「こんばんは」という声を聞き、誰が廊下の向こうからやって来たのか分かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る