高倉は疲れ切った顔で取調室から出た。長い廊下を歩き待合室に入ったところ、笠木がまだ椅子に座っていたのが見て取れた。


「どうしてまだここに居るの」高倉は笠木に聞いた。


 笠木は急に声を掛けられて驚いたようで、慌ててこちらを見てきた。


「ゆ…有理君を待ってた」それだけ呟いた。


 高倉はため息を吐くと、笠木を後にして警察署から出ようと玄関へ向かった。


「ちょっと待って、僕も一緒に帰る」笠木は高倉の後を追ってきた。


 高倉は笠木が追ってくる事が鬱陶しかったが、笠木に何か言おうとしていたのに、何を言うべきだったかを忘れてしまった。高倉は警察署から出た後警察署の前で立ち止まり、近所なので徒歩で自宅へ帰ろうと思い、スマートフォンを取り出し、マップを確認した。


「有理君、本当に何も知らない?」笠木は沈黙を破って聞いてきた。


「何を?」高倉は笠木の顔を見ないように、マップを見ながら聞き返した。


「僕あの日、有理君を見た日、有理君は職場に居たって言われたけど、本当はまだ信じられないんだ」笠木は言った。


「付き合ってるのに信じられないとか言ってごめんね。でも、あの時あの場所に居たの、有理君だと思ったんだ。写真じゃ伝わらないけど、見てて思った。見た目も、車も、全部、有理君だった」笠木は泣きそうな声で言った。


 高倉は笠木を見た。“付き合っている”この言葉の意味をどんな風に捉えたら良いのか、もはや分からなくなっていた。


「それに、車のナンバーだけど」笠木は高倉に近づいて小声で言った。「写真と防犯カメラには写ってなかったけど、僕、有理君のナンバーだって、見ちゃった。警察にはこの事言ってない」


 笠木は動揺していた。うわずったような声を出した。


「だったら何」高倉は言った。「何で警察に言わなかったの」


「有理君を、まだ信じたかったから」笠木は泣きそうな声で言った。「何かあるなら聞くから、教えてくれない?付き合ってるのに秘密とか、よくないと思うよ」笠木は高倉のスーツの腕の布を掴みながら言った。


 高倉は何か言おうとしたが、黙った。一瞬黙った事でまた、何を言おうとしたのか忘れてしまった。


 高倉は笠木の首に手を伸ばそうとし、途中で止めた。腕を降ろして地面を見つめた。


「何も言わないんだね」笠木は沈黙を破るようにして言った。「少しさ、僕達、距離を置かない?」笠木は高倉のスーツの腕の布を離して言ってきた。


 高倉は驚いた。

 ようやく思考が追い付いてきた。だが、何も答えられなかった。答えられるはずがない。


「待ってよ」高倉はようやく声を出した。


「無理だよ」笠木は言った。「今何も信じられない」


 笠木は歩き出して、警察署の角を曲がって行った。


 高倉は絶句して、その場にしばらく佇んで笠木を見つめていたが、ようやく歩き出して笠木の後を追った。笠木はどこにも居なかった。


 高倉はスマートフォンを取り出し、笠木に電話を掛けたが、繋がらない。チャットで連絡をしても、繋がらなかった。後から、この状況で繋がるはずがないだろうと自分で気が付いた。


 急いで近くの地下鉄の入り口に入り、構内を探したが、笠木の姿はどこにも見つけられなかった。






「殺人衝動が止められないならもう終わりにしよう」高倉は言った。


「無理だ。何度も抑えようと思ったけど、無理だった。もう死ぬしかないんだ」高倉は言った。


「そうだ。お前は何だ?お前が存在している事自体が迷惑なんだ。鏡を見てみろ。お前は誰だ?誰にもなれない殺人鬼だ」高倉は言った。


「やめてくれ、もう何も考えたくない」高倉は言った。


「お前はもう何人も殺している。死刑になるだろうな。死刑になったらどんな痛みや恐怖があるんだろうな。想像した事はあるか?」高倉は言った。


「やめてくれ、好きで殺人をしてるわけじゃない」高倉は言った。


「せめて最後に創也に全てを打ち明けて終わらせたい。もう俺は疲れた」高倉は言った。


 高倉は自宅で黒いソファーの上に乗せてあったクッションを壁に投げつけた。怒りに狂い我を失いそうになっていた。スマートフォンも投げつけたい衝動に駆られたが、思い留まった。


 高倉はただ笠木と一緒に居たいだけだった。創也だけこの世に存在してくれればいいのに、と高倉は思った。


 高倉は、自分の寝室のデスクの引き出しに入っている、笠木との動物園で撮ったツーショットの写真を見た。これはスマートフォンから連携させて、コンビニの印刷機で印刷した写真だ。他に笠木とのツーショットの写真はなかった。


 今まで同性愛者を隠して生きてきた為、外でツーショットの写真を撮るという発想に至った事がなかったためだ。今まで一緒の写真を沢山撮らなかった事を高倉は後悔した。


 写真の笠木は戸惑ったような表情をしていた。高倉は無表情だった。何故もっと笑って撮れなかったのだろう。高倉は後悔した。


 写真の奥に入っている、青い箱を見た。これは笠木とのペアリングの、高倉の分だった。購入してから一度もはめていない。本当はペアリングをはめたかったが、はめられない自分が居た。高倉は自分を呪った。


 ふいに頭痛がし、高倉はデスクの横にしゃがみ込んだ。急に昔のトラウマがフラッシュバックした。


 これはよくある事だ。


 笠木の前では隠れて安定剤を飲んで抑えていたが、一度深夜にうなされていたのを見られた事がある。


 頭痛が酷くなり、呼吸が苦しくなった。


 安定剤を取るためにデスクの一番下の鍵の付いた引き出しを開けようと思い鍵を探したが、どこに置いてあるか忘れてしまった。


 最近は物忘れが激しい。ストレスのせいなのか。


 呼吸が本格的に苦しくなった。自分の右腕が熱くなった。


「お母さん、やめて」高倉はふいに呟いていた自分に気付き、吐き気がした。


 この場面は実家の部屋の中だ、そうだ自分の部屋だ。


 母親が怒り狂い、高倉は殴られ、蹴られた。母親は吸っていた煙草を高倉の腕に近付けた。


「お母さん、やめて!」高倉は叫んでいた。


 熱い。腕が熱い。吐き気がした。思わず吐いてしまった。


 高倉は母親に腹を蹴られたのを感じた。倒れて目の前が真っ暗になったが、気が付いたら泣いている母親が横で自分の腕に包帯を巻き、保冷剤を当てて冷やしていた。


「お母さん、ごめんなさい」高倉は母親に謝っていた。


「僕が言う事を聞かないから、ごめんなさい」高倉は必死に謝った。許してもらえるまで謝った。謝らなければまた殴られ、煙草を押し付けられると思ったからだ。


 母親は美しかった。けれど成績が悪い時や、高倉が言ってはいけない事を言った時、ただ何もしていない時に、母親は突如怒ってきた。


 父親が帰って来た。父親は高倉の怪我を見て見ぬふりをした。


 ある日父親が長い出張に行っている間に、母親は誰かを家に招き、嫌な声を出していた。それが複数回続き、高倉はその度に布団の中に籠って手で耳を塞いでいた。


 その相手の男は高倉の部屋の窓から見えた。高倉の部屋の窓は玄関の上にあるので、いつも男が来る度に家の前に車を停めているのが目に入る。


 男の顔は思い出せない。


 高倉は男がやって来る日は部屋に外から鍵を掛けられた。トイレに行けなかったので、おむつを渡されていた。だが男が帰った後の母親は凄く優しかったので、高倉は男が帰った後はほっとした。


 それが続いたある日、帰宅した父親と母親が口論をしていた。口論は普段からよくしているのだが、この日は特に酷かった。


 高倉は自分の部屋に篭り、手で耳を塞いでいた。


 しばらくすると、その音は静かになった。


 高倉は勇気を出して部屋から出て、一階の父親と母親の居る元へと向かった。恐る恐るリビングのドアを開けると、母親が床に倒れている姿が目に入った。


「お母さん?」高倉は母親を心配して母親の元へ向かった。母親は目を見開いたまま、動かなかった。


 その向こうの部屋に、何かが揺れている気がした。高倉はその揺れている何かを見た。天井から何かがぶら下がって揺れていて、下に椅子が倒れている。


 高倉は自宅の浴室に入り、浴槽の中に座っている女性の見開いたうっ血した目を見た。顔はうっ血状態で赤黒かった。口からは涎を垂らしており、動かなかった。女性の顔面を上から覗く形になってしまった。


 高倉は他にも暗い山の中で女性の死体を見た。暗かったが、LEDライトのせいで上から覗く形になってしまった。この女性も浴槽に居た女性と同じ表情をしていた。


 高倉は自分の手のひらを確認した。血は付いていない。


 過呼吸が酷く、大きく息を吸い込んで吸った息をゆっくり吐き出す動作をした。

また吸っては、数秒間息を止めてゆっくり吐き出す動作をした。


 高倉は自分の部屋を見渡した。デスクの横に、ベッドがある。ベッドには淡い緑の葉の模様が施されている白い布団が掛かっており、そこには誰も寝ていなかった。


 父親と母親は居ない。


 高倉は周囲を見渡し、居間に置いてある黒い二人掛けソファーを見た。その向こう側に木製のダイニングテーブルが置いてあり、その向こうにキッチンがある。そのキッチンには今誰も立っていなかった。


 高倉は今居る自分の環境を思い出すように頭の中を整理した。


 ここは実家ではない。自分はもう子供ではない。もう一人暮らしをしている大人だ。ここは自分の家だ。


 ゆっくり現在の状況を把握する事で、過呼吸は落ち着いていった。


 デスクの鍵は自分のデスクの一番上の、鍵のかかっていない引き出しの中の、奥にしまった箱の中に入れていた事を思い出した。高倉はその箱の中から小さな鍵を取り出し、鍵のかかったデスクの引き出しを開け、中に入っている袋から、精神科から処方された安定剤を取り出した。


 その薬を持ち、キッチンに置いてあるコップに水を入れ、飲んだ。安定剤に依存してから、もうどのくらい経つだろうか。


 高倉はキッチンのコップが置いてあるだけのシンクに目を落とした。


「全て有理が悪い」高倉は一人呟いた。「もう終わりにしないと」


 高倉はダイニングテーブルの上に置いたスマートフォンを見た。

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