笠木は高倉を見送り、内側から玄関の鍵を閉めた。しばらく閉まった玄関の扉を内側から見ていて、突如湧き上がってきた寂しさを感じた。


 その後キッチンに向かい、食器を洗い、洗面所に置かせて貰っている歯ブラシで歯磨きをし、高倉の家を出る支度をした。服装は昨日と同じ服だ。


 指輪の箱と、昨日高倉に買ってもらったキーホルダーの入った円山動物園の袋を大事に持った。クッキーは、メモに「有理君が食べてね」と記入し、居間のテーブルに置いた。


 高倉が居ない部屋は寂しく感じる。昨日の出張の話はどうなったのだろう。次はいつ会えるのだろうか。そんな不安を感じながらも、右手の薬指にはめている指輪を見て、顔が綻ぶ事を感じた。


 高倉は今朝見た感じ指輪をはめていなかった。ペアリングではないようだが、笠木はとても嬉しかった。今年の記念日には高倉がサプライズしてくれたようなサプライズを自分もしたいな、と笠木は思った。


 笠木は高倉の自宅を出て、合鍵で鍵を閉めた。マンションの廊下へ出て、廊下の窓越しに外を見る。今日は風が強くて寒そうだと笠木は思った。曇り空で気分がどんよりとなる。


 笠木は低気圧に弱かった。低気圧の気圧差からくる頭痛を和らげるために、頭痛薬を飲む事を忘れていた。勿論この気分の落ち込みは、昨日の高倉の言動も原因の一つなのだが。


 ふと、高倉の今日の服装を思い出した。休日明けの金曜日に何故暗い色のコーディネイトをしているのだろうと思う。高倉は普段から暗い色の服装を好んで着ている。テンションの上がらないはずの月曜日も暗い色のネクタイをよく締めていた。


 そうだ、記念日のプレゼントに明るい色のネクタイはどうだろう。笠木は思った。


 笠木は高倉のマンションを出て、地下鉄の北二十四条駅の一番出口に向かおうとした。すると、建物の角を曲がり、高倉が戻って来たのを見た。


「有理君。どうしたの?忘れ物でもした?」笠木は心配して聞いた。


「ちょっと、スマートフォン出してくれる?」高倉は言った。


「僕の?」笠木は聞いた。


「そう」高倉は言った。


「いいけど…」笠木はスマートフォンを取り出した。「これがどうしたの?」


「スマホつけて」高倉は笠木の持っているスマートフォンを指差して言った。


 笠木は謎に思いながらも、自分のスマートフォンを見て、自分の誕生日4桁のパスワードを入力し、ホーム画面を表示させた。友人からチャットが何件か届いていたのを一瞬履歴で見た。


「つけたけど、どうしたの?」笠木が高倉に聞いた瞬間、高倉は笠木の持っていたスマートフォンを奪った。


 笠木は一瞬の出来事で、何が起きたのか理解に苦しんだ。


 ふと我に返り、高倉が奪った自分のスマートフォンを取り返そうとした。


「ちょっと、別に見ても良いとは言ってるけど、勝手に取るのは違うんじゃない?」高倉の持つスマートフォンに手を伸ばしたが、高倉は笠木の手が届かないように手を上に伸ばして、何やら勝手にスマートフォンを操作し始めた。


「ちょっと!何してるの」笠木は喚きながらスマートフォンを取り返そうとしたが、高倉は逃げながら笠木のスマートフォンを操作し、しばらくすると何やら操作が完了したのか、「はい」と唐突にスマートフォンを笠木に返してきた。


「何したの、勝手に」笠木は高倉を睨み、自分のスマートフォンに何をしたのか、何を見たのかと、自分の手に持ったスマートフォンを確認しようとした。


「スマホさっき落として壊したんだ」高倉は言った。「今登録し直したのは職場用のスマホの番号だけど、今度からしばらくそっちに連絡してくれない?チャットはもう、しばらく使えないから」高倉は言った。


「え?壊れたの?大丈夫?」笠木は驚いて聞いた。


「あと、ちょっと話がしたいからどこかでお茶でもしない?今日はもう気分が乗らないからサボる」高倉は言った。


 笠木は、高倉が仕事をサボると言う台詞を初めて吐いた事に驚いた。高倉は滅多に仕事を休まない。急に仕事を休んだのは、半年前に高倉が風邪を引いた時以来だ。珍しく思ったが、先程まで高倉と離れた寂しさを感じていたので、笠木は嬉しくなってしまった。


「いいよ。有理君普段から真面目だから、たまにはサボるのも大事だと思うよ。どこかでお茶って、どこに行く?」笠木は聞いた。


「近くに良い喫茶店があるから、そこに行こう」高倉は少し先を指差した。


 笠木は、先頭を切って歩く高倉に付いて行った。高倉は近くと言ったが、意外と距離がある事に気付いた。


 歩いている間高倉は無言で、笠木が「今日は風が強くて寒いね、もう雪が降りそうだね」と話しかけ、それに高倉が頷くくらいだった。


 路地裏に入り、小さな昔ながらの昭和の香りの感じる喫茶店が目に入った。高倉はその店の前に立った。


「ここ通りすがりに見た事あるけど入った事ないんだよね。有理君は普段来るの?」笠木は聞いてみた。


「うん、たまに」高倉は店の天井の低い扉を開けるために身を屈め、中に先に入った。


 笠木も中に入ったが、中は天井が高かった。


 扉を開けた瞬間にベルが鳴る音が店内に響いた。奥から中年の女性が出てきて、いらっしゃいませ、と声を掛けてきた。

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