第十一章 交差

 笠木がつい寝坊をした事に気が付いたのは、高倉に声を掛けられ起こされたためだった。


 高倉は既に私服に着替えていて、寝ている笠木を起こしに来た。寝室までフレンチトーストを焼いた良い匂いが漂っている。


「創也、おはよう」高倉は笑顔で言った。昨晩は遅くまで起きていたのに、高倉の目の下のクマは今日薄く感じた。


「おはよう」笠木は布団から出ようとしたが、自分が裸のまま寝ていた事に気が付いて、急いで布団の中に戻った。


「はい、これ。シャワー浴びておいでよ」高倉はバスタオルを渡してきた。「今フレンチトースト作ったところだから、上がったら食べて。立てる?」高倉は笠木の体調を気遣いながら言ってきた。


「大丈夫」笠木は受け取ったバスタオルを身体に巻いて起き上がった。腰が重かったが、なんとか立てた。今日の仕事は十四時から二十二時までだ。果たしてずっと立っていられるだろうかとふと思った。ベッド脇の目覚まし時計を確認すると、八時だった。


「いい匂いがする。また作ってくれたの?」高倉は普段自炊をしないが、笠木が泊まった朝だけフレンチトーストを作ってくれる。「いつもありがとう」


 高倉は洗面所までついてきてくれた。


「これ以上一緒にいなくていいんだけど…」笠木は洗面所の中に入って、バスタオルを取ろうとしたが、洗面所の前の廊下からまだずっと自分を見てくる高倉に言った。


 高倉は苦笑いして居間に戻っていった。


 笠木はシャワーを浴びると、洗面所の棚に置かれた自分の服と、普段から高倉の家に何着か置かせて貰っている下着を着用した。


 洗面台を見ると、高倉と笠木の使用しているコップ、歯ブラシや、お互い使用しているヘアワックスなどが置いてあるのが目に入る。まるで同棲をしているみたいだ、と笠木は嬉しく思った。


 笠木は髪を乾かした後、歯を磨くために歯磨き粉を取ろうとして、洗面台の鏡の裏の扉を開けた。鏡の裏の棚には普段、笠木の私物は下の段に置いてあり、高倉の私物は上の段に置いてあるのだが、上の段に肌色のチューブ型の、女性用だと思われる化粧品が置いてあることに気が付いた。


 笠木は疑心暗鬼にそれを手に取り確認すると、表面にコンシーラーと書かれている文字を見た。笠木はそれを持ち洗面所を出て、長い廊下を渡り居間に居る高倉に向かって自分の手に持ったコンシーラーを見せた。


「有理君、これ何?」笠木はあまり気にしていない風を装いながら高倉に聞いた。


 高倉は居間の黒いソファーに座りながら振り向いてこちらを見た。掛けていた眼鏡を右手で上げたが、笠木の持っているコンシーラーが見えなかったようで、眉間に皺を寄せると、立ち上がって笠木の近くまで来てコンシーラーを見た。


「ああ、それ。自分用」高倉は自分の目元を指差して言った。「目の下のクマ消しに良いって、店員に聞いたから」高倉は気恥ずかしそうだった。


 笠木は驚いて高倉の目の下を見た。確かに今日はクマが薄く見える。今朝顔色が良く見えたのはこの化粧品のお陰だったのだろうか。


「そんなに気にしなくてもいいのに」笠木は言った。


「一応ね。職場でも心配されるし」高倉は言った。「浮気か何か疑ったの?」


「女性用の化粧品があったらそりゃびっくりするよ」笠木は言った。「疑ってごめんね」


「いいよ」高倉は苦笑いした。


 今日の高倉の服装は黒いパンツに灰色のタートルネックのニットだった。タートルネックが似合っているが、普段職場に行く際はワイシャツなので、笠木は珍しく思った。


「そっか。今日は金曜日だから私服デーなんだもんね。ニット着て行くの珍しいね」笠木は洗面所にコンシーラーを戻しに行きながら高倉に言った。


 居間に戻ると、高倉は自分の朝食用に、糖質オフのフルーツグラノーラと、ミルク入りの砂糖抜きの珈琲を準備していた。高倉の朝食は毎朝これだ。外泊をした時以外は、平日も休日も、変わる事はない。


 笠木の座るダイニングテーブルの席に、先程作ってくれた笠木用のフレンチトーストを置いてくれた。


「ありがとう」笠木はダイニングテーブルの椅子に座りながら言った。


 フレンチトーストを作る為に早起きをして貰うのは申し訳ないと思い、毎回朝食を買ってから高倉の家に行こうと思っているのだが、高倉はいつもフレンチトーストを作ってくれる。料理は苦手らしいが、フレンチトーストだけは昔から作っていたので得意だと言っていた。


「はちみつかける?」高倉は聞いてきた。


「うん、かけたい」笠木が言うと、高倉ははちみつをいつも以上に多めにかけてきた。


「有理君、もういいよ。多いよ」笠木は笑った。


 二人で朝食を取っている間、高倉は静かだった。いつも静かだが。


 笠木はまだ腰が重い事が気になった。


 朝食を食べ終えると、高倉はスマートフォンで何やら確認しながら珈琲を飲んでいた。高倉は朝食後、珈琲を飲みながらスマートフォンを見る事が日課だ。毎朝アプリでニュース記事を読んでいると以前高倉は言っていた。


「フレンチトースト美味しかったよ。ありがとう。何か気になるニュースあった?」笠木は聞いてみた。


「別にないかな」高倉は言った。


「お皿、代わりに僕が洗うね。有理君のも珈琲以外下げるよ」笠木は食器をまとめながら言った。


「ありがとう」高倉はスマートフォンから目を離さずに言った。


 笠木が食器を持ちキッチンに入ると、卵が一つ出したまま冷蔵庫に入れ忘れられている事が目に入った。戻そうと冷蔵庫の中身を確認する。中にはブラックのアイスコーヒーの入ったペットボトルと、牛乳、卵、バターしか入っていなかった。


 横の棚にはプロテインとフルーツグラノーラ、食パンの残り、調味料が最低限置いてあるだけだ。食器棚の中の皿も少ない。普段いかに自炊をしていないかが伺える。


 高倉の家にある鍋やフライパンは、笠木が料理をしに来る為にわざわざ購入したものだった。この食パンの残りも高倉は食べないだろうから、次に来た時には賞味期限が切れて捨てられる事になるのかな、と笠木は勿体なく感じた。


「創也」高倉は気付いたらスマートフォンを置いて、笠木の後ろに来ていた。


「どうしたの?」笠木が聞いた瞬間、高倉は笠木を抱き締めてきた。「何?どうしたの」


「ちょっとハグしたかっただけ」高倉は抱き締めた腕を離した。顔には微笑を浮かべている。


「昨日から有理君変だよ。そうだ、今度いつ会える?僕昨日の話の続きが聞きたいんだけど」笠木は言った。


「昨日の話か。今度ねぇ…会える日が分かったら連絡する」高倉は言った。「俺、そろそろ行かないと。悪いけど後片付けよろしくね。鍵もよろしく」


 高倉は居間のソファーの前のテーブルまで歩いて行き、テーブルに置いてある腕時計をつけ、テーブル横に置いてあった鞄の中身を確認しながら言った。


「あれ。鞄、変えた?」笠木は聞いた。


 高倉は腕時計と職場用の鞄はいつも同じブランドを愛用していた。腕時計はシルバーのシンプルなデザインのもの、鞄は黒いビジネスバッグを愛用している。今は茶色い鞄を持とうとしていた。


「使い古してきたから変えようと思って」高倉は壁に掛けてあった黒いコートを羽織りながら言った。


「似合ってるよ。いってらっしゃい」笠木は笑顔で言った。玄関まで高倉を見送りに行った。「気を付けてね。仕事無理しないでね」


「ありがとう。行ってきます」高倉は笑顔でそう言った後、手を振り玄関から出て行った。

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