第十章 動物園

 木曜日、高倉は笠木の住んでいる札幌平岸のアパートの近くの路肩に自分の車を停めた。


 笠木のアパートは札幌地下鉄南北線の平岸駅から徒歩十分程の距離にある、二階建ての木造の小さな建物だった。部屋は二世帯分しか入らない、細くて狭い土地に無理やり詰め込んだような独自なデザインをしていた。


 笠木の部屋は二階だが、玄関が一階にあるタイプの建物で、玄関に入ってすぐ目の前に二階へ登る階段がある。高倉は、笠木がその階段で足元を外して落ちるのを何度か見ていた。笠木はかなり不器用だった。


 高倉はスマートフォンを取り出し、笠木にチャットで着いた事を連絡した。笠木はなかなか既読にならず、出てこなかった。笠木がデートの時に、時間通りに出てこない事には慣れている。


 高倉は運転席の窓を少し開け、運転席のホルダーから煙草を取り出し、吸い始めた。


 十五分程待ったが、笠木は出てこないし連絡もない。


 高倉は運転席のドリンクホルダーに入れたガードアッシュの消化穴に煙草を押し付け火を消し、再度スマートフォンで連絡をしようか迷った。まさかないとは思うが、階段から落ちて意識を失っていたらどうしようかと思った。


 そうこう考えているうちに、笠木が玄関から出てきた。


 ふわふわのパーマを揺らし、今日は白いパンツに黒いパーカーを被り、その上から淡いブルーのデニムジャケットを着込んでいる。ボディバッグの中を何やら確認しながら、焦った様子で駆け足に車に向かって来た。


「待たせちゃってごめんね」笠木は助手席のドアを開けて、車の中に入りながら言ってきた。


「部屋の鍵どこに置いたか分かんなくなっちゃって。探してたら遅れちゃった」申し訳なさそうに言う。中に入り込む時に急ぎ過ぎて、車の天井に頭をぶつけそうになった。笠木が部屋の鍵をよく無くす事は知っていた。


「いつも鍵は同じ場所に置けって言ってるでしょ、ドジなんだからさ」高倉は言った。


「ごめん」笠木は言った。「遅れたお礼にってわけじゃないけど、今日の動物園代は僕が出す」


「いいよ別に」高倉は車を進めながら言った。「じゃあ…珈琲奢って。あ、煙草吸ってもいい?」






 笠木は助手席に座り、シートベルトを締めて高倉を見た。


 煙草は毎回吸っていいのか聞いてくるが、そもそも笠木が来る前に吸っていたようだ。窓を開けていても煙草の匂いがした。


 笠木は煙草を許可すると、高倉の着ている服装を見た。高倉は今日黒いパンツに黒いタートルネックのニットを着て、上にグレーのチェスターコートを羽織っていた。


 このようなシンプルな服装が似合う事が羨ましいとも思った。また、悔しいが、高倉は今日も横顔が完璧だと思い、つい見とれてしまった。


「同棲出来たらいいのにな」笠木は、ふと車内の匂いを嗅いでしまいながら言った。


 車内には高倉の普段吸っている煙草の匂いと、高倉の使用している柔軟剤とシャンプーの香りが若干するだけだった。女性の乗った後の匂いは何もしなかった。


「そのうちしたいね」高倉は言った。


 高倉はたまに煙草を吸いながら運転をしている。高倉は左手に煙草を持ち、人差し指と中指の間に煙草を挟みながら、長くて綺麗な指で煙草を吸っている。


「そういえば動物園久しぶりだよ。俺なんてもう十五年近く行ってないよ」高倉は言った。


 また同棲の話を誤魔化された、と笠木は思った。


 付き合って一年くらいの頃からたまに同棲をしたいと笠木は言うようになったが、その度に別の話で誤魔化されていた。高倉と付き合いだしてから高倉の自宅に初めて呼ばれたのも、笠木が何度も行きたいと言ってやっと入れてくれたくらいだ。


 付き合って半年間は高倉の自宅には入った事もなかった。なので最初は既婚者なのではないかと疑ったくらいだ。


 高倉と笠木は休みが合わないので、どうしても会うのは平日の夜が多かった事もある。それは高倉が当初会う日を平日に指定してきたからだった。後々それは笠木のシフトを気にしてくれていた事が分かったが。高倉の自宅の合鍵も今年に入ってやっと貰えたばかりだった。


「十五年って何年前だよ、中学生?」笠木は同棲の話を忘れようと思い、聞いた。


「そう。中学の課外授業で行ったきり」高倉は言った。


「有理君の実家って確か西区だったよね」笠木は聞いた。


「そうだよ」高倉は言う。


「西区ってお金持ちが住んでるイメージだよ。有理君育ち良さそうだもんね」笠木は、ふと高倉の足元を見て言った。


「そうでもないし普通の家庭だよ」高倉は言った。


 笠木は運転をしている高倉の横顔をまた見た。高倉は平然と煙草を吸いながら運転をしている。何も怪しげな様子はない。


 笠木は自分の座っている座席の周囲を見渡した。女性の髪の毛でも落ちていないかと思ったのだ。見た感じ、落ちている毛は見つけられなかった。


「何か怪しんでる?」高倉は苦笑いしながら聞いてきた。


「なんでもないよ」笠木は窓の外に目をやった。


 今は丁度豊平川を抜け、環状通を走っているところだった。


 この通りを真っすぐ行けば、札幌市電のロープウェイ入口駅に辿り着く。そしたら後は山沿いに移動をするだけだ。円山動物園まで車であと十五分ほどだろうか。


 笠木は車を運転しないので道には詳しくないが、以前付き合っていた相手と円山動物園に行った時を思い出した。


 いや、正しくは“行こうとした”だ。その当時付き合っていた相手も、高倉と同じ反応をした。男二人で昼間から動物園に行く事を躊躇っていた。


 その相手は以前付き合っていた浮気をした男ではなく、その前に付き合っていた男だったが、結局動物園に向かうも途中でドライブに変更しようよと誘って来て、動物園に行けなかった事を笠木は思い出した。その男は体裁を凄く気にする男だった。

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