「受動喫煙ってやつがあるでしょ、あれあんま吸わせたくなくて」高倉は言った。


「それ言ったら付き合う前は何も聞かずに喫煙席頼んでたじゃん」笠木は言った。


「それはそれ、これはこれ」高倉は居酒屋の自動ドアの前に立って言った。


 ドアが開くと目の前のレジに立っていた若い男の店員が「いらっしゃいませー!」と元気に声を掛けてきた。高倉と笠木を見て、「二名様ですか」と聞いてくる。


「二名で。個室空いてますか」高倉は言った。


 高倉は以前職場の飲み会で、幹事を任された新人にこの店を紹介された。その際、居酒屋の新人店員に自分の鞄にビールを盛大に溢され、大して謝られもしなかった事から高倉はこの店にトラウマがあるが、そんな店だからかよく空いていた。平日でも居酒屋の個室は込み合う時間帯だが、この店なら個室が空いているだろうと思うが正解だった。


 二人は奥にある個室に通された。

 

 高倉は笠木にメニュー表を渡し、「何飲む?」と聞いた。


「じゃあカシスオレンジで」笠木は言った。


「じゃあカシスオレンジとビールで」高倉は店員に注文した。鞄を個室の入り口とは遠い奥に置いた。


 高倉はポケットからスマートフォンを取り出したが、店員がドリンクとお通しを持ってくるまで待とうと決め、鞄の横にスマートフォンを置いた。


「煙草吸わないの?」笠木はメニュー表を見ながら聞いてきた。


「後で吸う」高倉は言った。


 すぐに店員がドリンクとお通し、おしぼりを二人分持ってきた。お通しは小さな皿にキャベツと塩昆布が乗ったものだった。


 店員が「ご注文お決まりでしたか」と聞くと、笠木はお腹が空いていたようで、すぐに注文を始めた。


「えっと…とりあえずビビンバと唐揚げ、ポテト、たこ焼きお願いします。有理君は?」メニュー表をこちらに渡して聞いてきた。


 高倉は笠木の頼んだものを聞いて思わず胃にもたれそうだ、と思った。年の差を痛感する。高倉は二十九歳、笠木は二十四歳だった。


 高倉はメニュー表を軽く確認して適当に頼んだ。「大根サラダ、たこわさ、お茶漬けください」サラダは二人で適当に分けられるものにした。


 そうだ。笠木は出会った頃はまだ二十二歳だったのだと高倉は思い出した。


 笠木は美術系専門学校を卒業した後、イラスト関連の企業に就職をしたがブラック企業ですぐに退社をしており、その後からはずっと書店勤務だと聞いた。


 だがイラストを描く事はまだ好きなようで、笠木の自宅のアパートは笠木の描いたイラストの紙が壁中に飾られている。


 たまに札幌市内で個展を開いていると聞いた。高倉はまだ見に行った事はない。行こうとすると、恥ずかしがって笠木が止めてくるためだ。自宅に飾ってあるイラストは既に見ているのに何故かと思う。


 出展料は自費らしいが、以前それを見た本州の企業からオファーを受けたらしい。高倉はその会社の知名度を確認し、面接へ行く事を強く進めたが、笠木は断った。理由は「有理君と離れたくない」それだけだった。


 高倉は愕然とし、そこで初めて言い争いをした事を思い出した。


 笠木は他人に依存しがちな性格をしている。母子家庭で母親が他の男と再婚後、笠木は実家を出て一人暮らしを始めたらしいが、その環境が影響しているのだろうかと高倉は思った。


 あの時に本州へ行けばよかったんだ。高倉は心の底からそう思った。


 高倉は横に置いたスマートフォンを取り出し、今日の昼間撮った写真を表示させた。


「創也の言っていた時間、確かに職場に居たよ。ほら」高倉はスマートフォンを笠木の方へ見せた。


 笠木は写真に写ったWEB打刻の時刻を眉間に皺を寄せて見た。


「二十時十五分?」笠木はそう言うと、自分のスマートフォンを開いて何かを確認した。「僕の撮った写真は十七時二十七分だ」笠木は安心したような声を出した。


 だが、また眉間に皺が出来た。「車は?あの日有理君の家に行った時、有理君の車がなかったの見たよ。いや、ストーカーみたいでごめんね。通りすがりに見えちゃったから。あの車はその時どこに行ってたの?」笠木は聞いてきた。


「同僚に貸してって言われてたから、貸してた」高倉はビールを飲みながら言った。


「他人に車貸す?」笠木は怪訝な声で聞いてきた。


「あの車そろそろ買い替えようと思ってて、誰かに譲ろうと思ってるんだよね。だから試しに譲る予定の同僚に一日貸したの」高倉はビールをテーブルに置いて言った。「煙草吸っていい?」


「いいよ」笠木は何とも言い難い表情をしていた。「その同僚さんって、有理君に背丈とか似てる人なの?」


「あー、似てるかも」高倉は言った。


「そのタイムカードってさ、誰かに打刻して貰ったり出来ないの?」笠木は聞いてきた。


 高倉は胸ポケットから煙草とライターを取り出し吸い始めた。「無理」


「僕の職場は出来るけど」笠木は言ってきた。「むしろ残業代がつかないように、先輩にたまに勝手に押される」声は不満そうだ。


 笠木はカシスオレンジをもう飲み終えたようで、メニュー表に目をやっている。


「もう飲んだの?次何頼む?」高倉は聞いた。


 笠木は何も言わず店員の呼び出しボタンを押した。「打刻は自分でしたの?」


「俺の職場は指紋で本人認証するんだ。だから他人に勝手に打刻は出来ないよ」高倉はスマートフォンを触り、もう一枚の、昼間撮った指紋認証機の写真を見せた。「ここの黒い枠内に出勤と退勤の時に親指をかざすの。もし何かあっても余程の事がないと変更されないし、変更するのは上司だからね。自分じゃどうしようもない」


 笠木は指紋認証機を珍しそうに見ていた。店員がやってきたので、「ファジーネーブル一つ」と笠木は注文した。


「甘いもの好きだよね」高倉は苦笑いして見せた。高倉は甘いものが苦手だった。


 高倉はビールをあまり飲まず、煙草をずっと吸っていた。沈黙が続いた後、しばらくすると料理を運んだ店員がやっと来た。


「お待たせしました、お先にファジーネーブルです」店員がドリンクを先にテーブルに置いて、次に料理を並べて行くのを高倉はただ見ていた。高倉の頼んだお茶漬けだけがまだ来なかった。


「創也って夜ご飯食べる休憩時間とかないの?」高倉は笠木に疑問に思った事を聞いてみた。この時間帯に会う事は少ないので、笠木の遅番の休憩事情は知らなかった。


「あるけど、おにぎり食べただけじゃこの時間お腹が空くじゃん」笠木は大根サラダとたこの和え物のような何かを高倉の前に置き、熱そうなビビンバとたこ焼きと唐揚げを自分から少し離した位置に置き、ポテトを手前に持って来て、ケチャップを付けて食べ始めた。

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