部屋に引きこもり高校に行かなくなった当初は、ここまで酷くなかったのだが。


 飯は毎日朝昼晩と、母親が部屋の前に食事の乗ったトレーを置いていく。母親が食事を置いた証拠に扉をノックするので分かる。


 それがここ数日は一切ノックがなかったので、小川は腹が空いて仕方がなかった。幸いな事に部屋に買い置きのパンを置いていたので、それで飢えを凌いでいた。


 小川はかなり迷ったが、部屋の外に出ようと思い、廊下に繋がる部屋の扉のドアノブに手を掛けた。鼓動が高まった。


 早朝シャワーを浴びに降りる際は、母親が寝ている時間を狙って行っている。今は十八時だ。まだ当然母親は起きて一階の居間に居るだろう。


 だが扉に耳をつけてみても、何の音もしない。


 母親が家に居る間は一階の居間からテレビの音が聞こえて来るのだが、ここ数日は何の音も聞こえて来ない事には気付いていた。


 小川は勇気を出して扉を開けた。廊下の外に出る。ひんやり冷たい空気が廊下には漂っていた。小川の部屋は暖房がついて暖かかったので、尚寒く感じた。


 小川は廊下を進み階段の下を覗いたが、一階の曇りガラス張りの居間の扉からは明かりが漏れていなかった。テレビの音どころか、この時間台所を使っているはずの音も何もしない。


 小川は静かに階段を降りようとしたが、年季の入った木製の階段は降りるたびにミシミシ音がした。小川はドクドクと鼓動が高まる中、一階に降り、居間の扉を少し開けて中を見た。母親がもし居間に倒れていたらどうしようかと思ったのだ。


 中が暗くて見えなかったので、扉の横にあるスイッチを押して居間の明かりを点けた。だが居間を見渡しても、どこにも母親の姿はなかった。


 居間の中はラベンダーの香りのルームフレグランスで良い香りが漂っていた。同じラベンダーの香りでも自分の部屋とは大違いだ。


 小川は扉を開けて居間の中に入り、居間の横にある和室を覗いた。そこにも母親は居なかった。


 キッチンにも向かった。そこにも母親は居なかった。


 居間の方へ戻ると、ふと出窓の棚に並べて飾られてある自分の昔の写真を見た。小学生の頃の運動会で笑顔で写っている小川の写真、七五三の写真、夏休みに家族で訪れた遊園地での写真などが飾られていた。この頃はまだ父親が家庭的で、母親と仲が良かった事を思い出した。


 自分が中学に上がった辺りからだろうか、と小川は思い出した。父親の出張が多くなり、自宅に帰って来ても母親と会話をする事が減っていた。また、自身の行動とは反して高圧的で支配的な父親は、時に母親を酷く罵った。それと同時に小川は自分も父親と会話をする事が無くなった事を思い出した。


 小川は居間の横にある洗面所へ向かった。洗面所にも母親は居なかった。


 嫌々ながら横にある洗面台の鏡に目を向けた。洗面所の電気は点けていなかったが、居間からの明かりで薄暗い中、小川の姿が映っていた。


 無造作に伸びた肩まである黒髪に、目つきの鋭い一重が犯罪者の写真を思わせた。面倒でしばらく剃っていない髭も目立つ。母親とは似ても似つかない容姿をしている。自分は確実に父親似だと小川は思った。


 身長も最後に測った時はクラスで一番後ろだったし、面長なのでとても十七歳に見えない老けた印象だ。肌は相変わらずニキビの跡が残っており、最近出来たニキビも膿を持った痛々しいものが頬に数個ある。小川は自分の頬に出来たニキビが気になり手を伸ばし触れたが、激痛が走った。上下黒いスエットを着て、そのスエットは毛玉だらけだ。小川は鏡からすぐに目を背けた。


 廊下へ出て、トイレの中も調べた。母親の姿はここにもなかった。


 後は二階だ。


 小川は居間から出て廊下に戻り、階段を上がり自分の部屋とは一部屋隔てた廊下の反対隅にある、母親の寝室へと向かった。昔は母親と父親は同じ寝室だったが、ある時から別々の寝室を使うようになっていた。


 母親の寝室を、勇気を出してノックしてみた。中からは何も音は聞こえて来なかった。


 小川はゆっくり扉を開けて、寝室の中を確認した。開けた瞬間、かすかに何か花の香りのような香水の良い匂いがした。ラベンダーではなかった。


 中には部屋の中央にベッドが置かれており、小さな本棚がその横に置いてある。


 鏡台が扉を開けた目の前に置いてあった。鏡台に映った自分の姿を見たくなく、小川は顔を背けた。


 部屋の電気を点ける。ベッドの向こう側に母親が倒れていないか確認しに、部屋の中に入り窓際へ向かった。


 母親は居なかった。一体どこへ行ったのだろうか?


 小川は父親の寝室、客室用の寝室、再度一階の居間を確認したが、母親の姿は見つけられなかった。母親は最近夕方に出かけては、深夜に帰って来る事が増えている事には気付いていた。今日も出掛けたのだろうか。


 しかし数日も自分の食事を放って行く事は今までなかった。


 小川は一瞬悩んだ後、自室へ戻り、机の上に置いてあるスマートフォンを手に持った。小川は曜日感覚が狂っていたので、カレンダーで曜日を確認した。


 今日は日曜日だった。父親は今日仕事が休みのはずだ。


 小川は登録者の少ない連絡先から父親の連絡先を探すのは苦労しなかった。父親に電話をする。十回ほど呼び出し音が流れたが、父親は出なかった。女とでも一緒に居るのだろうか。


 小川は、母親と父親が不倫に関して口論をしている声を部屋から聞いた事がある。父親が帰宅した日に、一階の居間から怒鳴り声が聞こえて来た事に気付き、自分の部屋の扉を少し開けて聞いていたからだ。母親はどうやら父親の不倫を疑っているらしかった。


 手に持っていたスマートフォンのバイブレーションが振動したので、小川は着信元を見た。父親だった。


 小川は電話に出た。「父さん?」久しぶりに声を出したので、自分のかすれた声に驚いた。


「どうした、電話しただろ」父親は珍しそうな、接しずらそうな声を出した。


 それもそうだろう。もう半年はまともに父親と会話をしていないのだから。


「母さんが、しばらく帰って来てないみたいなんだ」小川は低い声で言った。


「母さんが?」父親は驚いて言った。「いつから」


「多分、この前の金曜日の夜か、土曜日の朝から」小川は、最後に夕食が運ばれて来た事を思い出して伝えた。


「そんな前からか」父親は怒りそうな声を出して言った。「分かった。俺からも連絡してみる」


「うん、お願い」小川が電話を切る前に、父親が電話を切った。


 小川は机の上にスマートフォンを投げ出し、ゲーミングチェアに座った。

 モニターのスリープモードを解除した。先程書き込みを行っていた掲示板が、今は違う話題で盛り上がっているようだった。先程の炎上しそうな内容の書き込みを投稿しなくて良かったと小川は思った。


 そう考えているうちに、すぐに父親からスマートフォンに着信が入った。


「はい」小川は電話に出た。


「蓮、母さんはどうやら電話の電源を切っているみたいだ」父親は苛々しながら言った。「そのうち帰って来ると思うが、帰って来たらまず俺に連絡しろと伝えてくれ」


「分かった」小川は電話を切ろうとしたが、父親が話しかけてきた。


「今日は元気なのか」父親が聞いてきた。


「俺?俺は、うん」小川は気まずそうに言った。


「元気ならいい」父親は落ち着いた声で言った。「何かあったら連絡しなさい」


「分かった」小川は驚いたが、久しぶりに父親とまともに会話をする事に神経がすぐに疲れてしまった。


 二人ともしばらく無言になった後、父親より先に小川は電話を切った。


 小川はスマートフォンを左手に持ったまま一階の居間に降りて行った。腹が減っていたからだ。


 キッチンに向かい、冷蔵庫を開けて中を確認した。特に作り置きが置いてあるわけではなく、牛乳やお茶、卵や調味料や肉など、調理前の材料が入っているだけだった。小川は肉の賞味期限を見た。昨日の夜だった。


 母親はこれを調理しようとしたに違いない。やはり何か事故か事件に巻き込まれたのではないか、と小川はふと不安に思った。


 小川は、冷蔵庫の上の段にミカンが入っていたので、一つ取り出した。そのミカンは青緑色のカビが少し生え、腐り始めていた。

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