第八章 名残

 小川蓮は、暗い部屋に唯一明かりのついたモニターの画面から目を離し、掛けていた眼鏡を外した。


 目をぎゅっと閉じ、鼻の付け根を左手の親指と人差し指でつまみ、上へ何回か押した。目の疲れが少し取れた気がした。


 また眼鏡を掛けてモニター画面を見ると、自分の書いた掲示板の書き込みに対して、煽るように返信が来ている文章を確認した。


 小川は眼鏡を掛けた目を細めた。最近視力が悪くなった気がする。そろそろ眼鏡の替え時だなと思いながら、掲示板に返信をするためにキーボードを打った。


 内容は最近起きた芸能人の事件に関する、掲示板での言い争いだった。


 芸能人のゴシップや、海外の紛争や若者のSNSでの痛々しい行動など、偏見の目が大好きな人間が飛びつきそうな記事を見つけては、小川は正義感を気取った文章を記事のURLと共にSNSや掲示板に書き込んで、鬱憤を晴らしていたのだ。


 それに関して反論をする輩がいたら、反論し返す。


 小川は、自分は一体何をしているのだと一瞬客観的になり、打っていた文章をエンターキーで送信する事を躊躇った。


 このエンターキーを押せば、掲示板は炎上するだろう。小川はエンターキーを押さずに、今打ち込んだ文章をデリートキーで全て消した。


 ゲーミングチェアに背をもたらせ背伸びをし、モニターから目線を逸らした。


 小川は、いつの間にか暗くなった窓の外を見た。カーテンを閉める事を忘れていた。


 小川は目に感情の宿っていない顔をして、自分の部屋を見渡した。先程まで明るいモニターを見ていたので、暗い部屋が見辛かった。


 部屋の電気を点けようとして立ち上がったが、電気を点けるために部屋の扉の近くまで行った際に、途中で床に置いてあった雑誌の山に躓きそうになった。


 雑誌は、アダルト系は下に置き上には漫画が積んであり、万が一母親に見られても良いようにしている。電気を点けて部屋を見渡した。


 部屋の中はゴミやペットボトル、雑誌などが散乱していた。


 狭い部屋の隅には、ずっとシーツや枕カバーを洗っていない寝具の乗ったベッドが置いてある。このベッドは唯一の心の癒しだった。昼夜逆転しているので、昼間自分を抱いてくれるベッドだった。


 ベッドの反対側に置いてある机の上には、高校入学祝いに買ってもらったゲーミングパソコンが一台載せてあり、その手前には今カラフルに発光する機能を抑えてあるキーボードが置いてある。部屋の壁は本棚で埋め尽くされ、その中は辞書や小説、もう使わなくなった参考書や教科書が埋まっている。


 小川は高校入学の受験までは、成績も上位をキープし、勉学に励み、暇さえあれば小説を読んで視野を広げようとしていたのだ。


 傍から見れば勤勉で真面目な学生だった。だが高校入学後、何かに燃え尽きてしまった。


 最初はただの風邪がきっかけだった。風邪を拗らせ高校を数日休んだのだが、その間誰も自分の家を訪れなかったし、誰もチャットで心配をしてくる人間は居なかった。


 母親だけが唯一心配してくれた。


 だがその母親も、小川に隠れてこっそり見ているアルバムは、小川の昔の小さな頃の写真ばかりである事を小川は知っていた。それだけがいつも母親の寝室の本棚に置いてあるから分かった。居間に飾ってある小川の写真も、幼い頃の写真ばかりだった。


 大人になった自分を見てくれる人間が居ない。


 小川はそう思い、今の自分を見て貰おうと努力した。勉強が本当はあまり得意ではなかったので、努力し過ぎた結果、友人を作る方法が分からなくなってしまった。


 クラスでも孤立していた。最初は話しかけてくれる人間が居たが、小川が上手く話せない様子を見ると、一人、二人と話しかけてくる人間は減った。


 その後、小川は高校には通わなくなった。


 結局高校入学祝いに買ってもらったスマートフォンのチャットの中身は母親と、普段単身赴任や出張で自宅を空けがちな父親だけだった。小川はスマートフォンを持っている意味が分からなかった。


 小川は自分の姿を見たくないので部屋に鏡を置いていないが、小学校卒業後から毛深くなり、肌にニキビの増えた自分の顔を思い出した。朝寝る前にシャワーを浴びに一階の洗面所に行った際に、嫌でも目に入ってしまう。


 小学生までは小柄で女の子みたいで可愛らしい、と近所でも評判だった。だがそれも、急に訪れた成長期によりこんな容姿になってしまったので、母親も受け付けなくなってしまったのだろうか。


 母親は若い男性アイドルが好きだった。自分とはかけ離れた容姿の同性をテレビやパソコンで見るたびに、劣等感を感じた。小川はため息を吐いた。


 部屋の電気を点ける際に部屋の中を横断した事で、舞い上がった部屋の匂いを吸い込んでしまった。汗の匂いと、アンモニアの匂い、それをかき消すために部屋中にいつも吹きかけている消臭スプレーのラベンダーの香りの混じった部屋の蒸した匂いを嗅ぎ、換気のために机の横にある窓を開けに戻った。


 ラベンダーの香りは嫌だと何度も母親に伝えたが、何故かこの商品を決まって買って来る。


 窓を開けると、冷たい空気が部屋の中に入って来た。だが生ぬるいこの空間には良い刺激になった。


 部屋は、週に一度母親がゴミを回収しに来る日以外は、誰もこの部屋に入って来る事はなかった。たまに父親が自宅に帰って来る日も、父親は部屋に寄り付かなかった。


 ペットボトルの中身は自分の尿だ。大きなペットボトルが数本置いてある。まだコーラの入ったペットボトルもあったが、賞味期限がいつか忘れてしまった。ペットボトルに用を足すのは、部屋から出て母親に会いたくなかった事と、ただ単に一階のトイレまで降りて行く事が面倒だったからだ。


 いつからこんなに無気力になったのだろう。

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