二
眼鏡をドラム式洗濯機の上に置き、カーディガンを脱ぎ、汗を吸ったワイシャツを脱いだ。
脱ぐ時に、右腕に複数、煙草を押し付けた古傷がある事がぼんやり目に入った。毎回服を脱ぐ時に目に入る。高倉は吐き気がした。この痕を隠すために夏場も長袖を着なければいけない事が煩わしかった。
笠木にこの痕について聞かれた事があったが、昔やんちゃをしていたとだけ伝えた。それ以降深くは聞いてこなくなった。その時も笠木は、聞いてごめんねと謝ってきたのである。今回も笠木は謝ってきた。謝る必要などないのに。
高倉は、洗面台の鏡を見た。無表情の自分が映っていた。
大して運動をしていないのに引き締まった自分の体を見た。自分の体を見ている事が嫌になり、鏡から目を背け、他の着用していた衣類を全て脱ぎ洗濯機に押し込んだ。
高倉は無性に、洗濯機を蹴りたくなった衝動を抑えた。笠木の前では落ち着いているようにしているが、色々と精神的に限界に達している事に気付いていた。
高倉は着用していた衣類を全て脱ごうとしたが、既に脱いでいた事に気付いた。
高倉はシャワーで髪を洗いながら、ふと思い出した。笠木と二年前の十二月に札幌ファクトリーでツリーを見た時だ。
何故思い出したのだろう。あの時は誰かと付き合うつもりはなかったのだ。付き合う事は面倒な事だと分かっていた。
笠木とはその時はまだ友達という状態だった。初めて会った日に告白をされていたが、高倉は聞いていないふりをした。
どうせ顔が目当てなのだろうとも思っていたし、同性と付き合った事もなかったし、それ以前に誰かともう付き合うという発想がなかったからだ。
高校時代に一度同級生の女性に告白をされて試しに付き合ってみたが、生理的に受け付けず二週間もせずに別れた事を思い出した。
笠木と最初に会った日に連絡先を交換してから、笠木は頻繁に飲みや食事に誘って来た。高倉は最初それが鬱陶しいと感じていたが、高倉は親しい友人は皆無だったし、職場の飲み会では本心を語る事なく常に気を遣っていたし、損得考えず誰かと話せる唯一の機会だった為、笠木とよく会うようになっていた。
笠木は札幌ファクトリーで屋内のツリーを一緒に見て食事をした後、雪の降りしきるファクトリーの外で高倉に向き合って口を開いた。周囲にはイルミネーションされた木が何本か立ち並び、裏手なので人は居なかった。
「もう有理君とはこれで会うの最後にしようと思うんだよね」笠木は言った。
高倉は戸惑った。先ほどまで一緒にウィンドウショッピングや食事を楽しんだばかりだった。いきなりこんな事を言われるとは思わなかった。「何で?」
「僕は有理君が好きだから、このまま友達として一緒に居る事が辛くなってきたんだ。僕の自分勝手でごめんね。今まで楽しかったよ」笠木は高倉から目を離さずに、何かを訴えたいような表情で言った。
雪がしんしんと降っている中、自分の眼鏡に雪が付いていく事を高倉は感じた。
笠木の茶髪のふわふわ頭に雪が少し積もってきているのを見た。
高倉は咄嗟に言葉が上手く出せなかった。
「そう」高倉はこういう時に何と言ったら良いのか分からなかった。
ただ、笠木ともう会えなくなるという事実が急に伸し掛かって来た瞬間、自分の中で珍しく孤独感が押し寄せて来た事を感じた。今まで笠木と何回も会って、笠木の家で宅飲みをしたり映画館や美術館に行ったり、一緒に色々な場所に出掛けた事を思い出した。美術館など、高倉は一人では絶対に行かない場所だった。興味がなかったからだ。高倉は言葉が出なかった。
「じゃあ、今まで本当にありがとうね」笠木は手を振ろうとしたが止めたようで、右手を少し上に上げたまま立ち尽くした後、一瞬悲しそうな微笑みを見せて、手を降ろして踵を返し帰ろうとした。
「ちょっと、待って」高倉は気付いたら、咄嗟に笠木の腕を掴んで引き留めていた。
「何?」笠木は戸惑ったように聞いてきた。
高倉は何で腕を掴んだのか自分で理解に苦しんだ。咄嗟に周囲を見渡して掴んだ笠木の腕を離して、自分の着ていたコートのポケットの中に自分の手を入れた。
このまま二度と会う事がなくなった方が高倉としては楽なのだ。友人も恋人も作るつもりがなかった。だが気付いたら「もう会えないの?」と笠木に聞いていた。
「付き合ってくれるなら会えるけど」笠木は言った。
高倉はなんと上から目線なのだろうと驚いた。一瞬口があんぐりと開いた。口元に白い息が漂った。
笠木は自分よりも五歳も年下だ。こんな年下の同性の男に、人生でこんな台詞を吐かれるとは思いもしなかった。
「付き合う?俺が?」高倉は普段使用していない表情筋が引き攣るのを感じた。
「僕の事嫌い?」笠木が聞いてきた。
顔は戸惑ったような、何かを期待しているような表情に見えた。頭に雪が積もり顔は寒さで赤くなっていた。唇の血色が悪くなってきていて、白い吐息が口から漏れてくる。
「嫌いではないけど」高倉は言った。
笠木の唇の血色の悪さが気になった。そもそも誰かと付き合うつもりはない、と言おうとしたが口から出てこなかった。
何故こんな寒さの中、外でこんな話をしているのだろうと思った。せめて屋内に入らないと笠木が風邪を引いてしまうと、笠木の体調を一番先に心配した自分に驚いた。
「じゃあ付き合ってくれる?」笠木は不安そうな表情をして聞いてきた。
一世一代の告白のような緊張感が漂っている。高倉はコートのポケットに両手を入れたまま、立ち尽くした。
こんな場面でどう言葉を出せば良いのか分からなかった。普段は告白の場面になる前に早々に切り上げるからだ。ただ、笠木を傷つける事はしたくないと思った。
「付き合ったらまたこうして会ってくれる?」高倉は気付いたら笠木に聞いていた。
「会えるよ!」笠木は表情が一気に明るくなった。
クリスマスプレゼントを貰った子供のような表情だ。笠木の明るいふわふわした茶髪に色素の薄い茶色い目から、普段から雰囲気が海外の子役のようだなと思っていた。もう子供という年ではないのは分かっていたが、幼い顔立ちをしているし、厄介な性格からなんとなく映画のホーム・アローンを思い出した。
この後高倉は自分で何を言ったのかあまり覚えていないが、二人でとりあえず屋内に入り、そのあと酒を買い笠木の家へ行き、二人で笠木のアパートで酒を飲んだ時を思い出した。
あの時は流れに流されただけのようだったが、とりあえず笠木を傷つけずに済んだ事、また笠木に会える事に安堵し、ただ楽しかったという記憶を高倉は思い出した。
楽しいという感情は笠木と居る時にしか味わえない感情だった。
去年のクリスマスは有給が取れなかったので、笠木の函館へ旅行に行きたいという気持ちを叶えてあげる事が出来なかった。
代わりに、JRタワーのホテルを予約した。職場が近い事が気がかりだったが、何か聞かれたら誤魔化すつもりだったし、笠木を喜ばせてあげたかった。
三十五階にある夜景の見えるレストランに行きたかったが、さすがに男二人で行くのは目立つと思い、夕食は居酒屋の個室で済ませてしまった。代わりに、部屋で笠木の欲しがっていたブランドの腕時計をプレゼントした。
このような場合、相手が女性だったらネックレスか指輪をあげるのだろうなと高倉は思ったので、プレゼントは腕時計にした。腕時計も毎日身に着けるものだと思ったからだ。自分は独占欲が強いのかと高倉は思った。
あの頃は本当に楽しかった。
今年のクリスマスは一緒に過ごす事は出来そうにないなと高倉は思った。ふと胸が苦しくなった。
高倉は自分の身体を気付いたら洗い過ぎだと思うほど擦っていた。何度も何度も石鹸を付けたタオルで擦る。いくら洗っても、自分の身体は汚れていると思った。
手のひらを見ると、ハンマーで女性の顔面を粉々に砕いた瞬間の感触が蘇る。手に血はついた事はないのだが、自分の手が血で汚れているような気がした。
ふと左側にあった浴槽を見る。
高倉は見たくないものを見てしまったという風に目をぎゅっと閉じ、手元に目線を落とした。
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