第七章 初恋

 自宅に向かう途中に高倉は、運転席のホルダーに入れたスマートフォンが光っている事に気付いた。車を停め、発信元を確認する。


 笠木から着信が五件、チャットが数件入っていた。笠木から何件も着信が入る事は珍しい。


 高倉は何かあったのかと不安になり、急いで笠木に電話を掛けなおした。何回か呼び出し音が鳴った後に、笠木が電話に出た。


「創也?着信見た。何かあったの?」高倉は無事に笠木が電話に出てくれた事に安堵する。


「有理君、チャット見てないの?」笠木は何か苛立っているようだ。


 急いで電話を掛けたためチャットのメッセージ内容は確認していなかった。


「ごめん、メッセージ確認する前に電話しちゃって…」高倉は謝った。「どうしたの?」


 笠木は一瞬黙った。


「今晩すすきのに居た?」笠木はぽつりと呟く。


「え?」高倉は言い留まった。「今日はすすきのには行ってないよ。さっきまで残業で職場に居たよ。それがどうしたの?」


「本当に?残業?」笠木は怪訝な声を出した。「僕見ちゃったんだよね」


「何を?」高倉は聞いた。


「有理君が女性と有理君の車に乗ってどこかに行くところ、僕見ちゃったんだよね」笠木は怒りなのか泣きそうなのか、声を震わせながら言った。


 高倉は一瞬思考が停止したが、すぐに反応した。


「それは見間違いじゃない?だって俺、本当にすすきのには行ってないから」高倉は冷静に言った。


「嘘だ。どこからどう見たって有理君にしか見えなかったよ。それに車もいつも有理君の乗っている車と同じ車だったよ」笠木の声が今にも泣きそうになっている事に高倉は気付いた。


「創也、本当に俺じゃない。なんなら職場に残ってた証拠…タイムカードの写真とか、なんでも見せるよ。本当だよ。嘘はついてない」高倉は言った。


高倉は、泣きそうな笠木の声に戸惑った。電話ではなく今すぐ笠木のアパートに駆けつけて会って話をしたかった。「今日この後会える?」


「今どこに居ると思う?」笠木は言った。


 高倉はGPSを確認すれば分かる事だが、その話は出来るはずもない。先に確認をしなかった自分に苛立ちを覚えた。


「どこに居るの?」


「有理君のうち」笠木は言った。


 高倉は困惑した。


「うちって…俺のマンションに居るの?」


「有理君が家に居るか確認したかったから、つい来ちゃったんだ。そろそろ帰ろうかと思ってた。勝手に入ってごめんなさい」笠木は謝った。


「待って」高倉は急いで言った。「そのまま家に居て。俺もう少ししたら帰るから」


「今どこに居るの?」笠木は聞いてきた。


「今は職場の上司に飲みに誘われたから駅前の居酒屋で飲んでたとこ。もう少ししたら帰るよ」


「飲んでた?残業じゃないの?」


「二十時くらいまで残業してた。その後飲みに来た。今居酒屋のトイレから電話してる」高倉は言った。


「あとどのくらいで帰って来る?」笠木は聞いてきた。


「今少し大事な話をしていたから、それが終わったら会計する。その後地下鉄に乗って…遅くても終電…いや、二十三時半くらいには家に着くようにする」高倉は腕時計を確認した。「泊まって行ってよ。直接話がしたい」


「分かった」笠木は一瞬黙ったが、強張った声を出した。「待ってるよ。気を付けて帰って来てね」


 笠木はこんな状況でも人の事を気遣える優しさの持ち主だった。口先だけかもしれないが、高倉が好きな部分でもあった。


「わかった。ありがとう。なるべく早く帰るようにする。待ってて」高倉は急いで通話を切った。


 高倉はすぐに思考した。この車が駐車場に停まっていない事も笠木は確認済みだろう。


 車は駅前のコインパーキングに停める。車は同僚に貸した事にする。

 飲んでいない言い訳はビールを一杯引っかけてから帰れば気にならない。そうしていれば自然と服に飲み屋の匂いが付くだろう。駅前にある立ち食い居酒屋が手っ取り早い。一人で一杯軽く飲んで一品か二品注文をして帰るだけなら不思議じゃない。時間は計算通りにすれば問題はない。


 高倉は車の中に常備していた消臭スプレーを車内と自分に吹きかけた。






 高倉が自宅のマンションに帰宅すると、自宅の鍵は開いていた。ふと不安に思うも、玄関に置いてあった靴を見てほっと胸を撫でおろした。この小さいサイズの靴は笠木のよく履いている靴だった。他には靴は置いていない。


「創也?」高倉は長い廊下を抜けた後、居間のドアを開けた。


 黒い二人掛けのソファーに座りクッションを抱きしめたままこちらを振り向き、自分を見ている笠木を見た。


 ソファーの前には小さなガラス製テーブルが置いてあり、その前にテレビが置いてあるが、テレビはつけておらず、居間のカーテンも普段昼間から閉めているレースカーテンしか閉まっていなかった。


 あまり家具のない、カーペットやカーテン、ベッド周りも内装が基本黒で統一されたシンプルな部屋に、笠木の明るい髪色が目立っていた。唯一別の色があるとしたら扉やダイニングテーブルの木製の色くらいだ。


「ただいま。不用心だよ。入ったなら鍵を閉めなきゃ」高倉は汗ばんだ自分のワイシャツの襟を引っ張りながら、職場用の鞄を居間の二人掛けダイニングテーブルの椅子に置いて言った。


「二十三時半ぴったりのご到着だね」笠木は訝しげな声を出した。無表情だ。こちらを上から下まで見て、何か粗探しをしているようだった。「飲み会は楽しかった?」


「楽しくないよ。上司に部下の指導方法を変えるように説教食らっただけだから」高倉はうんざりした声を出した。


 笠木が自分のスマートフォンを持ったまま近寄って来た。「見せたいものがあるんだけど」


「何?」高倉は無表情で聞いた。


 笠木は高倉のワイシャツの近くまで一旦顔を近づけた後、自分のスマートフォンを操作し、何かの写真を高倉に見せてきた。「これ有理君に見えない?」


 笠木が見せてきたスマートフォンの画面には、一枚の写真が表示されていた。そこには黒髪の女性を、介抱するように密着して支えて黒い車の助手席に乗せている男の写真が写っていた。男は背中と右から見た横顔だけが写っていた。


 場所はどこかの立体駐車場のようだ。車は黒塗りの車高の低い車で、高倉の乗っている車と一緒だった。車は後ろから撮られていたが、ナンバーは立体駐車場の支柱に遮られて写っていなかった。


「似てない?車も」笠木は言った。


 高倉は目を見開いた。写真を撮った時刻を確認した。「似てるね」


「でしょ?有理君にしか見えなくない?横顔もそっくりだしさ。今日本当に残業して職場の人と飲んでたの?」


「疑うね。俺は嘘はついてないよ」高倉は平然と言った。


「有理君さ、前にも女性と一緒に街中歩いてるの見たって僕言った事あるよね」笠木は言った。


 高倉は、笠木が涙声になって目元が潤んできた事に気付いた。


「浮気は絶対にしないって言ったじゃん、女性は苦手だって言ってたじゃん」笠木は言った。


 高倉は泣きそうな笠木を見てうろたえた。


「その時は…俺は創也に、電話を掛けてたよね?今から俺の家に来ないかって誘って、それを創也が断った。その時に見たんでしょ?確か」高倉は聞いた。


「そうだよ。大通で見た」


「その時、その男は電話してた?前にも聞いたけど」高倉は聞いた。


 笠木は一瞬黙った。


「電話はしてなかったと思う」


「その時に俺は創也と電話してたよね?だから俺なわけないよね」高倉は笠木の顔を見て言った。


笠木は潤んだ目で、高倉の顔を見た。「今回の写真は?」


「もう一度写真見せて」高倉は笠木の差し出したスマートフォンの画面を再度見た。


「他人の空似じゃない?似てるけど。それに俺は、こういった服を着ないよ。持ってない。知ってるよね」高倉は、背に派手な何かの模様の入ったスタジアムジャンパーを着てキャップを被っているストリート系ファッションに身を包んだ男を見た。高倉は普段シンプルなワイシャツや、オフィスカジュアルなジャケットしか着ない。


「なんならクローゼットの中見て、持ってる服確認してもいいよ」


「いいよ、そこまでは」笠木は言い淀んだ。


「僕も…今日は酔ってたんだ。友達と飲んでた。だからもしかしたら勘違いかもしれないね、僕の。ごめんね」笠木は俯いて言った。


 確かに服からは居酒屋の匂いと、口元からは若干の酒の匂いがした。


「写真は友達が撮れって言ったんだ」笠木は言った。


 高倉は念押しした。「そんなに不安なら職場のタイムカードの写真見せるよ」撮る事も見せる事も本当は規律違反なのだが。


「じゃあ、見たい」笠木は上目遣いで言ってきた。


 身長差があるから自然とそうなるのは分かるが、涙目で上目遣いをされ、高倉は余計きまり悪さを感じた。


「分かったよ。月曜に写真に撮れたら撮って来る。撮ったら見せるから」高倉は笠木の肩を優しく掴んで言った。


 笠木は安心したようだった。「連絡待ってるから。先にシャワー浴びて来たら?有理君汗ばんでる」


 確かに汗ばんでいた。もう十一月だから冷えているはずなのに、急いで帰って来たから汗でワイシャツの襟元が濡れている気がした。


「じゃあ先に入らせてもらうよ」高倉は笠木のふわふわの頭をぽんと軽く叩き、洗面所へ向かった。


 高倉は洗面所の中に入って扉を閉めると、ため息をついた。

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