第六章 混沌

 このラブホテルは札幌中心街から少し離れたところにあるので、駐車スペースがあり重宝している。


 ホテルの名前は「レイトクイーン」。晩年の女王、または遅れてきた女王蜂か。なんと歪な名前なのだろうかと毎回思う。


 運転席の助手席に座って酔って眠そうにしている小柄な黒髪の女を見た。先程までこの女、名前は葵というらしい。その葵と、すすきのにあるバーで飲んでいた。


 葵という名前の漢字は花の名前だよと言われて覚えた。あおい科の花は複数あるが、ゴジアオイという花言葉は「私は明日死ぬだろう」と言うらしい。


 不吉な名前だから葵の祖母は気に入らず、名付けた母を良く思っていなかったらしい。母は姓名判断の結果が良かった事と、葵の姉の名前と並べても良い響きだからと名付けたそうだ。が、その後何度も、祖母に会うたびに改名を勧められたと葵は言っていた。


 良い名前だと高倉は褒めた。葵は響きがとても良くて可愛らしい名前だと。


 確かにあおい科の観葉植物のように、観賞用としては見ていて可愛らしい容姿をしていた。細身で小柄、セミロングの黒髪ストレートを斜めに分けて、大人しそうな顔に綺麗に整えた薄化粧が映えている。小さな唇に乗せた赤いリップがまた良い。特に派手な服装をしているわけではなかったが、大人しいながらも毎回短めのタイトなスカートなど、どこか色気のある服装をしていた。


 “あおい”という名前は高倉の小学校の同級生にも居た。よく話しかけてくれたが、ある日を境にして嫌いになった人間と同じ名前だった。


 葵は既婚者だった。初めて会った時から左手の薬指に指輪をはめている事に気付いていた。


 高倉がカウンターで一人飲んでいると、向こうから声を掛けてきた。最初は二人組で違う方の女が声を掛けてきたのだが、そのうち葵と二人だけで飲むようになった。


 葵に連絡先を最初に聞かれたが、高倉は自分の連絡先を教えたくなかった。だから、こうして会う時は事前に何日の何時にどの場所で、と約束を交わした。二人で会う事は内緒だよと伝えた。


 古いやり方だが、現代の文明の利器に頼らない昭和的なやり取りに、この葵という女は興奮したようだった。


 くだらない話や愚痴に何度も付き合い、高倉は適当に葵の喜びそうな言葉を掛けてあげた。葵は家庭に不満を持っているようだった。誰にも言えずに抱えていた不満を打ち明け、葵は自分の返答に大変満足しているようだった。


 葵とは数回会い、一度ホテルに行っていた。


 今日は酔った葵を連れて、今度は車でラブホテルまで連れてきた。高倉は今日一日ノンアルコールで過ごす時間が苦痛だった。


 葵には今日は車を運転するからと伝えていた。葵も何かを理解したようで、大人しく一人で飲んでいた。


 葵はかなり酔っていた。葵が甘い酒が好きと聞いていたので、今日はカルーアミルクの美味しい店を調べて頼ませたのだ。カルーアミルクやファジーネーブルなどは一見飲みやすい甘い酒だが、アルコール度数が五~八パーセントもする。


 葵は酒にあまり強くなかった。今日はかなり酔っていたので、アルコール中毒になり途中で倒れないか心配になったが、支えてやれば自力で歩けるようだった。


 ラブホテルの駐車場に車を停め、高倉は被っていたキャップを深く被り直し、助手席から葵が出る手伝いをした。ここのラブホテルは駐車場のすぐ後ろが部屋になっているから、運ぶ労力はそんなに必要なかった。


 葵は「橋本さん、ここどこぉ」と笑いながら言う。自分でも分かって付いてきた癖に何を言う。丈の短いタイトなスカートに、頬を赤らめて酔って歩く姿は水商売の女のようだった。


 部屋の中に葵を連れ込み、ソファーに横たわらせた。荷物は面倒だったので葵のものは車の助手席に全て置いてきた。葵はその事に何も触れてこなかった。


 葵は本当にかなり酔っていたようで、着いたら酔いが醒めるだろうかと考え、さらに何か軽めのアルコールを飲ませようかと思考していたが、すぐにソファーで横になってしまった。


 高倉は酔っている葵を他所に会計を済ませた。


 ここのラブホテルの部屋は内装が凄くシンプルで、床は黒いタイルが敷き詰められており、光沢が出ている。窓には細かい花柄のような模様の施されたブルーの厚みあるカーテンがかかっている。そのカーテンは現在閉められており、外の光が入らないようになっている。奥にある白いダブルベッドが一番目立つ。


 部屋に入ってすぐ目の前には、今葵を寝かせた柔らかそうな二人掛けの茶色いソファーが置いてあり、その前に小さなガラステーブルがある。ガラステーブルの上にはラブホテルの冊子や、ホテルのカード作成のチラシのようなもの、灰皿と、ホテルの名前の入ったライターが置いてある。


 周囲にある薄暗いオレンジ色のライトが、怪しげに部屋を全体的にほんのり照らしている。奥にはラブホテルによくあるスロット機が場違いなように端に置いてあった。


「今水あげるから、ちょっと待っててね」高倉はホテル備え付けの冷蔵庫から水を買う為に、財布から百円を取り出した。


 最初はこの冷蔵庫を見た時、面白くて見入ってしまった。

 一見普通の小型冷蔵庫だが、中を開けると小分けにされたプラスチックの箱が冷蔵庫の中に広がっており、各箱の中には酒や水などの飲料水、下の方にはバイブレーターやローション等が入っていて、それぞれの金額に応じた小銭を一番上にある小銭投入口に投入し該当のボタンを押すと、箱の扉が開き、中の品が出てくるシステムになっている。


 葵は目を瞑りソファーに横になっている。


 高倉は部屋の食器棚に備え付けで置いてあったガラスコップにペットボトルの水を少し注ぎ、自分の着ていたジャンパーのポケットのジッパーを開け、中から小さい袋を取り出した。袋の中身は睡眠導入剤を粉薬状に砕いたものだった。それを水の中に入れ、軽く混ぜる。中の空っぽになった袋をまた自分のジャンパーのポケットに戻し、ジッパーを閉めた。


「はい、水飲んで。楽になるよ」高倉は葵の肩を少し揺らし、上半身を優しく支えて起こさせ、水の入ったコップを葵に手渡した。


 葵は一気に水を飲んだ。「ありがとう」礼を言われた。


 高倉は前回聞いた質問と同じ質問をあえてしてみた。「何で不倫なんて興味あるの?」


「だからー、旦那がずっと出張してるし…多分あいつも不倫してるだろうから…」葵は目の据わった顔で答えた。


「そうなんだ。大変だね」高倉は何も考えずに返答し、葵の頭を軽く撫でた。


 葵は嬉しそうな表情をしてそのまま眠りについた。


 高倉はソファーに横たわり眠っている葵をしばらくそのまま観察していたが、完全に眠ったように見えた。高倉はゆっくり、葵を起こさないように、葵の身体を介抱する形で抱え込み、ベッドではなく部屋の玄関に向かった。


 料金は先に支払ってある。大抵のラブホテルは途中退室が難しいが、このホテルは宿泊設定にすると料金の前払い制になっているため、途中退出をする事が出来た。


 駐車場の防犯カメラの位置は分かっている。高倉は被っていたキャップを深く被ると、部屋の扉を開けた。そのまま酔った葵を介抱する姿勢で前かがみに下を見つめながら歩き、助手席に葵を座らせた。その後自分も運転席に乗り込む。


 車を発進させながら、CDをつけた。ピアノ演奏のクラシック音楽がかかる。


 曲名はフランツ・リストの「愛の夢」だ。

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