第五章 懐疑

 笠木は勤務している書店で本の品出しを終えると、仕事の合間にトイレへ向かった。個室に入った。


 店の制服であるエプロンのポケットに入れたスマートフォンを取り出し、内容を確認した。先程バイブレーションが振動したからだ。


 高倉から遅れて届いたチャットの返信を見て落胆した。


 いつも返信が遅いが、こんなギリギリの時間に会えないと連絡をしなくてもいいのにと思う。笠木はあと一時間弱で今日の仕事は終了だ。今日もてっきり高倉の家へ行けると思っていたので、今日の夜ご飯は何を作ろうかなと考えていたところだった。


 最近は仕事が落ち着いて来たと言っていたのにと、笠木は悲しくなった。先月は二度しか笠木は高倉に会えていなかった。


 笠木はチャットで友人に連絡を取るために、友人とのチャットのページを開いた。

その友人との文章の最後は「いつ飲みに行く?」で終わっていた。


「今日仕事終わったら飲みに行かない?」笠木はその友人である伊藤にチャットで連絡をした。

 急な誘いだから無理かなと笠木は思ったが、そのチャットはすぐに既読になったので、笠木はしばらくスマートフォンの画面を見つめていた。


「何時に仕事終わるの?」伊藤からの返信は短文だった。


「十八時」笠木はあまり時間が取れなかったので、伊藤よりも短文で返信した。すぐに既読になった。


 伊藤は普段パチンコ屋で働いているが、今日は非番だと昼間のチャットで聞いていた。


「了解。今狸小路に居るから、待ち合わせすすきの駅でいい?」伊藤からチャットが届いた。


 笠木は「OK」と笑顔の顔文字付きで返信をすると、急いでスマートフォンをエプロンのポケットに戻し、トイレの個室から出て、本の梱包作業を行うために裏の事務所へと向かった。






 笠木は仕事を終えると、チャットで待ち合わせ場所を確認し、札幌駅へ向かった。

笠木の勤めている書店は札幌駅のすぐ横にあった。


 駅前の地下鉄入り口に入り、階段を降り、札幌地下鉄南北線に乗車した。南北線はこの時刻、帰宅ラッシュでいつも通り混雑していた。


 笠木は早番の日が好きだった。十六時に終わるため地下鉄は空いているし、高倉と会う準備をするのに丁度良かった。


 笠木は大通り駅を通り過ぎて、すすきの駅で降りた。四番出口へ向かい、出口付近にある太い支柱に目を向けた。支柱に立って寄り掛かりながら、スマートフォンを片手に見ている伊藤を見つけた。


 この時間ここは待ち合わせスポットになっているので、人が多かった。支柱に寄り掛かり誰かを待っている人は他にも数人居た。


 伊藤は普段からよく着ている黒い革ジャケットに青いジーンズ姿で待っていた。体をよく鍛えており、身長が百八十センチ近くあるので大柄に見える。長髪で堀の深い濃い顔立ちが目立っていた。だが中身は美容に気を付けている女子力の高い男だという事を笠木は知っていた。


「お待たせ」笠木は伊藤に近付き、声を掛けた。


「久しぶり」伊藤は持っていたスマートフォンをジーンズのポケットに入れて顔を上げた。「三日ぶり?」


「三日ぶり」笠木は思わず笑って伊藤に言った。「どこ行く?」


「俺最近出来たピンチョス食べれる立ち飲み屋行きたい」伊藤は笑って言った。「ピンチョスって量少ないからダイエットに良さそうじゃない?」


「いいよ」笠木は歩き出した伊藤と並んで駅の構内から出た。


 すすきの駅四番出口から出て、すぐ目の前に見える大型デパートの前を笠木は伊藤と一緒に歩いた。デパートの前は人混みが激しく、歩いていると人とぶつかった。笠木は痩せ型だったので、体格の良い男とぶつかった際によろめいた。


 ぶつかった際に、着ていたジャケットのポケットの中に入れたスマートフォンが落ちていないか、ポケットの中に手を入れて確認した。スマートフォンはポケットの中に入っていた。


「大丈夫?」伊藤は苦笑いしながら笠木を振り向いて言った。


「大丈夫」笠木も苦笑いした。高倉と歩いている時は、何故か周囲が若干距離を置く事を思い出した。


 笠木は伊藤の後を追って人混みを掻き分け、大型デパートを通り過ぎ左に曲がり、怪しいネオンの光る裏路地へと出た。ビルの横に飛び出ている看板に怪しい店名が光っている。


「すすきの病院」――ピンクの看板に可愛らしいフォントで書かれた看板を笠木は見た。ここを通るたびに目に入ってしまう。こんな病院があるわけがないと思った。飲食店やバーも何件かあった。


「この辺の店は俺達とは縁遠いよね」伊藤は病院の看板を見て苦笑いして言った。


 伊藤もゲイだった。ゲイバーで知り合ってからよく飲みに行く間柄だったが、伊藤にも交際している相手がおり、その交際相手の事でよく相談に乗っていた。伊藤はこう見えてもゲイで言うところの“受け”だ。彼氏は束縛性だそうだ。


 少し歩くと、伊藤が「ピンバー」と書かれた、ビルの一階にある小綺麗な白と茶色の建物に近付いた。表は大きなガラスが木製の枠で縁取られている壁が並んでいて、中がよく見えるようになっている。


 ガラス越しに数人カウンターに立っている後ろ姿が見えた。そんなに広い店ではなかったので三、四人が肩を寄せ合って立っている様は狭く見えたが、二人分は入れる余裕が見えた。


 伊藤と笠木はのれんをくぐって店の中に入った。中は喫煙が可能なようで、煙草の煙と揚げ物の匂いなど、居酒屋特有の匂いが立ち込めていた。


「いらっしゃいませ」カウンターに立っていた背の高い男性の店員がこちらを見て言った。男性店員も高倉のように中性的な綺麗な顔立ちをしていた。店の中は女性客が多く、男性客は一人だけだった。伊藤と笠木がカウンターの端に並ぶと、店員がメニュー表を渡して来た。


「カルーアミルクにする?」笠木は伊藤に聞いた。


 二人ともカルーアミルクが好きだった。


「うん」伊藤は頷いた。


「カルーアミルク二つお願いします」笠木は店員に言った。


「カルーアミルク二つですね。かしこまりました」店員は笑顔でそう言うと、ドリンクを作りに裏へ向かった。


「そういえばさ」伊藤は笠木の方を向きながら小声で話しかけてきた。「例の裏アカ気付いたら消えてたよね。消してって頼んだの?」


「ああ、あれね。有理君に相談したら、SNSの運営に問い合わせてくれたんだ。そしたらすぐに消えたよ」笠木は伊藤に言った。


「ああ、あの顔の良い男ね。長く続いてるよね」伊藤は何か考えながら言った。


 伊藤には以前高倉の写真を見せた事があった。高倉は写真に撮られる事を嫌うので、数枚しか写真はなかった。


「カルーアミルクです」店員が二人の前のカウンターテーブルにカルーアミルクを二つ置いた。


「ありがとうございます」笠木は店員に言った。「だけどさ、あれで結構友達減っちゃったんだよね」笠木は小声で伊藤に言った。


「そっか…」伊藤は笠木の顔を同情したような表情をして見ながら、メニュー表を笠木に差し出した。「でも俺等がいるじゃん。今日は奢ってあげるよ。裏アカ退治記念に」


「ええ、いいよ」笠木は苦笑いしてメニュー表を見た。


 俺等とは、ゲイ仲間の事だろうか。笠木は、SNS の裏アカウントを勝手に何者かに作成された後、ゲイである事をネットに書かれたのだ。また、悪口なども書かれており、それを見たゲイではない友人がかなり減ってしまった。


「ピンチョス以外にもあるんだね。でもピンチョスにしようかな。僕これ頼む」笠木はメニュー表の、だし巻き卵の上にチーズやミニトマトの乗った、色鮮やかな一品料理の写真を指差した。


「ミニトマトは食べれるんだっけ」伊藤は笑いながら言った。「創也野菜嫌いなの忘れてたわ。野菜メニュー多くて大丈夫だった?」


「嘘つけ、僕に野菜食べさせようとして連れて来たんでしょ」笠木も笑って言った。


「俺サーモンとレンコンにするわ。すみません」伊藤は店員を呼んだ。伊藤は笠木の分と伊藤の注文を店員に伝えた。


「職場はどうなの」伊藤は店員に注文が終わった後、笠木の方を見てまた小声で聞いてきた。


「最近は皆普通に接してくれるよ。上司の悪口書かれたのも誤解だって解けたし」

笠木はカルーアミルクを飲みながら伝えた。本心ではまだ職場で働く事が辛かったが、今すぐ転職は難しかった。


「創也のスマートフォンさ、最近は動作が遅いとかないの?」伊藤はカルーアミルクを飲みながら聞いてきた。


「ああ、それも有理君に確認してもらって、変なウイルスが入ってたみたいだからスマホ変えたんだよ」笠木は言った。


「その有理って男、ITに詳しいんだよね」伊藤はこちらを見ながら聞いてきた。


「うん、IT系で働いてるから詳しいんじゃない」笠木は言った。「スマホの機種変も僕よく分からないからいつも適当に選んでたけど、有理君が付き添ってくれたら結構良いスペックのを安く選べてさ」


「その男さ、怪しくない?」伊藤はカルーアミルクを飲みながら聞いてきた。


 笠木は伊藤の方を向いた。店員が丁度、二人の注文したピンチョスをテーブルに運んできた。


「ありがとうございます、美味しそう」笠木は言った。「怪しいって、どういう意味?」小声で伊藤に聞いた。


「いや、言葉の通りなんだけど」伊藤は彩り豊かなピンチョスの並んだ皿に手を伸ばして、小分けされたピンチョスに刺さっているつまようじを持ったが、食べようとした手を止めて言った。


「他に創也がその…これ知ってるのって、少ないじゃん」伊藤はこちらを向き、壁側に立っている笠木の方を見て、自身の右手の親指を立てて胸に当てた。これは手話で言うところの“ゲイ”のサインだ。


 笠木は料理を写真に撮ろうとスマートフォンを取り出していた。黙ってスマートフォンを持ったまま、スマートフォンの画面を撫でた。


「有理君に限ってそんな事しないよ。ましてや何のために」笠木は笑って伊藤を見た。


 伊藤は心配そうな表情をしていたが、ピンチョスを食べ始めた。


 笠木はスマートフォンで目の前に置かれた彩り豊かなピンチョスの写真を撮ると、スマートフォンをジャケットのポケットにしまった。笠木が食べようとすると、伊藤のスマートフォンから着信音が鳴った。


「電話だ。ちょっと失礼」伊藤は食べようとしていたピンチョスを皿に置いて、店の外へ出て行った。


 束縛性のある彼氏からの電話だろうか、と笠木は思った。

 笠木はカルーアミルクを飲みながら、背後のガラス張りの窓越しに見える、伊藤の電話をしている姿を見ていた。伊藤は立ったまま困っている様子だった。何かあったのだろうか。


 ふと、笠木はその伊藤の向こう側を歩いているカップルに目が行った。その二人は密着して歩いていた。


 女性は酔っているのか男性に寄り掛かって、男性がそれを支えながら歩いて何処かへ向かっているようだった。その女性は俯いて歩いていたので顔は見えなかったが、代わりに向こう側に居た男性の横顔がはっきり見えてしまった。


 笠木は目が釘付けになり、持っていたカルーアミルクのコップを思わず落としそうになった。

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