オフィスから出て廊下を歩いた突き当りに喫煙所があった。高倉は中を軽く覗く。


 喫煙所のガラスドアの向こう側に、窓側を向き壁に背をもたれかからせ、片手でスマートフォンを見ている男が一人で煙草を吸っているのが見て取れた。


 男は中肉中背の体型に、黒縁眼鏡をかけていた。気だるそうだ。この男は辻井という。


 高倉は辻井が居る事にげんなりしたが、仕方がない。

 辻井は十四歳年上だが自分と同時期に入社し、同じような業務をしているためよく会話をするうちの一人だった。また、喫煙所でよく会うため、もしかしたら社内で一番会話をする相手かもしれない。


 喫煙所の中に入ると、辻井はスマートフォンを見ていた顔を上げてこちらを見た。


「お疲れ様です」二人とも同じ事を言う。


「高倉さん今日のプレゼン良かったね。いつもプレゼン上手いよね。俺プレゼン苦手だからさぁ…そういえばどう、あの新卒の子達は。今日は定時で帰れそう?」煙草を吸いながら辻井は聞いてきた。辻井は新人教育から上手く逃げたうちの一人だ。


「まぁ多分今日は帰れるかと思います」高倉は辻井の横に立ち、胸ポケットから煙草とライターを取り出して吸い始める。残りあと二本だ。


「新人教育、俺は嫌だなぁ。よく引き受けたね」辻井は苦笑いしながら言う。


 新人教育に成功すれば社内評価点が上がりリーダー候補になれるらしいが、高倉は昇進に興味がなかった。この会社に長く居るつもりがなかったからだ。

 辻井も昇進には興味がなさそうだ。


 高倉はマネージャーに、他に候補者がいないと新人教育を押し付けられたのだった。上司の依頼に断れなかった。


「面倒だけど良い子達ですよ、素直ですし」高倉はこの件に関しては何も言いたくなく、無表情で言った。


「そういえば、新卒なのに中途採用で入って来たあの子、この前彼氏らしき男がビルのエレベーター前まで送りに来ていたらしいよ。藤沢さんが見たって言ってた。凄いよね」辻井は苦笑いしながら言う。


「そうなんですか。彼氏いるんですね」高倉は興味もなさそうに言った。


 札幌駅の右隣に位置するこのビルの窓からは、札幌駅の正面が真横から見える。

人が沢山居るのが見て取れる。ここは高層階なので、人がゴミのようだと言うアニメの言葉を思い出した。


 駅前にあるガラス張りの天井吹き抜けのドームが目に入る。ここの周りには特に人が居た。ドームの中と外に椅子があるので、札幌駅の待ち合わせスポットの一つになっている。


 以前笠木と待ち合わせに使用した際に、知らない女性三人組にナンパをされた所だ。知らない人間に急に声をかける人間の度胸は凄いと思う。断られたら傷つかないのだろうか。


「そういえば高倉さんは彼女出来た?」辻井が聞いてくる。


 毎回喫煙所で顔を合わせるたびに何かと女性に関して聞いてくるのだ。


 辻井は既婚者だった。左手の薬指にはめた指輪が光っている。この前指輪をなくして、奥さんに怒られたと言っていたなと思い出す。新しい指輪を買ったのか、見つかったのか。


「だから女性は苦手なんです」高倉は苦笑いしながらいつもと同じ言葉を吐いた。「指輪、見つかったんですか」


「ああ、これ?うん、見つかった。見つかってよかったよー、ほんとに」辻井は苦笑いしながら指輪を見せてきた。


「高倉さんはモテそうなのに勿体ないよ」辻井は他にも何か言いたそうな顔をして高倉を見てきた。


 高倉はその視線が煩わしかった。


 だが高倉は、辻井の目元に若干クマがあり、顔色があまり良くない事に気付いた。今日辻井は午前休を取っていたが、体調が良くないのだろうか。高倉は辻井を見ないように窓の向こうを見ながら煙草を吸った。


「そういえば不眠気味なの、治った?」辻井は高倉に聞いてきた。


 高倉は辻井を見た。高倉は、自分の目の下のクマの事を言っているのは理解した。鬱陶しい質問の一つだった。だが辻井も、人の事を言えないのではないだろうかと思った。


 高倉は辻井と同じ時間の喫煙は避けたかったが、辻井の喫煙所に通う頻度の多さから、どうしても会う事が多くなってしまっていた。


「不眠にホットミルクが良いって前辻井さんから聞いたの試したら、良くなりましたよ。でも跡が残って取れないんですよね。眠れてはいます」高倉は眼鏡のフレームを左手で上げながら言った。


 眼鏡のフレームでクマを誤魔化しているつもりだった。もう少し縁の厚い眼鏡に変えようか、と高倉は悩む。笠木にもよく心配されていた。


 辻井も同様に眼鏡のフレームを左手で上げていた。


「てっきり寝不足が続いているのかと思ったよ」辻井の表情は疑わし気だった。「ホットミルクに蜂蜜もおすすめだよ」辻井は言った。


「甘いもの苦手なんです」高倉は言う。


「そっかぁ…。ああ、そうだ。そういえばさ」目のクマから視線を外し、辻井は話し始める。


 辻井の煙草が二本目に入った。この会社では珍しく、ジッポライターを使っている。奥さんからのプレゼントだそうだ。


 高倉は、辻井がまだオフィスに戻らないのだろうか、と思った。


「マネージャーがさ、毎回会議に出ないから、リーダー経由で全部話を聞いているみたいでさ」辻井は話し始める。


 高倉は他に喫煙所に人がやって来ないか、喫煙所のドアに目を向けた。ここのビルの喫煙所は、このビル内にある他の会社の人間も使用している。いつ他の会社の人間が入ってくるか分からない。職場に関わる事をオフィス外で話す事はタブーだ。勿論社内の人間でも悪口や陰口は災いの元なので、会話をしない事に越したことはないが。


「…で、ちゃんと話聞いてないみたいでさ、内容が分からないって毎回聞かれて時間を取られるんだよね。なんとかならないかな」辻井は煙草を吹かしながら聞いてきた。


 高倉はマネージャーの中西が嫌いだったので、「それならいっそリーダーをマネージャーに皆で推薦してしまえばいいのでしょうね」と言った。


「そしたら今のマネージャーの立場なくなっちゃうじゃん」と辻井は笑う。


 高倉は「帯広に行ってもらうという手があります」と伝えたかったが、止めた。


 帯広にある支店は、最近出来たばかりの支店だが、すぐに人が辞める事で有名だった。なんともハラスメントが普通に横行しているらしい。上司はそれを見て見ぬふりだそうだ。仕事内容も下請けの、あまり成果の出せない仕事ばかりだった。つまりは左遷である。


「まぁ推薦は冗談ですけど」高倉は言った。噂好きな辻井の前で下手な事は言えない。


 辻井は腕時計を見て、吸っていた煙草を喫煙所の灰皿に押し付けて火を消した。


「高倉さんは真面目だねぇ。そろそろ戻らないと。あ、そうだ。今日定時で上がれるならさ、飲みに行かない?」辻井が誘って来る。


「すみません、今日は予定があるんですよ」高倉は申し訳なさそうに断りを入れた。


「ええ、彼女?彼女居ないって言ってたじゃん」辻井は聞いてきた。


「彼女ではないです」高倉は言った。


「じゃあ、今度飲みに行こう」辻井は言った。


「ええ、すみません。また今度」高倉は絶対に行かないと確信しながら、喫煙所から出ていく辻井を見送った。


 高倉は辻井が居なくなった事に安堵をして、パンツのポケットからスマートフォンを取り出して画面を見た。


 高倉はスマートフォンを基本マナーモードでバイブレーションもオフにしているせいか、着信やメールに気が付かない事はざらにある。高倉はスマートフォンが嫌いだった。


 職場用のスマートフォンも持たされているが、二台持ちは本当に面倒くさい。今手に持っているのは自分のスマートフォンだった。職場用のスマートフォンはデスクに置いてきた。どのみち自分のスマートフォンにも連絡が入る事が多いので、二台持ちをする意味が分からなかった。


 職業柄、通信機器を集める事が趣味だったり、パソコンを自分で組み立てる事が趣味だったりする人間が多い中、高倉は通信機器が嫌いだった。


 必要最低限のアプリを複数入れているが、着信やチャット、メール以外は全て通知をオフにしていた。今日も着信と、数件のメール、チャットが届いている。着信は誰からかなんとなく察していたが、スルーした。メールは無視してチャットを開く。チャットは他人からは見えないように内容はアプリを開かないと見えないようになっている。


 履歴は、職場内でのグループチャットの更新履歴の他に、公式アカウントからのチャットが数件、笠木からのチャットが入っていた。自分は職場関係者以外、公式アカウントと笠木しかチャットに登録者がいないのか、と改めて思う。


 まず職場のチャットを見た。次の親睦会の話だ。急ぎの用件ではなくてよかったと胸をなでおろす。大した内容ではないのでスルーする。


次に笠木からのチャットを見る。「今晩も行っていい?」笑顔の顔文字付きでチャットが届いていた。


 届いたのは十二時頃だった。いつも既読や返信が遅いと言われるが、今日は見ている時間があまりなかったので仕方がない。


 高倉は笠木のスマートフォンにこっそり入れた、一見入っている事に気付かれないゴーストアプリのGPSで笠木の居場所を見た。


 高倉は笠木が職場に居る事を確認した。笠木のスマートフォンのパスワードは単純だった。自分の誕生日の四桁の数字だった。しかもチャットアプリにはパスワードさえ掛けていなかった。一度注意しようかと考えたが、止めた。


 高倉はストーカーまがいの事をしている自分に嫌気がさしたが、仕方がなかった。


 笠木からのチャットが嬉しかったが、ふと手を止め、届いていたメールの件数に目を落とす。複数届いているメールの送信者を見て高倉は表情が強ばった。


 笠木に、「今日は残業で遅くなりそうだから難しくなった。また今度でいいかな?ごめんね」とチャットを送った。


 先ほど見ていたメールに返信を始めた。

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