第三章 公正

 札幌南警察署に配属されてまだ二年目の畑山は、目の前の椅子に座った男の話を聞いていた。


 取り乱した様子で警察署の窓口に駆け込んできたこの男を、畑山は二階の廊下の角にある個室に先程通しており、二人きりで机を挟んでいた。


 本当は警察官二人で対応をする予定だったのだが、生憎この日は来客が多く、畑山一人でしか対応が出来なかった。


 男は右手の小指側の手の甲に深い切り傷があり、交際していた女性に包丁で“刺された”と訴えて来たのだ。このような事件は夜に多いが、今はまだ午前十時だった。しかも平日だ。


 男は先程、一度畑山が病院へ行くよう促したので、病院へ行き手当をされていた。香川と名乗るこの男は、酷く取り乱した様子だった。


「これ傷害事件になりますよね。逮捕してください、彼女を。彼女は異常なんです」香川は机の方に身を乗り出して、怯えた様子で畑山の近くで言った。身長百八十センチはあるだろうか。筋肉質で体格の良い男だった。

 

 畑山は自身より身長が高く体格の良い香川を見上げながら話しかけた。


「まずはその女性にも話を聞かなければいけないので、女性の電話番号を教えていただけますか」畑山は香川をなだめるように言った。


 一応机の上に置いてあるバインダーの中には、被害届を用意していた。


 畑山は机の上に置いてある、汚い文字で住所と名前の記載されているメモを見た。この住所と名前は、香川が先程伝えてきた交際相手の女性の住所と名前だった。香川が利き手を負傷していたので、畑山が代わりに書いた。


 畑山は自分の字の汚さには慣れているので、恥ずかしさなどはなかった。業務遂行の為なら乱筆でも構わないと思った。畑山は自身の右手にボールペンを持ったまま、机の上でメモに筆を走らせる準備をしていた。


「住所と名前は伝えたでしょう。警察はすぐに動いてくれないんですか」香川は言った。


「ですから、まずは女性にもお話を聞かないと。ご自宅を伺う事も出来ますが、まずはお電話でお話を聞きます。その後警察署に来てもらうか判断しますので」畑山は言った。「番号を教えていただけますか。私が話しますので」


 香川は自身のパンツのポケットに入っていたスマートフォンを取り出し、その画面を少し操作した後、口頭で番号を語りだした。利き手ではない方の指で触っていたので、時間がかかった。


 畑山はすぐにその番号をメモに記入した。その後畑山は机の上に置いてあるメモとバインダーを片手に持つと、席を立った。


「電話をするので、部屋で待っていてください」畑山は香川にそう言うと、少し扉の開いていた個室から出て、廊下へ出た。個室の扉を閉めた。


 畑山は個室から少し離れ廊下の角の窓際に立ち、周囲を確認すると、自身の着ていたスーツの胸ポケットに入れていた業務用スマートフォンを取り出して、今メモした番号を打ち込み電話を掛けた。


 数回呼び出し音が鳴った後、繋がった。


「はい」スマートフォンの向こう側の女性はか細い声だったが、高くて透き通った聞きやすい声をしていた。


「おはようございます。こちら札幌南警察署です。少しお話を聞かせていただきたいのですが」畑山はなるべく優しい声を出しながら話しかけた。香川の居る個室の方を見ながら電話をする。


「平野美香さんですね?」畑山は片手に持ったバインダーに挟めたメモの名前を見ながら女性に聞いた。


「はい…そうです」平野という女性は怯えていた。


「香川誠司さんという男性をご存じですね」畑山は平野に聞いた。


「知っています」平野は小さい声で答えた。


「今こちらに香川さんがいらっしゃってるんですが、貴女に包丁で手を刺されたと言っておりまして。事実ですか」畑山は聞いた。


「それは…そうですが、私は」平野は声を震わせ始めた。今にも泣きそうだった。


「私は、その、彼に裸の写真を撮られたんです。それで、脅されて。セックスさせないなら写真をばら撒くと言うので、ついかっとなって、包丁を持ってしまって。でも、私は刺したんじゃないんです。包丁を向けたら、彼から向かって来たんです」平野はスマートフォン越しに泣きながら語った。


「私は刺してない…彼が向かって来たから、刺さってしまったんです」平野はすすり泣いて言った。


「それは…」畑山は言葉を失った。


「今事実確認しますので、後程掛けなおしてもよろしいですか」畑山は泣いている平野に言った。


「わかりました。お願いします」平野は小さな震え声でそう言った。


 畑山は電話を切った。


 畑山は、この平野という女性は香川が一人で警察に来ている間、自宅でこの辛さをずっと抱えて警察を待っていたのだろうかと思った。


 畑山は自身の手に持っていたスマートフォンをスーツの胸ポケットにしまうと、個室へ戻った。香川は椅子に座ったまま、不安そうにこちらを見上げた。畑山は香川の前にある机を挟んで椅子に座り、香川の方を見た。


「香川さん貴方、彼女の裸の写真を撮って脅していたというのは、事実ですか」畑山は香川に向かって聞いた。


「それは…」香川は反論したが、畑山の「スマートフォンを見せてください」と言う言葉に黙った。


 香川は気まずそうに自身の左手に持っていたスマートフォンを畑山に差し出した。

畑山は香川のスマートフォンを受け取り、開こうとしたがロックがかかっていた。


「パスワードを入力して中身を見せてください」畑山は香川のスマートフォンを自身の右手に持ったまま、画面を香川に向けて言った。


 香川はスマートフォンに指を伸ばして数字を入力した。数字をタップする香川の指は若干震えていた。タップする指の勢いが強くて、スマートフォンを持った畑山の手が震えた。


「開けました」香川は言った。


 畑山は香川のスマートフォンの待ち受け画面を見た。待ち受け画面は知らない女性の写真だった。食事をしている場面を隠し撮りしたような写真だった。


「写真を確認します」そう言い、写真フォルダを開いた。


 畑山は中身を見て愕然とした。


 フォルダの中身は、ほぼ同一女性と見られる卑猥な写真で埋め尽くされていた。同じロングヘアーの黒髪から、先程の待ち受け画面の女性かと思われた。


「これは平野さんで間違いないですか」畑山は卑猥な写真の羅列をすぐに閉じて香川に聞いた。


「それは彼女が撮って良いと言ったから」香川は困惑した様子で言った。


「彼女は“撮られた”と言っていましたが。それに、脅していたというのなら、強要罪や強制性交罪となります」畑山はつい強い口調で言ってしまった。同僚を呼ぼうかと思った。香川にスマートフォンを返した。


「彼女は少し病んでいるところがあるんです」香川はスマートフォンを受け取って、気まずそうに俯いて言った。「写真を撮らせて良いと彼女は確かに言いました。ですけど、彼女が突然俺を殴って来たり、刃物で脅して来るのが日常茶飯事で」


「彼女が殴って来た?貴方がではなくてですか」畑山は驚いて聞いた。


 つい言葉に出してしまったが、公平さを常に意識しなければならないと自身を戒めていたので、失敗したと思った。だが今電話をしていたか細い声の女性が、そんな事をするように思えなかった。


「そうですよ。俺じゃない。それに刃物を向けて来る理由は、俺がなかなか会えなかったり、気の利いた事を言えなかったりした時にです。今朝もそれで。俺が酷い事してるみたいに見えますけど、彼女相当やばいですよ。だから今回はまじで刺されると思って、咄嗟に手で自分を庇って、刃物を奪おうとしたんです。でも失敗して彼女が追いかけて来たから、こんな事になって。写真を撮って脅したっていうのは、一種のプレイみたいなもんです。彼女もそれに興奮してたし。俺も調子に乗った部分があったのは謝ります。でも、俺だけが悪いんじゃない」

香川は焦って言った。


「この場合は…」畑山は頭が混乱した。やはり同僚を呼ぶべきか、と思ったが、香川が次の言葉を遮った。


「俺も警察に来たのはやり過ぎたかもしれませんが、彼女が怖いんですよ。もう会いたくない。彼女を訴えるとかはしないんで、俺もう帰らせて貰ってもいいですか。別れ話の後にストーカーとかされたら、また来ます」香川は言った。


 畑山は困惑した。


「では彼女さん側にも連絡をしますので、待ってください。あと香川さん、免許証の写真を念のため撮らせていただきたいのですが、本日持っていますか?」畑山は香川にそう伝えると、香川はパンツのポケットに入れていた財布から免許証を出した。


 畑山は免許証を受け取ると、免許証とバインダーを片手に持ち、再度廊下へ出て個室の扉を閉めた。


 畑山は香川を怪しんだが、被害者がどちらか判断がつかない上、このカップルが男女共に被害届を出して来ない以上は、この場合上司に相談をしても内輪揉めという形を取られるだけだろうなと判断した。


 香川の免許証を業務用スマートフォンで写真に収めた後、スマートフォンで平野に連絡を取り、一連の流れを軽く説明した。

「被害届は出されますか」畑山は平野に聞いた。


 平野は一瞬黙ったが、話し出した。「香川さんが訴えないなら、私も訴えません。ただ、写真は消して欲しいです。消すように伝えてもらえませんか」


 それを聞いた畑山は一瞬、この女性が被害者なら確実に訴える話に繋がるはずだと思ったし、この言葉はおかしいと考えた。揉める事が嫌だったのだろうか。


 もしも香川の言う事が本当だとしたら、畑山は二人の関係性を想像し、「この男にはもう会わない方が良いですよ。貴女の心身の健康の為にも」と言いたくなったが、職務上言えなかった。


「分かりました。では写真を削除するよう伝えます」畑山はそう伝え電話を切った後、また個室へ戻り席に座って、香川と向き合った。個室の扉は念のため、少し開けた状態にした。


「平野さんは写真を消してくれるなら、被害届を出さないとのことです。写真を今私の目の前で消してください。あと、今後万が一写真が世間に出て訴えられた場合は、再度お話を聞く事になると思うので、バックアップなどもないよう、全て消してください」畑山は香川に伝えた。


 香川は「分かりました」と言い頷き、目の前でスマートフォンを触り始めた。


 写真を削除しているのだろうか。


 畑山は香川を帰らせる前に免許証を返そうとしたが、個室の外から聞こえてきた男の怒鳴り声に、香川に免許証を返そうとしていた手が止まった。


「だから痴話喧嘩じゃないって!」男の声は廊下に響き渡っていた。

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