男は目を瞑りしばらく思考すると、長いため息を吐いた。先ほどの一瞬の幸福感を味わいながらも、突如訪れた空虚感を感じていた。


 男は遺体の顔を見ないように、片手で遺体の頭を支えながら、反対の手で首から急いでロープを外す。

 遺体は失禁していた。湿った土の上から匂いで分かった。

 失禁した体液に触れないようにゆっくりと移動し、遺体の顔を見ないように顔を背けながら、遺体をその場に仰向けに横たわらせた。


 男は立ち上がった。男は着ていた黒いレインコートを軽く整えながら、近くの山道に駐車してある車に戻った。

 ロープを片手に持ったまま車のトランクのドアを開け、中に積んでいた大きな鞄を肩に背負い、少量の灯油の入ったポリタンクを取り出す。

 それを抱え込み、遺体の傍まで戻った。鞄とポリタンクを地面に降ろす。勿論失禁していない辺りに降ろした。


 鞄を開けると、中にはゴム手袋、ハンマー、バーナー、ハサミ、燃えないゴミ袋用の半透明な袋と、スキーをする際に使用するゴーグル、医療用マスク、小型の持ち運び用消火器、農芸用に使用されている粉末剤の詰められた大きな袋が入っていた。粉末剤のせいか鞄は重かった。


 男ははめていた皮手袋を外しロープと共に鞄の横に置いた。


 男はゴム手袋を取り出し、二重に手にはめた。ゴム手袋はすぐに処分出来る代わりに耐性が弱いため、二重にはめる。


 次に自分の身に着けていた眼鏡を外し、度入りのゴーグルに付け替える。すぐに口元を覆るようにマスクを耳にかけ顎に乗せた。これから処理に取り掛かる。


 まずは仰向けに横たわらせた遺体の服を脱がせた。死後硬直が始まる前に器用に衣類を脱がす。特に下着が厄介だった。脱がせた後はゴム手袋を変えなければならなくなる。


 女の荷物は全て車の中にある事は確認済みだが、念のため再度遺体の履いていたスカートのポケット等を漁る。

 女のスマートフォンは事前にここまで運んで来る途中に電源を切り、コンビニのゴミ箱に捨てておいた。


 衣類は井戸の近くに置いてあったドラム缶の中に放り投げた。男は尿で汚れた表面のゴム手袋を一枚新しいものに付け替えた後、ポリタンクを取りに行き、ドラム缶の中に灯油を少し垂らした。


 鞄の元へ戻り、中からバーナーを取り出し、ドラム缶の中に入った衣類の表面に少し離して火を付けた。衣類は燃え上がり、煙が上がった。


 よく考えると、衣類は最初に脱がせゴミ回収ステーションに持って行った方がエコになるのではないかと感じるが、その間に女が起きても困る。尿の付いたスカートを持っていても匂うだけだし、遺体と一緒に処分するのが一番効率良い。


 そうしている間に男は遺体の元に戻り、手に持ったバーナーで遺体の指紋を焼き始めた。

 右手の親指から先に焼いていく。周囲に肉の焼ける匂いが漂った。左右の指、足の左右の指と、指先を全て焼いていく。


 男はその作業が終わると、鞄の元へ行き、中に入っていた半透明のゴミ袋を二重にして遺体の上半身に被せた。


 ハンマーを握りしめ、頭上に掲げ、振り下ろした。ゴミ袋越しに遺体の顔を殴りつける。

 最初はがんっと骨に当たる音が響いたが、段々血液を含んだ音に変わる。

 ぐちゃっぐちゃっ。

 何度も何度も殴りつける。歯形や顔が分からなくなるまでだ。この作業だけは毎回面倒だったが、後々遺体が発見された際に誰の遺体か分からなくするためだ。


 この山は男の所有する土地なので、誰かに見つかった場合は自分が怪しまれる事は理解していたが、そもそも私有地の立ち入り禁止札の掲げてある山奥の土地に無断で入って来る人間などいない。


 男は事前に鉄板の蓋を開けておいた井戸にゴミ袋で包んだ遺体を引っ張っていき、ゴミ袋ごと井戸の穴の中に放り投げた。


 女は小柄だったが、持ってみると遺体はそれなりに重かったので、八十センチ程の井戸の外壁を超えさせるのは少し苦労した。

 何よりも生きている人間ならまだしも、遺体を持ち上げる事が嫌だった。遺体に対しては嫌悪感さえあった。人間なら当たり前の反応だろう。


 男は鞄の元に戻り消火器を手にし、先ほど燃やした衣類が完全に燃えてなくなった事を確認してから、消火器で火を消した。


 遠くから野犬の吠えるような音がし、男は辺りを見渡した。この辺りは滅多に野犬などは出ないが、熊は北海道の山のどこに生息していてもおかしくない。


 男は急いで鞄の元に戻り、マスクを口元に付け、農芸用の粉末剤の袋を取り出した。

 ハサミで袋に切れ目を入れた後、急いで井戸に戻り、井戸の上から静かに粉末剤を撒いた。急ぎたかったが、粉末剤が舞うためなるべく静かに入れなければならない事に、男は苛立ちを感じた。


 これは遺体の匂い消しだ。

 粉末剤が目に入った場合は失明の危険性があるため、ゴーグルは必須だった。袋の中身が空になるまで井戸の中に粉を入れ終えると、袋を井戸の中に投げ捨てた。


 男は鉄板の蓋を持ち井戸の上に被せる。蓋を握るゴム手袋の中が汗で湿っているのが分かる。蓋は重かった。額に貼り付いていた汗が地面に落ちた。


 全てが終わった後、男は自分のレインコートやゴーグルの周囲を払いながら鞄の元へ歩いて行き、ゴーグルとマスクとゴム手袋を外し、鞄の元に置いてあった眼鏡を身に着けた。


 最後に着ていたレインコートを脱ぎ、犯行に使用した全ての道具をゴミ袋に一気に詰め込んだ後、そのまま鞄に押し込んだ。


 男は先ほどより軽くなった鞄とポリタンクを手に持つと、周囲を一瞥して急いで車に戻った。トランクを開け車の中に荷物を全て入れ、運転席に戻る。


 酷く汗をかいていたので、車の中に置いてあったグレーのハンカチで顔を軽く拭いた。慣れたものだがあの一連の動作、この季節だ。レインコートとゴーグルとマスクで中に着ていた長袖は汗で体に貼りついていた。男は深呼吸をすると、運転席のホルダーからスマートフォンを取り出した。スマートフォンで何かを確認する。


 車の窓を少し開けた。外の空気は先ほどより少し涼しく感じた。


 男はニコチン中毒のため、頭痛を和らげるために煙草を取り出した。親指と人差し指で煙草をつまみ、煙草を吹かしながら車を移動し始める。


 助手席に置いてある女性の荷物を一瞥した。これは後でゴミ回収ステーションに持っていこう。


 男はふと、自分がまだ額から汗が流れそうになっている事に気付く。

 男は車を一旦脇に止め、履いているジーンズのポケットからハンカチを取り出し、顔を軽く拭う。ふとバックミラー越しに後ろを見つめる。誰もいない。


 一瞬煙草の煙が目に入り、沁みた。


 瞬きを数回して、涙ぐんだ目を拭う為に眼鏡を外すと、ふと立ち上がる煙を目で追った。今夜は満月なのだろうか。月がぼやけて光って見える。星は見えない。男はそんなに視力が良くないため、目を細めながら月を見た。

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