第42話 少女と静寂

 紫苑の亡骸を抱え、一人倖亜は荒野に戻ってきた。

 青い星、地球。しかし今は灰色というのが正しい。

 トランペッターは倖亜を下ろした後、ずっ、ずっ、と地面にその身体をめり込ませていった。

 その巨体は枯れ木のように、地面に埋まっていって、やがて見えなくなった。後には戦艦が踏み潰した、巨大な痕がついている。

 終末戦艦は大地に還ったのだ。トランペッターは青い地球と共にある。時が来れば、また輪廻の旅人たちか、セカイを死に導く。

 その時、人々にまた絶望を与えるのだろう。二度と目にすることはないと思いつつも、倖亜はトランペッターへの、ひいては神への憎しみを抑えられずにいた。

 宇宙をわたり、何度目かの大気圏突入時にもずっと倖亜は紫苑に寄り添っていた。暖かさを失った身体は、もはや目覚めることはない。倖亜は泣き続け、水分の抜け出た身体がミイラになるのではないかとさえ思った。


 彼女の周りに倒れている人々。彼らは人間ではない。次々に起き上がって、おお、と声を上げる。

 赤い星から転移してきたテリオンたちは、信じられないといった顔で空を見上げている。

 曇天が晴れ、雲の隙間から陽光が差し込み、セカイは明るさを取り戻しつつあった。

 もう、過酷なセカイで生きなくてもいいのだ。

 トランペッターの跡地から歩いてきた倖亜に気づき、口々に感嘆の言葉を漏らす。


「倖亜様だ……」

「倖亜様」

 人々は倖亜にひれ伏した。

 数千年もの間報われることのなかったテリオンが、再び青い地球を支配できるようになった。それは全部、倖亜が紫苑を殺したからだ。民衆もそれは知っている。


「倖亜様、ありがとうございます!」 

「人類の魔王を倒されたのですね!」

「勇者、倖亜!」「勇者、倖亜!」「勇者、倖亜!」

 民衆のボルテージは上がり、段々と荒野は祭りのような活気に包まれていく。

 それらの歓声が、倖亜にはひどく耳障りだった。

 親友を殺したのに、なぜ感謝されなければならない。

 自分は悲しんでいたい。

 テリオンも人間もどうでもいい。こんなセカイ、間違っている。


 思わず倖亜は叫んでいた。

「やめてっ!」

 耳をつんざくような声が響いたとき、大衆はしんと静まり返った。


 倖亜に近づいてきたテリオンがいる。その者は、酷く怪訝そうな顔をしていた。

「どうなされたのです、倖亜様……」

 倖亜は潰れそうな表情で相手を見る。

「英雄だとかそんな言葉で、私と紫苑の関係を汚さないで!」

「何を言ってらっしゃるのです……」

「いいから、誰も近寄らないで!」

「倖亜様の抱えていらっしゃるそれは、揚羽蝶の人間ではありませんか? 魔王の死体は、我々が処理……」

「紫苑に触るな!」

 ぎりっと倖亜は相手を睨みつけた。

 相手がぞっとしたのは誰にでもわかる。それほどの殺気だった。

「テリオン……もう二度と私に関わらないで。私の前に二度とその顔を見せてみなさい。全員叩き斬ってやるわ」


 ざっざっと紫苑の遺体を抱えたまま去っていく倖亜を、人々は無言で見つめていた。

 倖亜の心の中を知るテリオンは、誰もいない。

 興奮がすっかり冷め、誰もが新天地で自分のやるべきことを探して散っていった。

 倖亜を称える者も、思い出す者ももはやいないだろう。


   ・ 


 どんな動物もいないと思える、急峻な山を倖亜は羽ばたいて上っていく。

 できれば誰も到達できない場所が望ましいと倖亜は思っていた。

 倖亜は紫苑の亡骸を、山奥の湖まで持って行く。

 しばらく飛んでいると、カルデラのような場所に出た。

 その中心に水が溜まっている。元々油絵の題材になるような、美しい湖だったのだろう。冬を迎えた寂しさが漂っていても、お姫様が休憩に訪れるような気品がその場から発せられている。今は緑が枯れているが、やがて春が来れば芽吹き、目に鮮やかな光景が広がるのではないかと思えた。


「紫苑……ここなら、あなたも満足するわよね」

 倖亜は降下し、紫苑を運んでいく。

 そして湖に半身を浸し、倖亜は紫苑の亡骸を水に浮かべた。

 ゆっくりと紫苑の亡骸は沈んでいく。魂が抜けているとわかっていても、倖亜は遺体から手を離すのを惜しんだ。

 ようやく決心が付き、手を離すと、紫苑は深い場所に流れていってやがて見えなくなった。


 紫苑はここで眠る。誰も近づけない、倖亜しか知らない場所で。


 湖から上がって、濡れそぼった身体が風に吹かれる。


 我慢できず、うっうっと倖亜は泣き出す。

 大粒の涙が、膝を折った彼女の大腿に落ちていった。寒さなどどうでも良くなるくらい、彼女は悲嘆に暮れていた。

「私だって……私だってできれば、あなたとずっと一緒にいたかったわよ……。殺したい、壊したいと思ったのは本当だけど、私自身気持ちを抑えられなかったの……。ああすることがセカイに、二人にとって最良、のはずだった。でも結局、誰かが不幸にならなければならなかった……」


 そして倖亜は、フネスが言っていたことを思い出した。

 紫苑と倖亜の魂は輪廻転生を繰り返し、何度も出会う。魂が確かに存在している。

 それならば、今生の別れでも、来世で出会えるだろう。


「紫苑。今度会うときは、もっといろんな話をしましょう。いろんな世界を見ましょう。私はその前に、やることがあるから……」

 倖亜は紫苑の消えた湖を一瞥して、モルフォ蝶の翅を広げて一人去っていった。

 

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