第43話 少女と子供たち
「ママ、あたしね、飛べるようになったんだよ! 見てて! ほめて!」
少女が得意げに言う。
荒野の広がる荒れ果てたセカイで、母親らしき人物に少女は向き合っていた。その少女はテリオンで、揚羽蝶の翅によく似た翼を持っている。
精一杯少女はジャンプする。荒野の端は海で、ざざん、ざざんと波音が立っている。何度かジャンプした後、翅の動かし方がわかったようで少女はふわりと空中に浮いた。
「上手ね……シオン」
母親らしき女性は手を叩く。えへへ、とシオンと呼ばれた少女ははにかんだ。
その二人を遠巻きに、もう一人の少女が見つめている。母親はその子供に振り返った。
「ユキア。あなたもいつか、飛べるようになるといいわね」
「飛べるわよ。だって私、お姉ちゃんなんだもの」
ユキアと呼ばれた少女もまた、翅を持っていた。モルフォ蝶に似ているが、宝石のような美しさはない。
「ユキア、強がりー。でも飛べなくても、あたしが手を引いてあげる」
「そんなの必要ないわよ、シオン。私は自分で飛びたいの」
「なんでー?」
「シオンと並んで飛びたいからに決まってるじゃない」
「それって告白? 告白?」
「ちがうわよ!」
きゃっきゃと触れ合う子供たち。その光景は微笑ましい。
しかし、くすんだシオンの翅を見て、母親はぽつりとつぶやいた。
「紫苑のものとは違う。あの子の翅は揚羽蝶だった……」
母は俯く。
彼女の顔は、はっきりと過去を悔やんでいた。
「ママ、何を言ってるの?」
どこか憂いを秘め、常に暗い顔をしている母を娘は覗き込むように見た。
シオンがこちらを見ているのに気付いて我に返り、母親は娘に弁明する。
「ごめんなさい。なんでもないわ」
「ママがよく言うその紫苑って、あたしのことじゃないの? 同じ名前の、別の人?」
「なんでもないのよ。本当に、なんでもないのよ……」
母親は再び俯く。そして自嘲するように言った。
「嫌だ。また私、嘘ついてる……」
母は泣き出した。彼女の涙腺は、どういうわけかゆるいのだ。まるで過去に、大切な人と別れ、それを忘れられないようだった。
「ママ。落ち込まないで」
シオンとユキアは母に寄り添う。母はそんな二人の肩を抱いて、うっうっと泣いた。
「ママ、泣き虫さん……」
ユキアが言うと、シオンは姉をたしなめるように言った。
「ママも寂しいんだよ。ママが身寄りのないあたしたちを拾ってから、十年になるんだよ。あたし、何か恩返しがしたいなぁ。ユキアもそう思うでしょ?」
「私も、シオンみたいに早く飛べるようにならないと。町へ出ても恥ずかしくない、ママみたいな綺麗なちょうちょになりたいわ」
「ふふっ……」
母は涙を拭い、薄く笑う。
「あなたたちが元気でいてくれることが、最高の親孝行よ。これからもずっと、姉妹仲良くしていなさい。ずっと、ずっと……」
「心配しなくても、ユキアお姉ちゃんと離れたりなんかするもんか」
シオンとユキアは顔を見合わせて、「ねー」と笑う。
母親もつられて笑ってしまった。
「そうね。仲がいいのはいいことだわ」
一転、母親の顔に陰りが見える。
「でも……私は、そうはなれなかった。大好きな人を守れなかった。どうしようもなかった。ああする以外に、私もあの子も救われなかったの」
シオンは頭に疑問符が浮かんだようだ。
「大好きな人? それって男の人?」
母はかぶりを振る。
「いいえ、女の子よ」
「ママ、女の子が好きだったんだ」
「性別じゃない。私はあの子だから好きだったの。あの子はぽっかり空いていた私の心を埋めてくれた。でも、結果的にそれが彼女を苦しめた。だから終わりにしたの。私の手で」
「どういうこと……?」
「あなたたちが知る必要はないわ。それはあなたたちには残酷すぎる真実だもの」
過去にトランぺッターが撒き散らした有害物質は時間が経って変質し、緑を育てる肥料になった。これなら、トランぺッターが通った後に人間が集まるのも納得がいく。
テリオンが青い地球の支配者となって十年が経過しようとしていた。生き残った者たちの中で人望のあるリーダーを中心として、新しい社会が成立した。
いずれ文化も形を取り戻していくだろう。もはや獣の姿に変化することもない。
一方で、荒れ果てたセカイでの生活のままのテリオンもいた。
おぉ……ん、と、夜になると野犬のような声がする。
闘争本能を忘れられないテリオンが、狂暴な野生動物となり闊歩しているのだ。
あたりは薄暗くなりつつあり、今日もまた野生のテリオンの声がする。
「ママ……怖い……」
「大丈夫よ。悪い奴が来たら、ママがやっつけてあげますからね」
「えへへ。ママ、頼りがいがあるぅ」
すぅすぅと、安心しきった顔でシオンとユキアは眠る。町から離れた洞窟に寝泊まりする仮の親子は、原始人同然の生活をしていた。
この子たちを育て終わったら、どうしようか。
母は思う。
この子達を拾ったのは、自分のエゴに他ならない。寿命が来るまで寄り添えなかった紫苑への憧憬。
だが、そうせざるを得なかった。まるで片腕を失ったように欠けた心の埋め合わせ。それには時間がかかったのだ。
しかしこの子達の寝顔に、かつての自分たちを重ね合わせ、幸せがそこにあることに満足感を覚えているのも嘘ではなかった。
かつて愛し合い、傷つけあった自分たちの幸せが、この子達に回ってきますように。
母はそう願った。
・
そして、さらに四年後。
子供たちもずいぶん大きくなった。もう手を焼かずに済むだろう。あの姉妹はお互いに助け合って生きている。かつて、紫苑と倖亜が夢見た未来を、彼女たちは歩んでいる。そう母は思う。
海岸に立っていると、一羽の蝶がひらりと母の目の前を舞った。それはクロアゲハで、紫色の筋が翅を走っている。
クロアゲハは誘うように、海に向かって飛んでいった。
母はそれを、紫苑が呼んでいると思った。今が再び輪廻の旅に出るときなのだと。そう言われていると感じた。
「今、行くわ。紫苑」
母親は『自分の翅』を広げた。
青く美しい、モルフォ蝶の翅だった。
母親は、いや音無倖亜は、翅を広げて海の向こうを目指して飛んでいく。
天高く。どこまでも高く。
次のセカイで待っている紫苑に巡り合うため、彼女は飛んでいくようだった。
モルフォ蝶の翅は陽光を反射し青空に光っていたが、やがて小さくなり、見えなくなった。
・
「ママ……ママぁ……」
シオンは母を探して泣いている。
砂浜のどこを探しても倖亜の姿が見当たらないのだ。
何も言わず娘たちの前から倖亜は消え去ってしまった。親代わりを失った悲しみで、シオンの顔はくしゃくしゃになっていた。
「ママぁ……どこ行っちゃったのぉ……」
一方、シオンと並ぶユキアは冷静な顔をしている。
そして、静かに言う。
「ママはね、会いに行ったのよ」
へっ? とシオンは姉を振り返った。
「誰に?」
「一番好きな人に」
「あたしと同じ名前の、紫苑って人?」
「多分ね」
シオンは遠くを見る目になった。寂しそうな表情が少女に浮かんだ。
「ママ、あたしたちよりその人のほうが大事だったんだ。だから一人で、あたしたちを置いてっちゃったんだ」
「それは違うわ。ママは、自分が幸せになれなかったぶん、誰かを幸せにしたかったのよ。きっとそれはママの自分勝手だったけど。でもそうじゃなきゃ、親に捨てられた私達は死んでたじゃない」
そうかな、とシオンは言った。そうよ、とユキアは言う。そうだね、とシオンは涙を拭った。
ユキアは彼女に微笑んで言う。
「私たち、ずっと一緒にいましょうね」
「……うん」
シオンとユキアは手を握った。
彼女たちの前に太陽が昇って、二人を祝福するように陽光を投げかけた。
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