第22話 少女とディープキス

 倖亜はうきうきしている紫苑を追いかけつつ、その背中の小ささを感じていた。

 揚羽蝶の翅は紫苑の儚さを表しているようだ。彼女には危うい箇所が多い。思想の不確定さ、常に周囲に流される脆さ。今の彼女には『真実』を受け止める余裕があるとは思えない。

 街角にあるカフェが目に留まる。クリームをイメージしたピンク色の看板は、いかにもな少女趣味を思わせた。

「メイド喫茶……だって」

 紫苑が看板の文字を読み上げる。ややあって、紫苑は倖亜を振り返って促した。

「入ってみようか」

 別にこうした店に苦手意識はない。倖亜は頷き、二人で店に入った。以前ブティックに二人で入ったときのことを倖亜は思い出した。


 しんとした店内。内観もまた少女趣味が表れており、クロスを引いたテーブルが並んで、可愛げのある調度品がそれを彩っている。

 奥に行くと、ロッカールームに従業員が使っていた制服など一式揃っていた。クローゼットに入ったメイド服は、まだ着ることができるほど綺麗だった。

「これ、あたしも着れるかな……」

「翅が干渉するから、エプロンだけならいいんじゃないかしら」

 紫苑は興味を示したようだ。可愛らしい制服はさぞ紫苑に似合うだろうと倖亜は思う。

 紫苑は制服を抱きしめ、目を輝かせながら倖亜に向き直る。

「じゃ、あたしがメイド役やっていい? ユキはお客様……じゃなかった、ご主人様、いや、お嬢様で!」

 お嬢様。王宮でそう呼ばれていたことを倖亜は思い出した。そう呼んでくる相手は使用人、執事などだった。自分の生活を縛る彼らは常に高圧的で、倖亜としてはその呼ばれ方は好きではなかった。が、今はそうでもない。紫苑に悪意がないのはわかりきっているからだ。

「悪くないわね。準備ができたら呼んでね」

 倖亜はそさくさと店の前に出ていき、紫苑の支度が終わるのを待った。


「お待たせしました、お嬢様ー!」

 快活な紫苑の声。倖亜が店内に入ると、着替えた紫苑が待っていた。

 コートを脱ぎ、代わりにミニスカート風のエプロンをつけた紫苑は、小柄な身体が制服によく似合っている。

「さぁ、おあがりくださいませ!」

 倖亜は窓際の席に案内され、そこに腰かける。窓の外に見える風景は灰色一色だった。

「本日は何になさいますか?」

 こうして食事の世話をされていると、倖亜は王族での暮らしを思い出す。

 あの時は息が詰まるような感触を覚えたものだ。世話をされているというよりは管理されている、といった感覚に近かった。しかし紫苑の屈託のない笑みは、そのトラウマを払拭するのに十分だった。

「そうね。パンケーキをお願いしようかしら」

「かしこまりました! 生クリームたっぷりでお届けします!」

 たたたっと紫苑はキッチンに戻っていく。

 さて、何が出てくるのか。倖亜は少し考えてしまった。


 少しして、紫苑が皿を持ってくる。その上には何も乗っていない。

「お待たせしました!」

 空の皿を差し出され、倖亜は少し困惑してしまった。

「えっと、この後は……」

 その先を続けるのは少し恥ずかしいようだった。皿の上で、紫苑は指でハートマークを作る。

「おいしくなーれ、もえもえ……きゅんっ!」

 羞恥心を押し出すように紫苑は言う。

 その愛らしさに、倖亜はきゅっと締め付けられる感触を覚えた。


 ままごとを終え、紫苑と倖亜は店から出る。

「楽しかったわね……」

「ちょっと恥ずかしかったけどね」

 店の前に小さな映画館があった。紫苑はぱあっと顔を輝かせる。

「次はあそこ行こうよ! 恋愛映画とか、あるかな!」

 映画館に駆けていく紫苑の背中を、倖亜はじっと見つめていた。

 その小さな肩を見ると、抱きしめたくなる。なんと可愛らしい生き物なのだろう。


 そして同時に、脆く儚い彼女を壊したいとの衝動も浮かび上がってくるのだ。


   ・


 人のいない映画館では作品など、当然ながら上映されていない。

 まず二人は映写機のある部屋に行った。そこで作品のフィルムを見つけ、勘で映写機にセットする。

 スイッチを入れるとフィルムがくるくると回り、シアターに投影された。


 スピーカーが壊れているらしい。映像は流れても、音声は全く聞こえてこない。まるでトーキー映画を見ている感覚だった。音がないだけで登場人物たちの動きがどこか滑稽に見える。

 内容はラブロマンスであるが、主人公とヒロインは両方とも女性だ。戦争が起こるずっと以前、性の多様性が謳われていた時代がある。この映画も、そうしたムーブメントの中で生まれた作品の一つなのだろう。


 紫苑は音のない映画を見ながら、心臓がどきどきするのを感じた。

 すぐ隣の席に倖亜が座っている。手を伸ばせば彼女の細い手に届く。日々、そんなチャンスはいくらでもあった。しかし、暗く落ち着いた空間で、肌と肌が触れあいそうな距離にいることの特別感は何物にも代えがたい。


 結局手を握れないまま、映画はクライマックスを迎えた。

 女性同士のキス。それは繊細で、男女の愛とは違ったものを感じる。

 紫苑は倖亜と、そうなれたらと思った。

 倖亜を見ていても、自分を振り返っても、お互いに壊れやすいのはわかっている。だからこそ、互いに壊れないように触れ合いたい。

 映画自体はあまり面白くなかった。ただ延々とデートシーンを映しているのみで、伝えたいものが不明瞭。だが、人生とはそんなものかもしれない。普通の人間の日常を切り取った。ただそれが、女性が好きな女性という点で普通の人とは少し違うというだけだ。


 映画館を出て、しばらくぼーっとしていると、「どうしたの?」と倖亜が訊いてくる。

 紫苑は、今しかない、と思った。

 彼女に自分の本当の気持ちを伝えるのだ。

「ユキ」

 紫苑は覚悟を決め、倖亜に向き直る。

「キス、しよっか」


 倖亜は無言で紫苑を見つめ返し、やおら言う。

「……いいわよ」

 拒絶されなかったことに、紫苑は解き放たれるような安心を覚えた。


 二人は両手を互いに繋ぎ、顔を近づけていく。

 倖亜の形の良い輪郭。長いまつげ。瞳には紫苑の顔が映っている。

 紫苑の心臓の高鳴りが最高潮に達した。キスの直前、紫苑は目を瞑ってしまった。


 やがて自分の唇が人肌に触れる。倖亜の薄い唇は、思ったより柔らかかった。

 しばらくふたりはそうしていた。

 灰色の世界で、向かい合った揚羽蝶とモルフォ蝶の翅がゆっくり、閉じたり開いたりしている。


 この時間が永遠に続けばいいのに、と紫苑は思った。

 しかし、至福の時は唐突に終わりを迎える。


 不意に、舌先にじんわりとした痛みを感じる。

 紫苑は火照った頭がさあっと冷えていくのを感じた。

 舌先に広がる鉄の味。これは血だ。

 紫苑は唇を離し、自分の口を押さえる。指先に血がついた。血は、紫苑の口の中から流れていた。


 倖亜に舌を噛まれた。

 脳が理解を拒否する。が、それは紛れもない事実だ。


「ごめんなさい。私、キスは初めてで。つい力が入っちゃったみたい」

 倖亜が言う。彼女の舌が、ぺろりと唇を舐めた。その目はとろんとしている。

 まるで紫苑の血を賞味しているかのようだ。

 紫苑はどこか恍惚を含んだ倖亜の表情に、彼女の深淵を垣間見た。

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