第20話 少女と初めての恋
紫苑は少し前から、体の芯が熱くなるような感覚を覚えていた。
自分でも不思議なことに、倖亜と一緒にいると心臓が高鳴るようになっていた。これまでも一緒にいたのに、この妙な感情は何だろう。
『お前にも、好きな人ができるといいな』
ヤマガミの最期の言葉。あれから紫苑は、自分が誰を好きなのか考えるようになっていた。
好きな人。恩人。自分を導いてくれる人。
常に自分の前を歩いている人。紫苑が島から出て、広い世界を知るきっかけになった人。そしていつも綺麗で、底知れない魅力を放っている人。一緒にいて退屈しない人……。
それに当てはまる人物は、一人しか思いつかない。
だが、そんな理屈はどうでもよかった。紫苑ははっきりと、倖亜が好きだと言える。
今までも好きだと思っていた。しかし今は違う。心が倖亜を求めている。
彼女の細い指先が、人形のように繊細な顔つきが好きだった。
触れれば壊れてしまいそうな、そんな独特な雰囲気がある。常にミステリアスで、多くを悟らせない。そんな彼女の胸の内を覗いてみたい。それは尽きない興味として紫苑の中で膨れ上がっていた。
あの薄い唇はどんな感触がするんだろう。触ってみたい。キスしてみたい。
倖亜は自分をどう思っているんだろう。きっと嫌いではないはずだ。
もし好きだと言ったら、どんな反応をするだろうか。そして、付き合ってくれるだろうか。
そこではたと紫苑は思考の袋小路に迷い込んだ。
女同士で付き合うって、どういうこと?
あたしたち二人がここに存在して、友好的な関係でいる。それは今までと何か変化があるの?
倖亜は紫苑の視線を感じて、彼女に振り向く。
「何を見ているの?」
そのきょとんとした顔に、紫苑はあわてて視線を彼女からそらした。
「べ、別に……」
倖亜は不思議そうな顔をする。紫苑の頬は少し火照っていた。
関係の変化。それは恐れるものではないのかもしれない。そう紫苑は思うようになっていた。
この深海のようなセカイでも、二人並んで歩いていると落ち着く。厳しいセカイでも、一人じゃないとわかる。
紫苑はそれが嬉しかった。
これがずっと続くとわかれば、他に何もいらない。
それだけでいい。
二人の周りには、灰色の壁の建物が立ち並んでいる。
旧市街。かつて人類が栄華を誇っていた地。大都市だったらしく、インフラがあちこちに見えた。路肩に泊まったまま停止したバス。もはや動くことのない鉄道。
その範囲は広く、一日や二日歩いた程度では町の中心にたどり着けない。大通りに沿って二人は延々と歩いている。
ターミナルの前の広場に差し掛かった時、きっと昔はここで大勢の人が職場や学校に向けっていたのだと思わせるものがあった。大勢の人間が通るのに合わせた広さがあった。だが、もう人間たちは戻ってこないだろう。かつては人々の生活があった。だが、紫苑がそれを知ることはきっとないのだろう。
人気のない土地を歩きながら、紫苑は二人だけの時間に浸っていた。
島にいるうちは寂しかった。人間が自分しかいないと思っていた。それでも、今は隣を歩く倖亜がいる。これはこれで悪くない。
爆撃を受け荒廃した町。空は夜を迎え、真っ暗だった。赤い星の横側から、星々が襲い掛かるように頭上で光っている。凍り付いた時間を二人で歩きながら、紫苑はやはり、隣を歩く相手の存在を感じずにいられなかった。
元は繁華街だったらしい場所に出る。大通りに門が立っているが、根元がへしゃげ傾いていた。直す人間などいない。
紫苑は知らなかったが、ここはかつて原宿と呼ばれた市だった。カップルや友人連れで連日にぎわい、吐き気がするほどの人混みができていた。戦争を経て、彼らはどこに行ったのだろう。
食べ物の屋台、服屋があちこちにある。ショーウィンドーは割れ、中にあったものは取られていた。おそらく火事場泥棒でもいたのだろう。
それでもここがデートスポットだった雰囲気だけは残っている。
紫苑はどうしても倖亜に言いたいことがあった。怪物が出没する時代で道楽を楽しむ暇はない、ということはわかっている。だが、倖亜に伝えられるのは今しかない。そんな気がしていた。
「ねぇ。ちょっとだけ、いいかな……」
きゅっと紫苑は倖亜の手を掴む。
倖亜はまた、意外そうな顔をした。
「急にどうしたの、紫苑?」
その先を言うのは勇気が必要だった。声を張り上げるように紫苑は言う。
「デート! したいの!」
倖亜は目を見開く。紫苑は倖亜の瞳をじっと覗き込むようにした。紫苑の顔は、真剣だった。
「デート? 誰と?」
「ユキとに決まってるじゃん!」
「……私と? 私とデート?」
「だから、それ以外にないって!」
「……本気? 本気で言ってるの?」
紫苑はうっと言葉に詰まる。
「……ごめん。そんな場合じゃ、ないよね。あたしたちには使命があるよね……デートなんてしてる暇、ないんだ」
倖亜は慌てて取り繕う。
「そうじゃない。そうじゃないの、紫苑。自分を責めないで。私が悪かったわ。少し待って。私が気持ちを整理するから……」
倖亜はしばし考えて、答える。
「……いいわよ。紫苑。まず、どこに行きましょうか」
その倖亜の顔が少し笑っていたことに、紫苑は安堵し、喜んだ。スキップを踏むように紫苑は歩き始めた。
・
両想い、と言うにはあまりにも歪すぎる。
倖亜は紫苑に本音を隠したままなことに罪悪感を覚えていた。
自分がデートを了承したときの紫苑はとても嬉しそうで、子犬のようにはしゃいでいた。それが一層倖亜の胃を痛めつける。
自分と紫苑は殺し合う運命。それを回避するために倖亜は奔走している。
友達を殺すのは嫌だ。倖亜には友達と呼べる者は今までいなかった。
しかし、紫苑がいてくれることで倖亜は心の重しが軽くなったように感じる。彼女がいるだけで癒されるのだ。
紫苑は人懐っこく、可愛らしい。子犬や子猫を手の中で愛でる感覚に近い。それでいて倖亜を思いやってくれる。
誰かといるのは心地よいと倖亜は初めて思った。
だが。
紫苑がもし真実を知ったら、どうなるだろう?
自分が隠している真実はとても残酷で、心優しい彼女には耐えられないかもしれない。テリオンと人間の戦争。その行く末が自分たち二人にかかっていると知ったら。
紫苑はきっと自分が好きだ。自分も紫苑が好きだ。倖亜には今後の懸念がある。
紫苑は自分のすべてを知らない。果たしてそれは、本当の『好き』と呼べるのだろうか?
全部が解明されても、きっと紫苑は許してくれる。そうならないために二人は旅をしているのだから。でも、他人と言う深淵の底を知ることなどできない。紫苑は辛いことがあっても我慢してしまう子だ。
倖亜には他人がわからない。もし自分が下手を打てば壊れてしまう関係。
手の中に納まる子犬や子猫は、少し力を入れるだけで骨が折れ、死んでしまう。
しかしそれは、同時に気持ちの良いこと……。
倖亜はかぶりを振って、一瞬よぎった考えを取り払おうとした。
決してそんなことはすまい、紫苑を悲しませたくない、と思い直し、倖亜は必死で破滅的になる衝動を諫めていた。
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