第4話 少女は旅立つ

 狼男の上半身と下半身は別々になり、どんっと砂浜に落ちた。

 砂の上に夥しい血が流れる。が、すぐ灰色の砂は吸い取ってしまった。

 狼男は虚ろな目をぎょろりと回し、ぐえっと一声鳴いて息絶えた。


 倖亜は瞠目し、紫苑を見つめていた。

 裸の紫苑は夢を見ているような顔で、狼男の傍らにゆらりと立っている。

 その手には倖亜が持っているものと同じ、ビームの刃がある。生まれ変わったばかりの紫苑の肌は赤子のように穢れがなかった。


 夢から覚めたように、紫苑は目をぱちくりさせる。我に返ったようだ。


「ユキ、あたし……どうしたの?」

「紫苑っ!」

 倖亜は我知らず紫苑を抱きしめていた。


「ユキ、つめたいね」

「紫苑はあったかいわ」


 二人の肌が触れ合った。その温度差に、二人ともなぜか笑ってしまう。


 それから、紫苑は自分が裸なのに気づいたようだった。羞恥心はなく、どうしようと思っている程度らしかった。


「あたし、いつ服脱いだっけ?」

「そのままじゃ風邪をひくわ。これでも着なさい」


 倖亜は自分の黒いコートを紫苑に掛けた。コートは背中部分がくりぬかれており、蝶の翅に干渉しない。

 紫苑が自分の翅に気づいたのは、その時になってようやくだった。

「なぁに、これ。ユキのと同じような翅」

「それは……病気みたいなものよ」

「あたし、病気になったの? ユキも病気なの?」

「それは……」

 倖亜は言い淀んだ。

 本当のことを伝えるわけにはいかない。


 紫苑は人類を代表する、救世主たる揚羽蝶だ。倖亜は確信した。そして、伝説では青い翅を持つ倖亜と未来永劫生まれ変わりつつ、殺し合うことになっている。

 人類の代表とテリオンの代表がここに揃っている。もし自分がここで紫苑を殺せば、自分の使命は終わる。


 しかし、そんな気分にはなれなかった。倖亜は自分が誰かを殺すためだけに生まれたなど、思いたくなかった。それに、紫苑は大事な友達だ。

 倖亜は紫苑に嘘をつくことにした。嘘をつくことに倖亜は抵抗はない。


「大したことのない病気よ。紫苑、身体に違和感でもある?」

「言われたら、そんなことはないよ」

「でしょう? その程度の病気なのよ」

「でも、あたしが蝶みたいになるなんて……」

「むしろお洒落だと思うわ」

「そうかな……」

 紫苑は倖亜を見る。倖亜の背中にもモルフォ蝶の翅がある。それを見た紫苑は、頷いた。

「うん。お洒落かも」


 紫苑が楽観的な性格でよかった、と倖亜は思った。

 紫苑が人間というものに疎いことも幸いした。


 もし自分がここで紫苑を殺さなければ、世界がどうなるか知っている。

 遺跡にある超兵器が目覚め、人間とテリオンの世界を破壊する。そうなれば最悪だ。


 倖亜は一つの結論に達した。

 それならば、自分たちが殺し合わない未来にすればいい。

 倖亜はもとよりそのつもりで地球に来たのだった。


   ・


 紫苑は背中の翅をつまんで引っ張った。肩甲骨から伸びた翅は自分の肉体の一部になっていて、触ると感覚がある。

 ひらひらと少し動かしてみた。驚くほどスムーズで、前の自分に翅がなかったことの方に違和感を覚えるほどだった。


「紫苑、この島から出ましょう」

「えっ?」

 急な倖亜の提案に紫苑はたじろぐ。


「島から出て、あたし何すればいいの?」

「ある『場所』に行って、この世界の理不尽の象徴を破壊するのよ」

 紫苑は意味を理解しかねた。

 倖亜は自分の知らないことを知っている。それはわかるのだが、倖亜はあえて伏せていることでもあるらしい。


「ユキが言ってる象徴って、つまりどういうものなの?」

「詳しく説明しても、きっと理解できないと思う。だから、それを壊さないと世界が破滅する、ってだけ知ってればいいわ」

 スケールが大きすぎて紫苑には到底納得できない。倖亜が急に変なことを言い出した、としたほうが説明がつく。


 紫苑はほっぺをつねってみた。痛い。夢ではない。さっき襲ってきた狼男のほうを見た。やはり狼男の死骸は砂浜にあった。


「夢だと思う? でもこれ、現実よ」

「そうみたいだね」

 んー、と紫苑は頭を掻いた。倖亜は畳み掛けるように続ける。


「旅に出ましょう。私達の未来を掴み取るための旅を」

「でも、あたし、他の場所で暮らしたことなんかないよ。島から出てやっていけるかどうか……」

「もう、あの商人はいないのよ。島に残ってたって生きることはできないわ」

 うっ、と紫苑は言葉に詰まった。


 外の世界は未知数で、怖い。しかし島にいても未来はない。

 それならば島から出るべきだ。倖亜は外の世界から来たのだから、少なくとも自分より物事を知っているはず。

 倖亜と離れたくないのもあり、紫苑は提案を飲んだ。


「……あたし、ユキについていく」

 その時倖亜が心底ほっとしたように見えたのは、紫苑の見間違いではなさそうだった。


「でも、どっちに向かって行けばいいの?」

「あっちよ」

 倖亜が指差す。どんよりと曇った空の下、水平線の先には何も見えなかった。

「ユキ、適当言ってない?」

「言ってないわよ」


 紫苑は訝しげに倖亜を見る。倖亜はまっすぐ紫苑を見返し、「信じて」と言った。

 正直なところ、紫苑はわからないことだらけだったが、一つだけ言えることがある。


「……あたしには、この世のことがよくわからない。でも、昔からそうだったのかもしれない。あたしが自分から世界を知ろうとしなかっただけなのかも」

 自分の殻を破るのは今だ、と紫苑には漠然とした予感があった。

 そう、と倖亜は頷いた。

「私がこれから色々教えてあげる」

「よろしくね、ユキ」

 倖亜は薄く微笑んだ。


   ・


「肩甲骨を開くような感じで……そう、その調子よ」

 うまく飛べない紫苑の手を引き、ふわりと浮遊しながら倖亜は促した。

 何度か失敗した後、どうにかして紫苑は空中に飛び立つ。

 あやふやな軌道を描きながらも、なんとか紫苑は空中に留まっている。


「やればできるじゃない……これから海を渡るわ」

「ええっ、いきなりそんなの無理!」

「難しく考える必要はないわよ。飛ぶのって、意外と疲れないし」

 倖亜はずっと紫苑の手を握っている。


「私が先に行くから身を任せて、翅を動かすことだけを考えて」

「う、うん……」

 倖亜は優雅に、無駄のない動きで舞い上がった。

 紫苑は倖亜の手を掴みながら、必死でそれについていく。


 曇天と鉛色の海の狭間に、揚羽蝶とモルフォ蝶は飛んでいた。

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