第3話 少女は羽化する
狼男に貫かれた紫苑の身体から血が滴り落ちた。
信じられない、といった顔で紫苑は自分の胸を見つめていた。
爪が突き立てられている胸から、だくだくと血が溢れている。自分の身体にこんなに赤い液体が詰まっていたのか、と思うほどの量だった。
狼男はにやにやと笑っている。
ずるっと爪を紫苑から引き抜き、爪に残った血を美味そうに舐めた。
あどけない少女を強姦したような、下卑た愉悦が狼男の顔に広がった。
紫苑は虚脱の表情でその場に崩れ落ちる。
何が起きたのかわからなかった。
顔見知りの商人が、突然怪物になった。
そして自分を襲った。
予想すらしなかった底知れない悪意に、紫苑は戦慄する。
商人の口ぶりから、以前より紫苑を狙っていたに違いない。そして実行に移したのが、たまたま今日だったというわけだ。
なんで自分が、こんなところで死ななければならないのか。
生きるとか死ぬとか、紫苑は今までろくに考えたことがなかった。ただ漫然と日々を送っているのみだった。
倖亜が来てからは生活が楽しかったな、と思えた。それも短い間だった。
死ぬという実感はまだない。
ただ、妙な寒さが彼女を襲っている。
肌寒さより心の寂しさ、といったほうが正しい。急速に周りの風景が遠ざかり、耳がごうと鳴る。
倖亜がこちらに飛んでくる。モルフォ蝶の羽を広げて。その手には光の剣が握られている。
その理由を考える余裕は、紫苑にはもうなかった。
紫苑の身体は地に落ち、紙屑のようにくしゃりと倒れた。
彼女の目から徐々に光が失われていく。
「あたし……死ぬんだ」
最期の言葉は、自分でも呆気ないと思えた。
・
音無倖亜は焦っていた。
テリオン族。人類を敵視する遺伝子が、自分たちの中に流れている。本来であれば自分も人類を憎むべきだった。
しかし、倖亜にそれはできない。
紫苑の屈託のない笑み。あれを思い出すと、今まで押さえつけられていた自分のすべてが許されるような気分になった。
あの笑顔を奪った男が許せない。
「あんた……」
狼男は倖亜を見て、驚きの表情をした。
テリオン族の代表たるモルフォ蝶。それが自分に向かってきている。
狼男にしてみれば、それこそ意味が分からなかっただろう。敵対種族の人類を殺すなど、テリオンにとっては一切罪ではないからだ。
狼男は紫苑の亡骸を蹴飛ばした。紫苑の身体は人間とは思えない角度で折れ曲がり、ぐしゃぐしゃになりながら血の残滓を灰色の空中に描いて、倖亜の後方に頭から落ちた。
紫苑の亡骸が落ちるべしゃっ、という音は倖亜の耳に強烈な不快感を残す。
「はああああああっ!」
倖亜は憤怒の表情で光の剣を構え、突進した。
殺す。殺してやる。
義憤だろうか。自分勝手な怒りだろうか。
生まれて初めて芽生えた明確な殺意。倖亜はそれに突き動かされ、狼男に刃を向ける。
狼男は困惑しながらも、倖亜に爪を向ける。
いかに自分たちの運命を左右する相手であろうとも、今は自分を守ることが先決だ。
狼男が剛腕を振るったとき、ドガッと倖亜の細い身体は弾き飛ばされた。
倖亜の身体が宙を舞う。
ざりりっ、と浜辺の砂を巻き上げ、倖亜は倒れている紫苑のすぐ横に滑っていった。
はっと、横にいるのが紫苑だと気づいた倖亜は、その胸に手を当てて紫苑の意識を確認した。
紫苑の顔は眠っているように目を閉じている。その顔には苦痛はない。
だが倖亜が驚愕したのは、人間の身体を保っていない紫苑にぬくもりを感じたことだった。
「生きてる……?」
紫苑の心臓は確かに鼓動を続けていた。
ここまで凌辱され、へし折れた身体では考えられない。
紫苑の心臓は生命力の証。まだ紫苑は死を迎えていない。
みるみるうちに、紫苑の肉体は変わっていった。
かさぶたができるように、蛹へと変わっていく紫苑を呆気に取られて倖亜は見つめる。
「もしかして、この子……」
その意味を知った時、倖亜は更なる戦慄に包まれた。
目の前で起きていることが夢でないのなら、自分と紫苑は殺し合う運命にある。
・
紫苑の心臓は鼓動を止めてはいない。
まだ自分が生きるべきだとわかっているのだ。
そして、壊れた人間としての自分の身体を捨て、新たなステージに進むための進化を始めた。
紫苑の亡骸は内部組織から、その構造を変えていった。
今まで何の変哲もない人間だった彼女の身体は、戦闘に最適化されたものへと変貌していく。
幼虫から蛹へ。
蛹から蝶へ。
紫苑の身体は硬化し、表面をキチン質の装甲で覆っていく。
その蛹の中で、燃えるように更に紫苑の身体は変わっていく。
どろどろにすべての組織が溶かされ、再構成されていく。
それは不死鳥の復活のようでもあった。
めきめき、と自分の蛹の中から紫苑は腕を突き出す。
ばりばり、と蛹を剥がして、紫苑はよみがえった。
裸の紫苑は古く歪な身体を捨て、白皙の肌を持った少女となる。全身からは薄く体液が滴る。
短く刈った髪はそのまま、中性的な印象を与えるみずみずしい少女の顔となっていた。生まれたままの身体にはみすぼらしい印象など、ない。
そして背中にはくしゃくしゃの布のようなものがまとわりついていた。
くしゃくしゃの布は徐々に輪郭を持ち、ぴんと伸びた。
それは紛れもなく、揚羽蝶の翅だった。
狼男は紫苑の翅を見て狂ったように吼えた。
揚羽蝶の翅を持つ人類。それはテリオンの仇であるからだ。
紫苑は向かってくる狼男に掌をかざした。
紫苑の掌から剣の柄が飛び出し、紫苑がそれを握ると、ビームの刃が顕現した。
紫苑はかがんで、光る刃を構える。
そして向かってくる狼男に一閃した。
狼男の上体はぐらりと揺れ、下半身と別々になって砂浜にごろりと転がった。
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