鬼の章

第1話 少女とモルフォ蝶

 少女、杠紫苑は今朝も灰の海岸を歩いていた。

 海岸には様々なものが流れ着く。海の向こうでは戦いが続いている。戦争のごみが、鉛色の海を漂ってここに終着するのだ。


 遠目にはクジラと見紛う、真っ二つになった巡洋艦。なにかの燃料を入れていたらしきドラム缶。銃らしきものの部品。

 傷ついたそれらは、戦争の激しさを物語っていた。どこかで核兵器も使われているらしい。時折大砲のような爆発音で紫苑は目を覚ます。戦争で流された血と廃棄物は大地を、海を汚し、地球は灰色の星になってしまった。


 どんな戦いが起こっているのか、誰が何と戦っているのか紫苑は知らない。海に浮かぶ小島で生まれ育った彼女は、海の外の世界を知ろうとも思わなかった。


 島の住民は、紫苑を除いて両親含め皆死んだ。原因不明の病で医者もおらず、次々に倒れていった。紫苑はそんな彼らの死に顔を覚えている。満足して死んだ者は、誰もいない。


 紫苑は一人の生活を寂しいとは思わなかった。十年もこの生き方をしているせいで、感覚が麻痺したのかもしれない。


 紫苑は浜に流れ着いたものを集めて生計を立てていた。月に一度、この島に商人が来る。島に流れ着いた資材と、食べ物や消耗品を物々交換してくれるのだ。

 特に新品に近い武器は高値で売れるらしく、商人はそれらを持ってくると喜んだ。ただ、紫苑は食料と水さえ貰えれば何でもよかった。


 集めたものに比べて交換してもらえるものは雀の涙だ。日持ちする乾パン、塩素の味がする水を一ヶ月分。それでも紫苑は、それを蓄えに生活できている。細身の少女一人が生きるのに、豪華なものは必要ない。


 お化粧、衣服などに気を遣う生活は、紫苑とは完全に無縁だった。そういうものに憧れたときもあったのだが、自分の置かれた状況を考えて「無理だな」と思ったのだった。

 

 紫苑は空を見上げた。彼女が生まれたときと変わらない風景がそこにあった。


 真っ赤な海に覆われたもう一つの地球。

 十四年前に出現した異世界。あの星にも人間が住んでいるという。地球と衝突するわけではなく、空を占めるほどの位置で止まっているようだ。


 あれが空に現れてから、人々の生活は変わったという。栄華を極めた人類の文化が破壊され、あっという間に世紀末の世界になってしまったらしい。

 紫苑は自分が生まれる前の世界を知らない。だから前の時代から生きている人々が今どんな思いなのか、知る由もない。

 しかし今の世界が、途轍もない境遇にあることは疑いようがなかった。


 今日もまた資材を集める日々。ルーチンワークも慣れたもので、もはや疲れることはない。ただ拾って、あばら家に溜めておく。それだけだ。


 ふと紫苑は、視界の隅に青く輝くものを見つけた。


 それは大きなモルフォ蝶の翅だった。


 海岸に止まっているように、翅が短い間隔で開いたり閉じたりしている。サファイアのような青が、灰色の世界でただ一つの色彩のようだった。

 その翅の下には、黒いコートを着た人間がいた。

 紫苑は驚き、それに駆け寄って抱き起こした。

 

 黒コートの人物は、紫苑とそう変わらない背格好の少女。右肩に三つ編みの髪がたれており、その黒髪は艷やかだ。

 白磁の肌。薄い唇。女性らしさに溢れた少女は海水に濡れているため、より色っぽく見える。


 少女は眠っているように目を閉じている。まさか死んでいるのではないかと思ったが、胸に顔を近づけると鼓動を感じた。気を失っているだけのようだ。

 とりあえず、家に運ぼう。

 紫苑はそう思った。


 少女は水を吸ったコートを着ていても、驚くほど軽かった。

 ここに野ざらしにしていては本当に死んでしまう。紫苑は他人を見捨てることなどできない。

 少女を担いで、紫苑は我が家へと戻っていった。


   ・


 音無倖亜が目覚めたとき、建物の穴を通して吹いてくる海風と、背中にごつごつした木の感触を感じた。

「起きた?」

 不意に横から声をかけられ、倖亜はびくっと肩を震わせた。

 

 倖亜の傍らには、ずたぼろのシャツとハーフパンツを身に着けた、痩せこけた子供がいる。髪を短く切り、男の子か女の子か判別に少しかかった。


 にっと傍らの子供が笑う。その笑い方から、倖亜はこの子が女の子だとわかった。

「あなた、名前は? 私は杠紫苑」

 紫苑の声は透き通るような声だった。見た目に似合わず綺麗な名前だな、と倖亜は思った。


「私は音無倖亜」

 おとなしゆきあ、と紫苑は小声で反芻する。


「綺麗な名前だね」

 そう紫苑は言った。


「何か食べる? 乾パンくらいしかないけど……」

「いいえ。いらないわ」

 倖亜は申し出を断った。

 テリオンという種族は、食事をあまり必要としない。地獄のような環境に適応進化したテリオンは、最低限の栄養で長く活動できるのだ。


「あなた、どこから来たの?」

 紫苑が訊く。

 倖亜は上体を起こした。

 そして、上を指差した。

 紫苑はそれに倣って上を向く。

「上のセカイ?」


 紫苑は少し考え込んで、それからぷっと笑った。

「まさかぁ。あんな星に、人間がいるわけないじゃん」

 人間。その言葉は、紫苑がテリオンではないと自分で言ったようなものだ。

 であれば。

 

 自分はこの少女を憎むべきなのだろう。


 人間とテリオンは相容れない種族、表の地球を巡って争う存在だからだ。

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