我が家のわく子さん
灰崎千尋
懺悔
あっ、と声を上げた時には、もう遅かった。
私がうっかり衝突してしまった相手は思ったよりも随分勢い良く床へ転がっていき、バキッと悲痛な音がした。
恐る恐る状況を確認する。
本体は損傷無し。飛んでいったのは蓋だけ。しかしそれを手に取るよりも前に、白い欠片が目に入ってしまう。絶望的だった。冷えた手で蓋を拾った。つるりと丸いはずのその輪郭が、無残に割れてしまっていた。
「わく子さん……」
その場にへたり込んだ私は、彼女の名を力なく呼んだのだった。
『わく子さん』は、電気ケトルである。
我が家独自の愛称というわけでは無く、れっきとした商品名で、正式には『蒸気レス わく子さん』という。名前のイメージの通りにその姿は芋っぽく、寸胴で、昨今の小洒落たデザイン家電とは一線を画す、昔ながらの白物家電の雰囲気を纏っていた。もちろん、色は白。
わく子さんとは、私が結婚した時からの付き合いになる。それまで私は実家暮らし。夫は一人暮らしでケトルを持っていたが、かつて友人から譲り受けたものらしくかなり年季が入っており、ろくに手入れもしていないので、流石に捨てることになった。そこで連れ立って家電量販店へ行き、二人で選んだのがこの『わく子さん』だったのである。
わく子さんは日々、その腹の中で湯をふつふつと沸かした。温度調節などという器用なことはできない。沸騰させるにはオンに入れ、沸けば自動でオフになるスイッチがあるだけの機構。しかし充分な量の湯を、期待通りのスピードで、蒸気をその身に封じて沸かしてくれる。私たちはそれで満足だった。お茶を淹れるにも、カップ麺を作るにも、湯煎をするにも。わく子さんは私たちの生活に欠かせない存在であった。それなのに。
覆水盆に返らず。
時すでに遅し。
後の祭り。
嗚呼、この種の慣用句のなんと豊富なことか。それだけ人は後悔を積み重ねて来たのだろう。そして私はまさに、その只中にいる。
全ては私のせいであった。
その時私は、夕飯のために米を炊こうとしていた。米を研いだらすぐに釜へ移せるよう、食器棚のスライドテーブルを引っ張り出して炊飯器の蓋を開けておいた。しかし米びつの中身は一合にも足りず、新しい米を継ぎ足さねばならなかった。私は別室から米袋をえっちらおっちら運び出した。島根県仁多郡産コシリカリ、5kg。「仁多米」と呼ばれ、ふくよかな甘みともっちりとした粘りのある、棚田で育った大変うまい米である。その米袋を、私は腹のあたりで抱えていた。
わく子さんの定位置は、炊飯器の隣である。昨晩湯を沸かすのに使い、カビるのを恐れて蓋を半開きにしていた。それも良くなかった。
狭い家である。片側には冷蔵庫、片側には炊飯器、認識していたのはおそらくそこまで。胸から下は米袋に遮られ、視界不良であった。米袋の端が、わく子さんをちょん、と突いた。
そうして起こった、悲劇であった。
私の無精がいけない。私のぼんやりがいけない。私のうっかりがいけない。わかっている。わかっていても、わく子さんはもう元には戻らない。
私は震える指先で、夫にショートメッセージを送った。
〈ごめん、わく子さん落としてちょっと割れちゃった〉
程なくして、勤務中の夫からも返信があった。
〈わく子さん……〉
夫も言葉が出ないようである。本当に申し訳無いことをした。後悔の波が再び襲ってくる。
〈使えないレベル?〉
〈ふたが欠けた。蒸気でちゃうかも〉
〈あー。一回使ってみて沸けば……か?〉
そのやり取りで、自分がまだわく子さんの負傷具合を最後まで確認していないことに気付かされた。落ち着いて、直視しなければならない。
私はわく子さんの蓋を軽く洗い、500mlほどの水を入れて、祈りを込めながらえいやとスイッチを入れた。
スイッチがオレンジに点灯する。
ブン……と低く唸るわく子さん。シューっと遠くの機関車のような音。それは次第に大きくなり中の水が泡立ってくる。ゴポゴポという重い響きと共に勢い良く水面が跳ねるのが、ポットの窓から見える。やがてカチッと乾いた音がしてスイッチが切れ、わく子さんは沈黙した。
湯は、ちゃんと沸いている。
速さもいつも通りである。
ひとすじの蒸気も出ていない。
わく子さんは、まだまだ動けるのだ。
帰宅した夫と共に、わく子さんの無事を祝して、わく子さんの沸かした湯で紅茶を淹れた。実に美味しいアールグレイであった。
ありがとう、わく子さん。すまなかった、わく子さん。
あなたの傷は直らないが、湯を沸かす度に私自身への戒めとしよう。
だから今しばらく、私たちを助けてほしい。
わく子さんは、今日も炊飯器の隣に鎮座している。欠けた丸い蓋を、ちらりと私の方に向けて。
我が家のわく子さん 灰崎千尋 @chat_gris
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